第二章 声を取り戻せ-2
夜九時過ぎ。
街の人々が家路につく中、保己は、自身が籍を置くラドクリフ・アナウンススクールの最終コマの授業を終え、再びアレク・ベル総合病院へと向かっていた。
一般人の入院患者への面会受付は、とっくに終わっている時間であるが、事前に病院に連絡を入れて事情を説明し、特別に許可を取っていたのだった。
(杏はそろそろ、家に帰った頃かな)
病院の最寄り駅につき、駅前に停まっていたタクシーに乗り込んだ保己は、平恋のことと同時に、杏のことも考えていた。
当初は、彼女が平恋の様子をこまめに確認し、そこに保己が合流する形をとろうとしていた。
しかし、杏の負担と明日の勤務のことを考え、交代で平恋の様子を見守ることにしたのだ。
そうしているうちに、タクシーは病院に到着した。
表玄関は閉まっているため、保己は、病院の裏にある時間外通用口へ向かった。そこから平恋の入院している精神科病棟は、すぐである。
保己は、階段を上って三階まで上がり、人気の少ない渡り廊下を渡って、精神科病棟へ向かった。
そして、ナースステーションで再び事情を説明し、平恋の病室の前にやってきた。
「失礼します」
昨夜とは違い、今度はきちんとノックをして、少し間を置いたうえで、保己は平恋の病室へ入った。
病室は静かであり、ベッドの上の平恋は、未だ昏睡状態だった。
昼間とは違い、首筋には、手術室では外されていたサポーターが巻かれていた。きっと、病室に運ばれたあと、看護師たちが巻いたのだろう。
そんな病室内は、昨日と大きく違う点があった。
丸椅子に座って平恋を見守る、着物姿の女性の先客がいたのだ。
その女性は、保己が入ってきたことに気づいて、振り向いた。
女性は、ストレートヘアの白髪や、顔に刻まれたしわなどから、七〇代以上であろうと推測された。
しかし一方で、顔立ちは整っており、特に大きな目が印象的だったため、老いを全く感じさせない雰囲気を漂わせていた。
保己は彼女に、どことなく平恋の面影も感じた。
「あの……どちら様で?」
扉を開けたまま、病室の入口で立ちつくしている保己に、女性は品のある声で訊いた。
それを受けて、保己は我に返った。
「私は、佐里場と申します。そちらにいる花輪さんの、リハビリ治療を担当している者です」
保己は名乗って、女性のもとへと歩み寄った。
「まあ、平恋の。いつもお世話になっております」
女性は立ち上がって、保己に深々と頭を下げた。
「いえいえ、そんな……ところで、失礼ですが、あなたは?」
今度は、保己が女性に訊いた。
「これはこれは、申し遅れました。私は、中村滝乃と申します」
「中村……?」
女性の名乗りに対し、保己はいまいちピンとこなかった。石井医師から聞いた話では、中村という女性の話は、一切出ていなかったからである。
「この子のおばでございます」
「ああ、そういうご関係で……」
保己は、滝乃の話を聞きながら、心の中で少し驚いていた。
母を亡くし、父の宗也が収監中の平恋は、てっきり天涯孤独の身だと思い込んでいたからだ。
しかし、それと同時に保己は、平恋が今日までこの病院に入院し続けることができた理由が、わかった気がした。おそらく、滝乃が入院費などを工面していたのだろう。
「このたびは、平恋がご迷惑をおかけしまして、申し訳ございませんでした。朝、この病院からご連絡いただいて、長崎から、文字通り急いで飛んできたんですよ」
「長崎から!」
保己は、驚いて答えた。
「この子、もうケガは治っているんです。ご無理言って、今も入院させていただいているのに、こんな騒ぎを起こしてしまって……」
滝乃は座って、恐縮そうに言った。
「そんな……でも中村さん、花輪さんの首のケガが治っていること、ご存じだったんですね」
「ええ。治ったというのを聞いてから、私の家に寄せることも考えました。ただ、口をきけず、精神状態も不安定だったこの子のことを考えると、そう簡単には……」
滝乃の言葉は、途中で途切れた。
これに対し保己は、平恋を引き取らなかった理由を、あえてそれ以上詮索しなかった。
