第一章 三重苦の少女‐5
「花輪さんは、まさに三重苦の少女だったってわけね」
石井医師の診察室から、平恋の病室へ向かう道中。杏は突然つぶやいた。
「三重苦?」
並んで歩いていた保己は、訊き返した。
「両親はそれぞれ、死別と収監中でいないでしょう。そして、生活に困っていたのでお金もない。さらに、卒業式の日の事件のせいで声が出ない。あの子は三つの苦しみ、三重苦を抱えているのよ。しかも、そんなあの子の名前が、平恋だなんてね」
杏は、指折りしながら言った。
「ははーん、そういうことか。言いたいことはわかるよ。でも、偶然さ」
保己は、杏の言葉に理解を示しながらも、同意はしなかった。
「それは、私も頭ではわかってるけど……」
「歴史上の偉人と名前が同じだからって、境遇まで運命づけられるわけじゃない。花輪さんなら、きっと自分を変えられるよ」
保己は、きっぱりと言った。
そうした会話をしているうちに、二人は平恋の病室の前に到着した。
時間は午後六時過ぎ。入院患者の夕食の時間であるため、平恋も間違いなく在室してるはずである。
「へぇ、今時の病院食って、けっこう面白いものが出るんだな」
平恋の病室の扉をノックしようとした保己は、その隣にある掲示板を見て、興味深そうに言った。
掲示板には、病院食の献立表が掲載されていた。それによると、今日の夕食は、ご飯と減塩みそ汁のほか、鮭のムニエルやシーザーサラダが出るようである。
「長居すると、ほかの患者さんに迷惑だわ。もう面会時間もとっくに過ぎてるんだし」
「そうだな。さっさと入ろう」
杏に促され、保己は平恋の病室の扉をノックした。
しかし、平恋の反応が確認できなかったため、再度ノックして「入るぞ」と言い、保己と杏は病室に入った。
「……!」
平恋は、保己たちを視認し、その予期せぬ訪問に驚いた。
ベッドから起き上がっていた彼女は、ちょうど食事を終えた様子であり、脇に置かれた移動式の机には、夕食のプレートが置かれていた。
「やあ。こんな時間にごめん。どうしても話がしたくて、来たんだ」
そう言って保己は、杏とともに、ベッド脇にある丸椅子に座った。
保己が夕食のプレートに目をやると、どの料理も、少し口をつけた形跡はあるが、ほとんど残されたままだった。
「晩ご飯、食べないのか?」
保己の問いかけを受けた平恋は、視線を反らしてうつむき、その後ベッドの脇にあるタブレットを手に取った。
『お腹、減ってないから』
「そうか……まあ、そういう日もあるよな」
平恋のそっけない回答に対し、保己はあえて、その理由を訊かなかった。
『こんな時間に、何しに来たの?』
今度は平恋が、保己に訊いた。
「石井先生から、話を聞いたんだ」
「……!」
平恋はベッドから身を乗り出した。彼女の様子から、強い衝撃を受けているのは明らかだった。
『先生と、何話したの?』
「花輪さんがこれまで、どんなふうに生きてきたかだよ」
『そんな……勝手に!』
平恋は、うらめしそうに保己をにらんだ。
「すまん。だけど、花輪さんのことをもっとよく知って、リハビリ治療に役立てたいと思ってさ」
『大きなお世話よ!』
そう言って平恋は、ベッドにタブレットを投げ出し、保己たちに背を向けて、目をつぶって寝転んでしまった。
「今まで、いろいろ苦労してきたんだね」
「……」
保己は、冷静さを保ちながら、平恋に優しく話しかけるが、彼女の反応はよく確認できなかった。
「両親がいなくなったり、生活に困ったり、そして今声が出せなかったりという状況は、花輪さんにとって、とてもつらいと思う」
「……」
「でもね、私は……そういう困難は、本人の頑張り次第で、乗り越えられると思うんだ。今こうして入院してることも、きっと未来で何かの役に立つはずさ」
保己のこの言葉を聞いた途端、平恋は目を見開いた。そして、再びタブレットを手に取った。
「だから花輪さん。これからリハビリ治療を頑張って……」
『わかったような口、利かないで』
平恋のタブレットの機械音声により、保己の言葉は途中でかき消された。
『入院してて、八方ふさがりな今の状況が、何かの役に立つわけない。人生、遠回りしてるだけ』
「そうとも限らないさ。それに、声の方はリハビリ治療を頑張れば……」
『声が出せるようになっても、自分を立て直せるとは思えない』
保己がいくら言葉をかけようと、平恋の態度は変わらなかった。
「花輪さん、私はね」
『結局、私をリハビリ治療に来させたいだけなんでしょ?』
