第一章 三重苦の少女‐1
「久子さん。最後に、口を大きく開けて、私の後に続いて発音してください。『あ・え・い・う・え・お・あ・お』。はい!」
七月上旬。とある平日の昼下がり。
都心近郊の、小高い丘の上にあるアレク・ベル総合病院。その中にある、一般的な診察室と構造がほぼ同じの言語療法室で、佐里場保己は、妻で言語聴覚士の杏や、看護師たちとともに、老婆の失語症のリハビリ治療を行っていた。
年齢は四五歳で、身長一八〇センチ。彫りの深い面立ちで、ノーネクタイのワイシャツにスラックスという、クールビズスタイルの保己の本職は、在京テレビ局・アメトミテレビのアナウンサーである。
彼は、本業で培ったその技術や経験を生かし、ボランティアとして、杏の受け持つ失語症患者の、リハビリに協力しているのだ。
「あ……え……い……う、え……お……あ……お……」
久子と呼ばれた老婆は、しわがれた声で、たどたどしく言った。
「おっ! 先週よりも、スムーズに発音できるようになりましたね」
保己は、小さく拍手をしながら、嬉しそうに言った。
「ありが……とう、ござい……ます。保己先生と……杏先生の……おかげです」
久子は、保己と杏に頭を下げた。
「久子さん、私は先生じゃないですよ。先生はこっち」
杏子を指さしながら、保己は笑いながら答えた。
「いいじゃないですか、保己さん」
保己の隣に座っていた杏は、ロングヘアをかき上げながら、微笑んだ。
四三歳になる杏は、薄黄色のブラウスに、グレーのスカートを履いていた。
それだけ見ると、一般的なOLのように見えるが、ブラウスの上から白衣を羽織っていることから、医療関係者であることは明白だった。
杏の職業である言語聴覚士は、言語や聴覚にかかる障がいを持つ患者に対し、検査やリハビリ治療等を行う専門職である。
しかし日本では、国家資格化されてからまだ二〇年ほどしか経っておらず、そのうえ有資格者不足も続いているため、制度としてはまだ発展途上な一面がある。
このアレク・ベル総合病院も、そうした言語聴覚士不足に悩まされており、正式な医療関係者ではない保己が、杏のボランティアとして起用されたのは、そうした問題の解消のためでもあった。
「まあ、杏がそう言うなら……」
保己は、少し恥ずかしそうに言った。
「さあ、久子さん。次のリハビリは来週ですからね」
杏は、保己の様子を気にせずに、久子と、次回のリハビリ治療の日程案内に入った。
「わかり……ました。今日は……ありがとう……ございました」
久子は、保己と杏に頭を下げた。
「それでは、久子さんを病室へお連れしてください」
杏に促された看護師たちは、「わかりました」と言って、久子とともに言語療法室を出ていった。
そして、彼女らが出ていったのを確認してから、杏は大きく息を吐いた。
「ありがとう、保己さん。今日も手助けしてくれて」
「いいよ。言語療法……リハビリ治療の補助って、思ったより楽しいし、今は本業の方が暇だからね」
保己は、杏に笑いながら答えた。
アメトミテレビのアナウンサーを務める保己だったが、彼の言うとおり、純粋なアナウンサーとしての仕事は少なくなっていた。
テレビ局内での、アナウンサーどうしの競争は熾烈で、それを勝ち抜いた者が、人気アナウンサーとして地位を確立し、様々な番組に出演していく。
しかし、その競争にさっぱり興味のなかった保己は、入社当初こそ人気番組の一アナウンサーを務めることがあったものの、歳を重ねるに連れ、じょじょにそうした機会は減っていき、デスクなどのアナウンサー以外の仕事が増えていった。
今では、アナウンサーとしての仕事は、番組間に放送される短時間のニュース番組程度で、空いた時間は、アメトミテレビが運営するラドクリフ・アナウンススクールの講師を務めたり、今回のように、ボランティアとして杏の仕事の手伝いをしたりしていた。
「そう言ってくれるのは、ありがたいわ」
杏は、ニコリと笑った。
「時間に余裕が出来たから、こうしたことも出来るし、この前の杏の四三歳の誕生日祝いだって出来た。若い頃よりも、今の方が充実してるよ」
「もう! わざわざ年齢まで言わなくても、いいじゃない」
「ハハハ、ごめんごめん」
保己と杏は、笑いあった。
「ところで、次の患者さんは誰だっけ?」
保己は、キャスター付きの丸椅子に座ったまま、机の方へと移動し、そこに置いてあるカルテをとった。
カルテには、『花輪平恋・一八歳』と書かれていた。
「この子を診るのは初めてだな。えっと、名前は花輪……ん? 杏、この子の下の名前、なんて読むんだ?」
カルテ手に持ったまま、保己は杏の方を振り返って、訊いた。
「カルテにふりがな無い? 平らな恋と書いて、『へれん』って読むのよ」
「へー! 変わった名前だなぁ」
保己は、カルテから顔を上げ、感心した。
その時、机に置かれたデジタル時計が、午後二時を指した。
保己は、カルテを持ちながら、丸椅子ごと杏の隣へと移動した。
「時間になったし、呼ぼうか。花輪さーん、どうぞ」
保己は、扉に向かって大きな声で言った。
ところが、扉からは誰も入ってこない。
「あれっ?」
おかしいと感じた保己は、立ち上がり、おもむろにドアを開けて、廊下を見回した。
多くの看護師や患者が行き交っているが、平恋と思われる少女の姿も、付き添いの看護師の姿も、どこにも見当たらない。
「おかしいな……杏! 花輪さんの姿が、どこにもないぞ。病欠か何かか?」
一度扉を閉めて、保己は心配そうに杏に訊いた。
しかし、そんな彼とは対照的に、杏はやれやれといった表情を見せた。
「あー……やっぱりね」
「やっぱりって?」
保己は、杏のもとへと戻った。
「彼女、リハビリ治療のサボりの常習犯なのよ。もうこれで、かれこれ五回目くらいじゃないかしら」
さらっと言う杏に対し、保己は目を丸くした。
「サボりの常習犯? なんでそんな子を、そのままにしてるんだ?」
「いくら連れてこようとしても、本人が駄々こねてダメなのよ。この前は、私も直接病室に行ったんだけど……」
あきらめた様子の杏に、保己の口調はだんだんとヒートアップしていった。
「だからって、放置はよくないだろ。なんなら、俺が病室見てくるよ」
「保己さんが行っても、あの子は……」
「ダメダメ! リハビリ治療の時間をすっぽかしてるんだ。そういう子には、きちんと言ってやらないと。杏も来てくれよ」
杏の言葉を遮った保己は、彼女とともに、言語療法室を出た。
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