第二章 声を取り戻せ-7
保己が、自分の本業がアナウンサーとアナウンススクールの講師だという話をした次の週から、平恋は変わった。
精神薬のオーバードーズによる昏睡状態から復帰し、リハビリ治療に毎週通っているだけでも、十分変わったと言えるが、今度はリハビリ治療の受け方が変わったのだ。
今までは、保己たちに提示されたメニューをこなすだけの彼女だったが、どうすればより発声できるようになるのか、口の動かし方や、喉と腹筋の使い方などを、自発的に質問するようになったのだ。
この変化を、保己たちは、好意的に受け取った。平恋が、リハビリ治療にさらにやる気を出したのだと思って、惜しみなく発声練習に付き合った。
そして、一か月が過ぎた。
「じゃあ、ちょっと早口で言ってみようか。『お客が柿むきゃ、飛脚が柿食う。飛脚が柿むきゃ、お客が柿食う』はい!」
「お客が柿……むきゃ、飛脚が柿食う。飛脚が柿むきゃ、お客……が柿食う」
いつもの言語療法室。保己の後に続いて、平恋が発声した。
声にまだ若干のがらつきが残るものの、それ以外は、ほぼ常人と同じような発声ができるまでに、平恋は回復していた。
この時の早口言葉の発声練習では、多少噛んでいたが、それも問題ない範囲のものだった。
「花輪さん、こいつはすごいよ! 声のがらつきはまだ残っているけど、発音も発声スピードも上々だ。もう、ほぼ回復してるといっていいんじゃないかな。どう思う、杏?」
保己は、興奮気味に杏に訊いた。
「そうね。これだけ発声できていれば、あとは日常会話で喉を慣らしていけば、じきよくなると思うわ」
「やった!」
平恋は、歓喜の声を上げた。
「毎週のリハビリ治療だけじゃなくて、病室でも自主練をしてたんですってね。まだ、喉を酷使するのはよくないけど、そうした努力は、素晴らしいことだわ」
杏は、平恋を高く評価しながらをほめた。
「これだけ回復したとなると、私たちの花輪さんへのリハビリ治療は、もう終わりってことになるのかな」
「そうね。私たちの出番は、ここまでね」
保己は少し寂しそうに話し、杏は感慨深げに答えた。
「先生方。本当に、ありがとう、ございました」
平恋は、座ったまま頭を下げた。
少し長い言葉を話す際は、頻繁に息継ぎをするため言葉がぶつ切りになるが、日常会話にはほぼ支障のないレベルだった。
「いや、いいんだよ。あと、私は正確には先生じゃないんだけど……」
「いいじゃない。花輪さんたち患者さんから見れば、保己さんも立派な先生よ」
少し照れくさそうに話す保己に、杏は言った。
「ところで花輪さん。もうこれだけ回復したら、いつまでも入院してるってわけにもいかないだろう。これから、どうするんだい?」
保己は、軽く平恋に問いかけた。
「今すぐ、ではないですが、近いうちに、退院することになると思います」
「そう。それはよかったわね!」
彼女の返答に、杏は笑顔で言った。
それとは逆に、保己は不安そうだった。
「退院するとして、あてはあるのか? これから住む家とか、今後のこととか……」
彼は、卒業式の日の事件のことを思い出させないよう配慮しながら、平恋に訊いた。
「滝乃おばちゃん……と連絡を取りながら、いろいろ……調整してるところです」
「中村さんと? じゃあ退院したら、九州へ行くんだ」
「いや、そのつもり……はないです。ただ、今のところ、頼りにできる……唯一の親戚ですから」
「あっ……そうか、そうだったよな」
平恋の回答を聞いて、保己は、一瞬しまったと感じた。
しかし、そんな彼の不安とは裏腹に、平恋は、特に気にしていない様子だった。
「また、退院の、日程が決まったら、先生たちに、お伝えします。今まで、ありがとう、ございました」
彼女は、立ち上がって、再び深々と頭を下げた。
「これからも頑張るんだよ。花輪さんなら、自分の道をきっと切り拓けるさ」
「保己さんの言うとおりよ。頑張って」
保己と杏は、それぞれ平恋にエールを送った。
「はい!」
満面の笑みで、平恋は言語療法室から出て行った。
(あの様子なら、もう大丈夫そうだな)
保己は、平恋の回復と未来を確信して、彼女を見送った。
* * *
最後のリハビリ治療を終えてから、保己が精神科病棟の看護師経由で、退院日の連絡を受けたのは、三日後のことだった。
それによれば、九月上旬の、ある平日の午後だという。
その日はちょうど早番で、午後の予定が空いていた保己は、平恋の様子を見るべく、病院に行ってみることにした。
そして、とうとう退院の日がやってきた。
「この病室も、えらくさっぱりしちゃったなあ。なんだか、ちょっと寂しくなるよ」
立ったまま病室を見回しながら、保己は言った。
病室内は、平恋の私物のほとんどが無くなり、それらを持ち出すためのボストンバックが、長椅子に置かれていた。
それ以外に病室にあったのは、もとから備え付けられていたものだけであり、蛍光灯なども消されていた。
もともと病室内は、平恋が持ち込んだ私物がほとんどなかったため、さっぱりとしていた。
しかし、それら私物が無くなって、生活感が消えたことにより、よりがらんとした印象になっていた。
「寂しく感じます。何か月も、お世話になった、部屋なので」