「確かに、リハビリ治療には来てほしいさ。でも、それだけじゃない。花輪さんに、声を取り戻して立ち直ってほしいと、私は本気で……」
『患者の私が拒否してるんだから、ほっといてよ!』
保己の思いを、平恋は強く拒んだ。
タブレットの機械音声の抑揚があまり無いこともあり、彼女の言葉は、より投げやりな感じがした。
「花輪さん! そんな言い方はないんじゃないか?」
「ちょっと保己さん、落ち着いて」
思わず怒りをあらわにし、立ち上がった保己を、杏が止めた。
「杏……」
杏の顔を見た保己は、落ち着きを取り戻して、再び丸椅子に座った。
「花輪さん。あなたも、少し言い方を考えなさい。保己さん――佐里場さんも、あなたのためを思って、色々考えてくれているのよ」
「……」
杏の言葉を受けた途端、平恋は黙りこくってしまった。
「花輪さん?」
保己は首を伸ばして、平恋のうかがおうとした。
しかし、完全に背を向けていた彼女の表情を、やはり確認することはできなかった。
『……帰って』
平恋は、しばらく時間をおいてから、タブレットを使って保己にそう返した。
その身体は、少し震えていた。
『帰って!』
平恋は、枕元にタブレットを置き、直後勢いよく起き上がって、保己に思い切り枕を投げつけた。
「!」
予期せぬ反応に驚いた保己だったが、とっさに両手で、その枕を受け止めた。
「保己さん。もう時間も時間だし、本人がこんな状態じゃあ、これ以上話しても説得できないわ」
杏は、保己に耳打ちした。
「ああ、そうだな」
保己は小声でつぶやき、枕を持って立ち上がった。
「花輪さん。今日はもう遅いし、私たちは帰ることにするよ。晩ご飯を邪魔して、悪かったね」
保己は平恋に枕を返し、杏とともに部屋を出て行った。
「……」
平恋は、そんな二人を、ただ黙って見送った。
そして、病室の扉が閉まったのを確認すると、返してもらった枕を見つめ、そっとベッドに置きなおし、ベッドに横になった。
* * *
保己と杏は、平恋の病室を出た後、しばらく無言で一緒に歩いていた。
やがて二人は、職員通用口から病院の外へ出た。
外は既に暗くなっており、雲一つなく月がきれいに見えたが、吹いている風は、夏の季節には珍しい、冷たいものだった。
「保己さん。やっぱり、逆効果だったんじゃない?」
杏が切り出した。
「何がさ?」
「花輪さんの病室に行って、石井先生から聞いた話を言ったことよ」
不安そうな杏に対し、保己は、そうしたことを何も感じていない様子だった。
「そうかな。花輪さんみたいなタイプは、こちらが理解を示して、歩み寄りながら話をするのがいいと、思ったんだけどなあ」
「でも、保己さんがその話をしてから、あの子ひどく錯乱してたじゃない」
杏は、保己の先ほどの行動が、思い付きではなく彼なりの考えがあったことを理解したが、その結果を重く見ていた。
「だからって、隠したまま接するのも難しいだろう。知ってしまった以上、いつかボロが出ちゃうだろうし」
「それも、そうだけど……」
杏に対して、保己はきっぱりと答えたが、その心の内では迷いが生じていた。
平恋が抵抗することは、ある程度予想していたものの、あそこまでのものは想定外だったからである。
「まあ、何とかなるさ。花輪さんなら、きっと立ち直ることができるよ」
保己は、自分に言い聞かせるように、杏に言った。
「どうして、そう言い切れるの?」
杏は、保己に訊いた。
「昔の俺と、似てるところがあるからさ」
「似てるところ? どのあたりが?」
「俺も昔、自分がいくら頑張っても、周りの影響で結果が出なくて、イライラしていた時期があった。不満だらけの人事異動、なかなか来ない自分の出番。挙句の果てには、年を食ったら第一線から外されて、今じゃ講師業の方がメインの有様さ」
保己は、自嘲気味に言った。
「正直、今の人生は、俺がアメトミテレビに入った時に、思い描いていたものとは違う。でも、こうして俺は今も生きてるし、なんだかんだで楽しくやってる」
杏は、保己の話を頷きながら聞いていた。
「自分じゃどうにもできない周りのせいで、一時的に行き詰まることなんて、人生よくあることさ。だから花輪さんも、それに気付いてくれれば、立ち直れるさ」
「花輪さんが受けている精神的ダメージは、相当なものよ。そんなに上手く、割り切れるかしら」
保己の考えを聞いてもなお、杏は不安そうな様子だった。
「できるよ。きっと。そのためにも、俺たちがいるんだ」
杏の不安を払拭するように、保己は力強く言った。
