5話 保健室、学校、那由多
日本のドラマとかアニメでみたことがある、日本の学生の……
通うような校舎……
さっきの女…… 那由多は日本人か?
いや、純粋なアジア人には見えなかった。多少混血かも。国籍も育ちも日本かもしれないが。人種とバックグラウンドはなんだろう。まともな人間に久しぶりに、初めて会ったような感覚。いや、まともだと言っていいかはわからないけど。
そもそも俺は誰だ。
外は雨。あの洞窟で見ていた雨の海が窓の外に見える。
風が強そうで、薄い窓が時折軋んでいるような音を立てる。
時刻はなんだ? 空の感じから午前中のように思えたが昼下がりでもおかしくなかった。
廊下を進んで行こうかと思ったが出てきた部屋を振り返る。
日本語で保健室。と書かれていた。
日本語読めたっけ? 俺は誰だ? 何人だ?
窓に映る自身の姿を改めて見ると、何人だかよくわからないような男。純粋なアジア系には見えない。30過ぎくらいで見た目はいけてる男だ。年齢不詳、肉体も筋肉質で俳優かアスリートのよう。
記憶が浮かんでこない。
自分のことを考えると頭が重くなっていく、倒れそうなほどに。肉体までもがひどく鈍重に感じる。
ウゲェぇぇ!
吐き気が一気に膨れ上がり、思わず大きくえづいた。
最悪だ。
……これ以上考えないようにしよう。
再度保健室に入ると、部屋の中に那由多がいた。
灯りをつけていて薄暗い。
薄暗い? 壁時計を見ると、針は6時40分を指していた。
廊下側を振り返る、いつの間にか太陽は沈み、地平線と一緒にある建物の後ろに僅かに淡い光を漂わせるだけになっていた。
那由多は猫背になりながらパソコンに夢中で何かタイピングしている。
声をかけても返事をしない。おい、と肩を揺すると、メガネがずり落ちそうになりながら__
__ちょっと! 乱暴はやめてください!
悲鳴混じりの声で非難される。
「時間がおかしいんだ、どうなっている?」
「はぁ…… ここはそんなものじゃないですか?」
「よくあるのか?」
「そういってます! なんなんですか、もう!」
聞けばあるというし、那由多自身がここへきてまだ数日くらいな気がするなどと曖昧な話をしていた。PCではさまざまな記録をつけているらしい。
「お前もここがどこだかわかっていないんだな? 他に人はいるのか?」
突然、PCからUSBを取り出した那由多がこちらへ立ち上がって、抱きしめてきた。
「おい、なんだ?」
シーっと人差し指を唇に当ててきて、黙って那由多の顔を見ると突然キス。
柔らかな唇、柑橘類の爽やかな味を感じた。理解不能なことが起きていた。美人の白衣のショートカットの女となぜ自分が唇を合わせたのか、その答えが浮かんでくるはずもなく、那由多に質問する前に__
「人! そうでした、探さなきゃ! では、私は行きますね!」
「……は?」
突然、ノートパソコンを引き出しから取り出して、保健室から出ていってしまった。
呆然として、何秒か遅れて廊下へ出ていく。すると那由多の姿が見えない。
たった何秒だけだ、こんなに早く廊下から忽然と姿を消すなんて……
自らの時間感覚を疑う。
保健室は薄暗い、蛍光灯がチカチカと消えそうに点滅を繰り返し、ジーッという音だけが静かな部屋にあった。
「この部屋に閉じこもっていても仕方ない、少し薄気味悪いが……」
廊下から部屋を見て回ることに。
**
もう日が暮れて暗くなった廊下だが真っ暗というほどではない。窓の外、校庭のフェンスには野球練習場にありそうなライトがついていてその光で校庭が照らされていた。
保健室から出てすぐ横にある教室へ。
教室へ入るとさらに薄暗い。
教壇、黒板、机と椅子が並び、奥にはロッカー。人っこ一人いない。
黒板にはチョークで相合傘が描かれていた。
>>清水|小清水
清水と小清水?
その二人がカップルなのか? というか、この教室の感じだとここは中学校だろうか。……いやどうでもいい。
もういい。
教室から出ると違和感、何かが変わった。保健室を見ると生活指導室になっている。
「……保健室はどこいったんだよ!」
中は無人で折りたたみ式の長テーブルが二つ部屋の中心にあり、その周りにパイプ椅子。プリントされた紙が乱雑に机の上に置かれていた。
普通教室以外もざっと見ていく。全て軽く入り口からさっと中を見るだけ、人がいるかどうかだけでいい。
美術室、図書室、音楽室、理科室、PCルーム、技術室、放送室。
「……結構色いろあるな。……そして誰もいない」
その後も部屋を巡るが収穫は無し。
階段の前で立ち尽くす。
「……上に行くべきか、下に行くべきか」
……上に行こう。
階段を上がると、この上は屋上のようだった。
おそらく今三階にいる、さっきまで二階にいたのか。保健室、今は生活指導室があったのが二階。三階は何がある?
結論から言えば、似たような教室とロッカー。ほとんどが普通教室。
早足でさっさと扉を開けて回る。
誰かいませんか、などと声を出す気にもならない。どうせいないのだと、そう感じていたからだ。
三階にある教室の半分ほどを確認したあたりで、実物大のレッサーパンダのぬいぐるみが教室内で誰かのカバンを開けているのを目撃。
……ぬいぐるみが動いている。
ぬいぐるみは割とリアルな作りで、それが俺の存在に気づくと固まった。
一瞬目を泳がせてから、トテンと机の上から落ちて転がった。
ぬいぐるみに戻ったのか? それともぬいぐるみがぬいぐるみのフリをしているのか?
教室内に入り、拾い上げるとぬいぐるみが息を呑んだような気がした。若干怖いし、こっちまで緊張してくる。こんな得体の知れないもの掴んで大丈夫だろうか。B級ホラー映画のように突然噛みついてこないよな?
勇気を出して話しかける。
「…おい」
「……」
「おい、返事をしろ。ここに人間はいるか?」
ぬいぐるみに声帯はなさそうだが、声が返ってきた。少し高い声でしたっ足らず。
「……ミィ答える、したら逃がして?」
「ミー? 」
「ミーの名前、ミィ……」
「……わかった、逃す」
「ここに人間はいない、とミーは思う…… ごめんなしゃい!」
両手で顔を覆い隠すようにしながら謝ってきた。
殴られるとでも思ったのか?
ミィを解放する。
「ありがとう。逃げていい」
「う、うん…… こちらこそ、ありがとう……」
レッサーパンダのぬいぐるみのミィはお辞儀して四つ足でトテトテと距離をとって教室から出ていく。
去り際に__
ー頑張って、お代官様……
謎の言葉を残していった。
……なんだったんだ、あれは。俺はお代官様じゃないよな? いや知らないけど。
もう一階へ行こう。
廊下を出て階段へ。階段からまっすぐ伸びる廊下の奥を何気なく見ると__
__巨大な般若の顔が廊下の奥からこちらを見ていた。