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ヘレンの声をきけ  作者: 御子柴 志恭
第一章 三重苦の少女
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第一章 三重苦の少女‐3

 保己と平恋が出会ってから、一週間後。


 彼と杏は、再び平恋のリハビリ治療の時間を迎えていた。


 二人とも、言語療法室で座って待っていたが、落ち着いている杏に対し、保己はそわそわしていた。


「保己さん。そんなに何度も時計を見ても、時間は進まないわよ」


「そりゃあ、そうだけどさ……」


 杏に指摘されつつも、保己は、自分の腕時計やスマホを頻繁に確認していた。


 平恋がリハビリ治療に来るかどうか。誰よりもそれを心配していたのは、保己だった。


 やがて、保己の腕時計は、午後二時を指した。


「時間だ!」


 そう言ったと同時に、保己は腕時計から顔を上げ、扉を凝視した。


 しかし、扉はうんともすんとも言わず、誰かが入ってくる様子はなかった。


「……!」


 保己は無言で立ち上がり、扉を開けて、外の廊下の様子を見回した。


 もしかすると、ちょっと遅れて来るのかもしれない。淡い期待をして、彼は平恋の姿を探したが――先週と同じく、付き添いの看護師を含めて、それらしき姿はどこにも見当たらなかった。


「今日もサボりみたいね、彼女」


 丸椅子から立ち上がり、保己の背後に近づいた杏が、言った。


「俺はあきらめないぞ」


「あきらめないって…あっ、保己さん!」


 杏が気づいた時には、保己は言語療法室を飛び出していた。


 彼女も、追いかけるために部屋を出て、彼が平恋の病室に着く頃に、やっと追いついた。


「花輪さん! いるんだろう? 入るぞ!」


 先週とは違い、保己は、躊躇なく病室の扉を開けた。


「保己さん! ……もう」


 杏は、保己を制止しようとしたが、その前に彼が病室に入ってしまったため、やむを得ず一緒に病室に入った。


 病室には、相変わらず掛け布団にくるまった平恋がいた。


 しかし、先週とは違って、看護師は席を外しており、また平恋もじっとしていたため、病室内はとても静かだった。


「また、先週と同じように……今日はちゃんと、リハビリ治療に来てもらうぞ!」


 保己は、平恋から掛け布団を引き剥がそうとした。


 しかし、彼女は無言でその掛け布団を強くつかみ、頑としてそこから動こうとしなかった。


「このっ……テコでも動かない気か! 今日はアナウンススクールの授業がないから、ずっと付き合うぞ」


 保己は何度も掛け布団を引き剥がそうとしたが、やはり平恋は動こうとしなかった。


「保己さん! 気持ちはわかるけど、ちょっとやり過ぎよ」


 彼の腕をつかんで、杏が制止した。


「でも……!」


「リハビリ治療は、確かにこの子のために必要だけど、義務じゃない。患者本人が嫌がっているのなら、過度に強要はできないわ」


「杏……」


 保己は、杏と平恋を交互に見て、掛け布団から手を離した。


「残念だけど、今日もあきらめましょう」


「……わかった。わかったよ。また、来週にしよう」


 しばらく黙った後、杏に同調した保己だったが、その表情や、なかなか病室から離れようとしない様子から、内心では納得していないであろうことは、明らかだった。


 そんな保己も、杏に何度も促されてようやく平恋の病室を出た。



   *    *    *



 二人が言語療法室に戻った時、もう外の太陽は、かなり傾いていた。


「しかし、あの子もなかなかの意地っ張りだな。あれだけ元気なら、首のケガが無きゃ、すぐ退院してるだろうに」


 保己は、丸椅子に座り、ため息をつきながら言った。


「首のケガ?」


 杏もまた、保己の隣の丸椅子に座って、訊き返した。


「そうだよ。彼女、首にデカいサポーター巻いてるだろ? あれのせいで入院してるんじゃ……」


 そう語る保己に対し、杏は怪訝な顔をした。


「花輪さんのサポーターのことは、詳しくはわからないけど、少なくとも、今の彼女の入院理由は、ケガのせいじゃないわよ」


「そうなのか?」


 保己は、杏の方へ身を乗り出した。


「だって、もしケガが原因だったら、整形外科とかに入院してるはずでしょ? 今の彼女の入院先は、精神科じゃない」


「そういや、確かに……」


 杏の指摘を受けて、納得した保己は、難しい顔をしながら、机にあった平恋のカルテを手に取った。


 目を皿のようにして何度も読んでみるが、具体的な入院理由や、彼女の過去に何があったかは、ぼかした表現にとどめられており、その詳細は読み取れなかった。


「改めて読んでみると、このカルテ、不可解なところが多いな。花輪さんの入院理由や、過去に何があったのか、ほとんどわからないじゃないか」


 カルテから顔を上げた保己の表情は、不満げだった。


「言語聴覚士は、医療専門職だけど、医者じゃない。だから、もらう患者の情報の一部が伏されてるのは、おかしなことじゃないわ」


杏は、カルテのことについて、特に気にしてはいないようだった。