滝乃は滝乃で、何かしらの家庭的事情があったのかもしれないし、何より平恋は、高校を卒業した一八歳である。親族を頼らず独り立ちしても、おかしくはない。
滝乃は、少し間を置いて、ベッドの平恋を無言で見つめた。
それを見て、保己もまた、平恋を無言で見つめた。
静寂と沈黙が、病室を包んだ――。
「先生。戻るんでしょうか?」
静けさの中で、滝乃が切り出した。
「戻る、とは?」
保己は訊き返した。
滝乃の様子を見て、自分が正式な医療関係者ではないということは、指摘しなかった。
「この子の声と、生活です。以前の病院からの連絡では、失声症という病気だと聞いているのですが……」
「失声症は、機能の問題ではなく、精神的な問題が原因の病気です。花輪さんの声が戻るかどうかは、彼女の精神の安定とリハビリ治療、そして何よりも、声を取り戻したいという強い意思にかかっています」
滝乃の不安を払拭するために、保己は、杏から教わったことなどを思い出しながら、丁寧に説明した。
「逆に言えば、この子にその意思がなかったら、一生このままなのでしょうか?」
「それは……」
滝乃の問いかけに、保己は言葉に詰まってしまった。
今の平恋の状況、そして昼間見た首筋の古傷を思い出すと、安易に滝乃を安心させる返事をすることはできなかった。
しかし一方で、保己は平恋の声を、まだあきらめたわけではなかった。
「まず我々が、花輪さんが立ち直ることを信じましょう。彼女が精神的に不安定なのは、卒業式の日の事件のショックから、立ち直ろうとしているからだと思うんです」
保己は、そう滝乃に返した。
「先生……」
「希望はあります。少なくとも、私は、そう考えています」
すがるように見つめてくる滝乃に、保己は力強く言った。
「ありがとうございます、先生。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
滝乃は、再び深々と頭を下げた。
「そんな。これも私の、仕事ですから」
保己は恐縮して返答すると、ふと壁掛け時計を見た。
いつの間にか、時刻は午後一一時前になっていた。
「中村さん。今日はもう遅いですが、これからどうされるんですか?」
「飛行機の券を取ってすぐ来たので、ホテルの予約が取れなかったんです。病院とご相談して、今日はこの病室に泊めていただくことにしました」
「じゃあ、私も今夜、ここでご一緒させていただいてもよろしいですか?」
保己の提案に、滝乃は驚いた。
「えっ? でも先生、明日のお仕事もあるのでは」
「私、明日は遅番で、ニュースの仕事もお昼からなんですよ。花輪さんがいつ目を覚ますか心配ですし、妻に確認をとって、問題なければ、朝の一〇時前くらいまでだったら、ここにいられます」
「遅番? ニュースの仕事?」
滝乃は、きょとんとしていた。
「申し遅れました。私、本業はアナウンサーで、医者じゃないんですよ。花輪さんのリハビリ治療は、ボランティアとして、協力させていただいているんです」
「そうでしたか。存じ上げませんでした」
滝乃は、再び恐縮そうに言った。
「いやあ、病院に出入りしていて、患者のリハビリ治療に携わってると言ったら、誰でも医者か医療関係者だと思いますもんね」
保己は笑いながら言い、そして立ち上がった。どことなく、滝乃と打ち解けられてきたような気がした。
「中村さん。ところで、今日ここに泊まられるということですが、食事はもうとられたんですか?」
「いえ、まだなんです」
「奇遇ですね。私も、まだ食べてないんですよ。職場を出てから、ここに直行してきたものですから」
保己は、明るい声で滝乃に言った。
「じゃあ、どこかで食べましょうか」
滝乃の反応もまた、保己の言葉を受けたからか、だんだんと明るくなってきていた。
「この時間じゃあ、たいていのお店は開いてませんね。妻に連絡を取るついでに、近くのコンビニで、何かいろいろと買い込んできますよ」
「すみません、お願いします」
滝乃の返事を聞いて、保己は病室を出た。
その足取りは、軽やかだった。
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