第三章 アナウンススクールの試練-1
「どうして、こうなるかなあ」
一〇月上旬。平日夕方・帰宅ラッシュの時間帯前の、地下鉄車内。
まだ、さほど混雑していない車内で、スーツ姿の保己は、思わず小声でぼやいた。
この日は、ラドクリフ・アナウンススクールの後期日程――秋から始まる講座の、最初の授業日だった。
講師である保己は、今日から新たなクラスを受け持ち、授業をすることになるのだが、なんとそのクラスには、偶然平恋が所属していたのだ。
彼が、自分のクラスに彼女の名前があることを知ったのは、二週間ほど前のことだった。
初めてそれを知ったときはぎょっとしたが、「リハビリ治療を受け持っていたので、クラス変えをしてほしい」と申告する時間的余裕もなく、そのままズルズルと今日まで来てしまったのだ。
結局保己は、平恋が退院時に言っていた通り、本当に引き続き彼女の先生であり続けることになった。
(やっぱり、無理を言ってでも、クラスを変えてもらえばよかったかな)
彼は、心の中で後悔した。
別にやましい関係ではないが、クラスの中に見知った顔がいるというのは、授業がやりにくいからである。
そのとき、保己の脳裏に、一週間前の入校式における平恋の顔が浮かんだ。
当時の彼女は、退院時と変わらず、首にサポーターを巻いていたものの、スーツ姿に身を包んでおめかししており、保己の顔を見かけると、満面の笑みを見せていた。
(嬉しそうなのはいいけど、授業するこっちの身にもなってくれよ……)
保己がそう考えているうちに、地下鉄はアナウンススクールの最寄り駅に到着した。
下車した彼は、そのまま地上へと上がり、すぐ近くにある、ガラス張りの五階建て中層ビルの中へと入っていった。
ラドクリフ・アナウンススクールは、アメトミテレビの最寄り駅から二駅離れた中層ビルにあり、中間階三つにまたがって入居していた。
保己は、二階にあるガラス張りの自動ドアを抜けて、受付に入った。
アナウンススクールの職員室は、この受付と一体化していて、カウンターの向こうは、保己たち各講師のデスクが整然と並んでおり、さらにその奥には大きな窓があった。
保己は、そんな職員室の自分のデスクにつくと、荷物を置いて、授業準備を整えた。
* * *
三階にある、担当クラスへの教室へと向かった保己は、その扉の前に立った。
そして、深呼吸して教室へと入った。
「皆さん、こんばんは!」
教壇に立ち、授業用具を教卓に置いた保己は、元気よくあいさつをした。
アナウンススクールの教室は、その教育方針に基づき、一クラスあたり生徒が一六名とされていることから、それほど大きくはなかった。
しかし、室内を挟んで出入口の扉の向かい側には、手すり付きの大きな窓が設置されており、窮屈さを感じさせない造りにもなっていた。
教壇側には、教卓のほか、ホワイトボードやテレビが設置され、それらに向かって、長机が左右四つずつ配されており、一つの机に二人がつく形になっていた。
生徒たちは、皆一〇代か二〇代であり、一六人中平恋を含めた一〇人が、女性だった。
平恋は、薄手の黒い長袖シャツにベージュのバギーパンツ姿で、教壇から見て一番後ろの、右側の席に座っていた。
「こんばんは」
平恋を含む生徒たちは、保己にあいさつした。
まだ、生徒たちどうし出会ったばかりで、面識がないほとんどないからか、声は揃っておらず、どことなく恥ずかしそうだった。
「今日から、このクラスの授業を担当する佐里場です。半年間、よろしくお願いします」
保己は、そう言って教室を見回した。
生徒たちの表情が、皆少しこわばっている中、一人だけニコニコ顔の平恋が、目についた。
保己は、すぐにそれに気づいたが、ほかの生徒たちに悟られないよう、あえて特に反応しなかった。
「今日はまず、授業に入る前に、隣の人どうしで自己紹介をしてみましょう。交代で一分間ずつ、やってみてください」
保己の突然の指示に、生徒たちはざわついた。
「子供じみていると感じる人も、いるかもしれないけど、自己紹介は、自分をいかに的確に、そして素早く相手に伝えるかの訓練になります。だから、皆しっかりやるように!」
彼は、自分の意図していることを生徒たちに伝え、それを知った途端、皆静かになった。
「よし。まずは、私から見て、左側の列に座っている人たちから、やってもらおう。準備はいいかな? じゃあ、お互い向き合って、よーい……はじめ!」