「そうなのか……」


 保己は、彼女の反応を残念がりながら、再び平恋のカルテに目を落とした。


 カルテにサインされた名前から、これの作成者は、この病院の精神科医である石井いしいという医師のようだった。


「このカルテを作ったの、石井っていう精神科医みたいだ。この人に訊いたら、何かわかるかな」


「どうでしょう? 最近は、個人情報保護のこともあるから、難しいかもしれないわよ」


 閃いた保己の晴れやかな様子とは対照的に、杏は表情を変えず、淡々としていた。


 しかし保己は、平恋のことを知る手掛かりがつかめたことから、あきらめようとはしなかった。


「でも、やってみる価値はあるってことか」


 保己は、確信した様子で、勢いよく立ち上がった。


「保己さん?」


 杏は、彼の突然の行動に驚いた。


「杏! この石井って医者のところに行ってみよう。一緒に来てくれないか」


 保己は彼女に呼びかけたが、返ってきたのは渋い顔と残念な返事だった。


「私、これから別の患者さんのケース会議に出ないといけないのよ。今からは無理よ」


「……そうか! 今日は俺の方が休みだったから、つい忘れてたよ」


 保己は、しまったという顔をして、照れくさそうに笑った。


「ごめんなさいね。ケース会議が早く終われば、合流できるかも……」


「大丈夫さ。俺一人で、医者のところに行ってみる。何か分かったら、連絡するよ」


「OK。じゃあ、またあとでね」


 杏の返事を聞き、保己は荷物の整理を始めた。


 そして、言語療法室を出ようとした時、杏が「待って」と呼び止めた。


「なんだ、杏?」


 保己が振り返ると、杏はやや困惑した顔を見せていた。


「保己さんは、なんで花輪さんにそんなにこだわるの?」


「そりゃ、杏と一緒に受け持ってる、患者の一人だからさ。放っておけないのは、当然だろう」


「それだけ?」


 保己の回答に、杏は納得していなかった。


「それだけ? って……」


 彼女の追及に、保己は言葉に詰まってしまった。


「保己さん、ここ最近変よ。花輪さんのことになると、ほかの患者さん以上に、熱を入れてる感じがするから」


 杏は、立ち上がって保己に近づき、顔を見上げながら言った。


「なんと言うか……あの子は、俺の嫌いなタイプだからさ」


 保己の回答に対し、杏は、依然腑に落ちない様子だった。


「嫌いなタイプ? まあ、あの子は態度が悪いから、苦手にしている看護師たちも多いけど……」


「そういうわけじゃないさ」


「じゃあ、何?」


 杏は、さらに保己に訊いた。


「俺は、自分で自分の道を閉ざしてるヤツが嫌いだ。今の花輪さんは、そういう人間になりかかってるように見える」


「いつも、駄々をこねてはリハビリ治療をすっぽかしてるから? もしかしたら、あの子の単なるワガママかもしれないわよ」


「いや、違うね。あの子には間違いなく、過去に何かあった。それが原因で、絶望してああいう風にふさぎこんでるんだ」


 そう語る保己の言葉には、かなり熱がこもっていた。


「だから、なおさらリハビリ治療を受けて、社会復帰してもらいたいんだよ」


「自分の道を閉ざす、か……保己さん。あの子にそう感じる理由って、何?」


「俺の勘だよ。でも、間違いない」


 保己は、自信満々に言った。


「人生、上手くいかないことだらけだよ。でも、自分から先に人生に降参するのは、もったいないと思わないか?」


 今度は保己が、杏に訊いた。


「言ってることは、わからなくもないわ。保己さんは、あの子が……花輪さんが、そういう人間に見えるってこと?」


「花輪さんに何があったのか、まだ俺たちは知らない。でも、そこから立ち直れれば、声も人生も立て直せると思うんだ」


「……」


 いつになく興奮気味に話す保己に、杏は圧倒された。


「俺のアナウンススクールでも、色んな生徒がいる。中には、結果が出なくて、あと少しのところであきらめてしまう生徒もいる」


「なってからも大変だけど、なるまでも大変だもんね。アナウンサーは」


「ああ。でもさ、自分が納得してないのにあきらめるって、自分自身ももやもやするし、後悔が残り続けるし、何もいいことないじゃないか」


 保己の今までの話を聞いて、杏は彼の、平恋にかけるリハビリ治療と更正への思いを痛感した。


「……保己さんの、花輪さんにかける思い、わかったわ」


 そう言って、杏は静かに頷くと同時に、言語療法室内にベルが鳴り響いた。


 机のデジタル時計を確認してみると、もう午後五時を指していた。


「いけない、ケース会議始まっちゃう! 保己さん、私も出るわ」


「わかった。じゃあ、あとで石井先生のところでな」


 保己がそう言った後、杏が身支度をするのを待って、一緒に言語療法室を出た。


 そして二人は、外来診察が終わり、静かになった病院の廊下で別れた。


 保己は、杏の姿が見えなくなるまで、見送った。


「さて……花輪さんの過去に、何があったんだ?」


 そうつぶやいて、保己は精神科病棟の方へと歩き始めた。

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