花輪さんは立ち直れる。必ず立ち直れるはずだと、保己は、何度も心の中で繰り返していた。
* * *
夜一〇時。アレク・ベル総合病院の精神科病棟は、消灯時間を迎えていた。
当然、平恋の病室も例外ではなく、夜一〇時になったと同時に、病室の蛍光灯がフッと消えた。
「……」
ベッドに横になっていた平恋は、消えた蛍光灯を、ただじっと見つめ続けていた。
平恋は、保己のことを考えていた。
この病院に入院して以降、何人もの看護師などが、平恋を介助してくれたり、リハビリに協力してくれたりした。
しかし平恋は、事件のショックで、上手く他人と接することができなくなっていた。
平恋のとる反抗的な態度は、その弊害の一つであり、それを受けて、多くの人々が愛想を尽かし、離れていっていた。
人々が離れていくたびに、平恋の心は傷ついた。
そのせいで、ますます他人と上手く接せなくなり、素直になれず、反抗的な態度をとってしまう。平恋は、一種の負のスパイラルに陥っていたのだ。
だが保己は、それまで平恋が会ってきた看護師たちなどとは違う。
どういう事情があるのかは知らないが、どんなに反抗的な態度をとられても、熱心に自分に向き合おうとしてくれている。
(佐里場さんとなら、本当に……)
その時、平恋の脳裏に、夕食時の保己たちとの会話がよみがえった。
保己は、どうやら石井医師から、自分の過去や入院理由を聞いたらしい。
おそらく、卒業式の日の事件のことはもちろん、自分の生い立ちなども、知っているのだろう。
そう考え始めた途端、平恋の中で、不安が頭をもたげてきた。
表向きは、勝ち気で物怖じしない性格である平恋だったが、それは、自分の本心や秘密を、他人に知られるのが怖いという思いの裏返しでもあった。
今回の保己の行動のように、自分の隠したい一面を、しかも意図せず他人に知られるというのは、何よりも苦痛だったのである。
(佐里場さんたちは、もう全部知ってる。何もかも……)
保己や杏が、たとえ自分の秘密を知っていても、それを安易に口外したり憐れんだりしないだろうとは、平恋も予想していた。
夕食時に、保己が励ますようなことを言ったのは、おそらく、純粋に自分のことを心配していたからだ。
問題ないはずだ。平恋は、自分にそう言い聞かせて、心を落ち着けようとした。
しかし今度は、その夕食時における、保己の別の言葉が脳裏をよぎった。
「困難は、本人の頑張り次第で、乗り越えられると思うんだ。今こうして入院してることも、きっと未来で何かの役に立つはずさ」
平恋は、保己のこの言葉が信用できなかった。
正確には、信用したいと思っていたが、過去の経験や、現在の自分を取り巻く状況が、それを難しくしていた。
母親の死から、父親である宗也は豹変し、生活は転落するように苦しくなっていった。
高校進学は、金銭的な事情や申請の遅れなどから、希望するところに行けなかった。
卒業後の進路として、確保していたショップ店員の内定も、卒業式の日の事件が原因で、一方的に取消しになった。
その気になれば、ショップ側に法的な異議申立てなどをする余地のある事案だったが、身も心もボロボロな平恋に、そんな気力や余裕は無かった。
(私の人生、うまくいかないことばっかりだな)
平恋は、ため息をつきながら思った。
そして、しばらくしたのち、平恋はベッドから起き上がり、脇にある戸棚の引き出しを開け、ビニール袋を取り出した。
(薬飲んで、落ち着こう)
ビニール袋の中には、個包装の錠剤がいくつも入っていた。石井医師から定期的に処方されている、精神安定剤である。
通常であれば、このような薬は、処方量に調整が入るものである。
しかし、平恋は薬を使うことはめったになく、また石井医師に薬が余っていることを申告していなかったため、手持ちの薬は増えていく一方であった。
「……」
平恋は、錠剤を一つ口に入れ、再び保己のことを考え始めた。
信じたいという思いと、素直に信じられないという思い。相反する二つの感情に、彼女の心は揺れ動き、同時にもどかしさを感じていた。
(どうすればいいんだろう、どうすれば)
そうやって考えている間、平恋は無心で、錠剤を口にし続けていた。
やがて頭がずっしりと重たく感じるようになり、気持ち悪くなってきた。
水でも飲もうと思った瞬間、平恋の目の前は真っ暗になった。
<第二章へつづく>
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