スマートフォンを取り出した保己は、タイマー機能を一分間に設定して、スタートさせた。
平恋は、隣にいた女性と向き合った。
その女性は、平恋より二、三歳ほど上に見えた。
体格は平恋と同じくらいか、あるいは少し背が低いくらい。茶色いロングヘアをなびかせて、フリル付きの白ブラウスに真っ赤なプリーツスカートという、特徴的なファッションをしていた。
「あなた、お名前は?」
「花輪平恋、です」
保己の指示に基づけば、先に女性の方が名乗るはずであるが、その女性に名前を訊かれたため、平恋はつられて答えてしまった。
その話しぶりから、育ちの良さがうかがえたが、どことなくつっけんどんな印象も受けた。
「そう。私の名前は、理島愛莉寿。ロベルタ女子大学の三年生よ。アナウンサーを目指しているのは、お父様がテレビ関係者で、子供の頃から親しみがあったからですわ」
「ロベルタ女子大学……」
平恋は思わず、大学名を口にした。
そこは、女子大ではトップクラスの偏差値と人気の高さを誇る、名門校だった。
「お父様はテレビ関係者といっても、豪阿放送の社長。このスクールの親会社である、アメトミテレビの系列局なのよ」
「それは、すごいですね」
「そうてしょう? 将来は、そこのアナウンサーもいいかなと思ったのだけれど、せっかく大学進学で東京に来てるのだから、在京キー局のアナウンサーも視野に入れて、このスクールで勉強することにしたのよ」
「はあ。そうなんですか……」
早口でしゃべりまくる、愛莉寿の自己紹介の前に、平恋はその都度、短い返事をすることしかできなかった。
彼女のことに、興味がないわけではなかったが、ずっと自分の経歴や家族の自慢ばかりしてくるため、だんだんうんざりしてきていた。
「このスクールで、アナウンサーになるための力をしっかりつけて、必ず羽ばたいてみせるわ」
愛莉寿はそう言って、高笑いをした。
教室全体に響くその笑い声に、平恋は眉をひそめた。
「どう、花輪さん。何か質問ある?」
愛莉寿から話を振られて、彼女は我に返った。
「あ、その……大学進学を機に、こちらにも来られてる、ということは、ここには、お一人で?」
「いいえ。大学のお友だちと一緒よ。このクラスにも、二人いるわ。全くの偶然でね」
愛莉寿はそう言って、一番前の席に目をやった。
その視線を追って、平恋もそこを見ると、仲良さそうに話す、二人組の女性がいた。
平恋から見て右側の女性は、白いシャツの上に薄紫色のカーディガン、下はデニムのワイドパンツという、愛莉寿ほどではないが、派手な服装をしていた。
一方の左側の女性は、青いブラウスに黒いロングスカートと、比較的落ち着いた服装だった。
「向かって右側が、半谷盟子さん。左側が新南絵美里さん。どちらも、同級生で同じゼミなのよ」
愛莉寿は、得意げに語った。
おそらく、彼女たちもまた愛莉寿と同じく、名家か何かの出身なのだろう。
「ご友人も含めて、皆、アナウンサー志望、なんですね」
「そうよ。女子アナは、やっぱり女性の憧れの職業の一つですからね」
平恋の反応に対して、愛莉寿は、教室中に響くくらいの高笑いをしながら、言った。
(この人とは、合いそうにないな……)
平恋がそう思った瞬間、タイムリミットを告げる電子音が鳴り響いた。
彼女たちは、教壇の保己の方を向いた。
「はい! 一回目の自己紹介は、これで終わりです。次は、もう一方の人が、自己紹介をしてください」
保己は、平恋たち生徒に指示をした。
教室内は、ざわついていた。
「いったん静かに! 始めますよ。よーい……はじめ!」
再び保己は、スマートフォンのタイマー機能を入れた。
それに合わせて、平恋と愛莉寿は再び向き合った。
「先ほど、言いました通り、私の名前は、花輪平恋です。年齢は、一八歳です。アナウンサーを、目指したきっかけは……以前、お世話になった人が、テレビ局関係者だったからです」
平恋は、愛莉寿とは逆に、かなりシンプルに自己紹介をまとめて話した。
「へえ、一八歳ってことは、大学一年生なのね。意識が高くて素晴らしいわ。どこの大学で?」
「……いえ。いろいろ、事情があって、大学の方には、入ってないんです」
「入ってない? じゃあ、専門学校生かフリーター?」
平恋が大学生でないと知った瞬間、愛莉寿の表情が険しくなった。
「この学校には、通っているので、一応学生です」
「ふーん……」
軽い返事をする愛莉寿だったが、その言い方には蔑みが感じられた。
「ところで、お話は変わるけど、首に巻いているネックウォーマーは何? ほかの人よりも寒がりで?」
平恋は、愛莉寿からいきなり首筋のことを訊かれたため、一瞬顔をゆがめたが、すぐにそれを直した。
「いえ、これはサポーターです」
平恋は端的に答えたが、愛莉寿の追及は終わらなかった。
「なんで、そんなものを巻いているの?」
「えーと、それは……身体の事情で……」
しどろもどろになりながら、平恋はぎこちなく答えた。
「……あらそう。じゃあ、ご家族は何をしてらっしゃるの?」
愛莉寿は、これ以上訊いても無駄だと感じたのか、別の話題を振ってきた。
しかし、家族の話題もまた、平恋にとってはデリケートなものであるため、再び回答に苦慮することになった。
「家族らしい家族は、父と叔母のみです。どちらとも、離れて、暮らしてますが」
「じゃああなたは、フリーターで一人暮らしってこと? なんで?」
愛莉寿の口調は、先ほどよりも投げやりあり、とげとげしさが感じられた。
「それは、まあ……事情が、ありまして」
そんな彼女の質問に対し、平恋は、またぎこちなく答えた。
「さっきから事情事情って、あなたそればっかりじゃない!」
長机を叩いて、愛莉寿は激昂した。
あまりにも突然のことだったため、平恋は肩をびくっとさせて驚いた。
保己を含む、教室のほかの人間たちは、一斉に愛莉寿の方を見た。
しかし、当の愛莉寿は、周囲の注目などお構い無しだった。
「大体何よ? フリーターで、家族もいない一人暮らし。口調ははきはきしてるけど、話し方はぶつ切りだし、自己紹介なのにろくすっぽ自分のことはしゃべらない。何より、首のサポーターが目立ち過ぎよ!」
「理島さん!」
興奮気味に平恋を罵倒する愛莉寿を見て、保己は、名指しで呼び掛けて制止した。
その言葉を聴き、多少落ち着いたのか、愛莉寿は立ち上がって、保己の方を向いた。
「先生! 私、この花輪さんとは合いませんわ。クラスか、せめて席を変えてください」
「ダメだ。クラス分けと座席は、もう決まっていることなんだ。それは出来ないよ」
「こんなレベルの低い人と一緒では、私まで一緒に落ちてしまいますわ」
保己の回答を受けても、愛莉寿は引き下がらなかった。
「レベルが低いって、それ、どういうこと、ですか!?」
愛莉寿と保己の言い合いに、今度は、我慢できなくなった平恋が割って入った。
「あなたとは、住む世界が違うんです。ここラドクリフ・アナウンススクールは、アナウンススクールの中でも、名門校の一つですのよ。それなのに、あなたみたいな人が……」
愛莉寿は、平恋に対する蔑みの態度を、変えようとしなかった。
「スクールの入校条件は、『試験に合格した一八歳以上』というもの、のみです。私も、ちゃんと試験を受けて、受かって、ここにいるんです!」
平恋もまた、愛莉寿に対して反論した。
まだ、完全に滑らかに発声できないため、途切れ途切れなしゃべり方であったが、それが逆に、平恋の必死さを物語っていた。
「あらそう。じゃあ、それは手違いかもね」
愛莉寿は、バカにした口調で返した。
「!」
平恋は、愛莉寿の言い方に我慢ならなくなり、さらに反論しようとした。その時、
「やめなさい!」
保己の大声が、二人の言い争いを止めた。
その剣幕に驚い彼女たちは、静かになって、再び彼の方を向いた。
「理島さん。花輪さんをバカにするのはやめなさい。人それぞれ、事情や容姿は異なるんだし、なにより、まだ授業を始めてすらいないんだ。レベルが低いかどうかなんて、わからないだろう」
「佐里場先生……」
度重なる保己の指摘が効いたのか、愛莉寿はようやく、静かになった。
そして、それと同時に、保己のスマートフォンから電子音が鳴った。
「……騒がしくなってしまったけど、自己紹介タイムはこれで終わりだ。これから、本格的に授業に入っていくぞ」
保己は、教室の空気を鎮め、授業用具の中からテキストを取り出した。
それに合わせて、平恋たちもテキストを取り出した。
このとき、平恋と愛莉寿は偶然目があった。
しかし、お互い冷たい視線を送るのみで、そこに会話は一切なかった。
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