上下黒のジャージ姿の平恋は、立ってベッドの整理をしながら、言った。
最後のリハビリ治療の時よりも、さらにスムーズな発声ができるようになっていたが、長い言葉の発声をするには、まだ少し苦しそうだった。
「そういえば、退院した後は、中村さんの家には行かずに、都内で一人暮らしするんだってね。さっき、看護師さんから聞いたよ」
保己はやんわりと、平恋の今後に関する話題を出した。
今後平恋がどう生きるかは、彼女の自由である。だが、その立ち直りを間近で見続けてきた保己は、どうしても、その今後が気になってしょうがなかった。
「そうです。滝乃おばちゃんには、一つ大きな、お願いをしたので、これ以上、迷惑かけられないな、と思って」
「お願い? 何を?」
保己は、興味津々に訊いた。
「一〇月から、新しく学校に、通うことにしたんです。その学費と、これから住む、アパートの家賃の、一部を、負担してもらうことに……」
「ああ、学校に! いいじゃないか!」
保己は、平恋が新たな道に進もうとしていることを、心から祝福した。
しかしその直後、彼の中で、疑問が芽生えた。
「でも花輪さん、入学のための試験はどうしたんだい? 一〇月から編入するなら、八月くらいには試験があったんだろうけど」
「試験は、ありました。でも、ペーパーじゃなかったんです。簡単な履歴書と、自分の声の、音声データを、送って、そのあと、ネットで、短答問題を解いて、合格通知を、もらいました」
「へー! 今の大学の試験って、そんな感じなんだ。AO入試とかの試験も、多様化してるんだなあ」
保己は、一人で感心した。
そんな彼に対し、平恋は振り向いて、きょとんとした顔をしていた。
「佐里場先生。私が通うのは、大学じゃないんです」
「そうなのか!?」
平恋の返事に、保己は驚いた。
以前の石井医師の話を思い出し、てっきり彼女は、今後大学に進学するものだと、思い込んでいたからである。
「それじゃあ、どこに行くんだい? 専門学校?」
保己は、思わず早口で訊いた。
「まあ、そういう感じの、ところです」
平恋はそう答えて、再びベッドを整え始めた。
「そうかあ…」
保己は、病室の天井を仰ぎ見た。
やがて平恋は、ベッドの整理を終え、前髪をかき上げながら、保己の方を向いた。
「病室の整理も、これで終わりです。先生、今日は、来てくださって、ありがとうございました」
「いやいや、花輪さんが元気そうでよかったよ。それにもう、私は花輪さんの先生じゃなくなるしね。あっ、何度も言ってる通り、正確に言えば、もとから先生ではないんだけど……」
保己は、少し照れくさそうに言った。
「そんな。先生は、これからも私の、先生ですよ」
「ハハハ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
平恋の言葉に対し、保己は、笑いながら返事をした。
そんな彼に対し、平恋の表情はいつになく真剣だった。
「先生、冗談とかじゃないですよ。佐里場先生は、これからも、私の先生です」
彼女の発言を聞き、その様子を見て、保己は笑うのをやめて向き合った。
「花輪さん、それってどういう……?」
保己は、平恋に訊いた。
「私が、通うことにした、学校は、ラドクリフ・アナウンススクール、です」
「え?」
「私、将来は、先生みたいな、アナウンサーに、なろうと思います」
「何!?」
予想もしなかった平恋の返事に、保己は絶叫した。
病室の扉を開放しており、絶叫が病棟内にこだましたため、声を聞きつけた看護師たちが、続々と病室に集まってきた。
「大声出してすみません。はい、本当に何もありませんので。はい、すみません……」
保己は、病室の入口で、集まってきた看護師たちに釈明し、騒ぎを落ち着かせた。
そして、看護師たちがいなくなったのを確認し、再び平恋のもとに戻った。
「アナウンサーになりたいって、どうしてまた?」
「先生との、リハビリ治療の中で、アナウンススクール、のような、発声練習をしたり、アナウンサーの仕事の、話を聞いたりして、興味を持った、んです」
「気持ちはわかるけど、だからって、わざわざウチのアナウンススクールにしなくても……」
「アナウンススクールって、いっぱいあるじゃ、ないですか。どれがいいのか、わかんないし、先生が、いるのなら、ここが一番いいかなって」
「……」
困惑しながら訊く保己に対し、平恋の返答はしっかりしていた。
その根底に、自分なりの考え方があることがうかがえ、同時に、彼女なりの覚悟を感じるものであった。
最初は、自分を慕ってこのようなことを言い出したのかと思った保己だったが、平恋の話を聞くうちに、彼女が本気であることを理解した。
「しかし、よくウチの入校試験受かったね。あれ、けっこう倍率高いし、そう簡単には受からないものなんだよ」
「そうなんですか? さっきの通り、言われるがまま、出すもの出して、テストを受けたら、合格って、言われたので」
「あー、そう……」
ケロッとした顔で答える平恋に、保己はそれ以上追及しなかった。
ラドクリフ・アナウンススクールは、アナウンススクールの名門校に数えられる学校の一つであり、学歴面での制限は設けていない一方、入校試験の難易度は高めに設定されている。
トップクラスの大学に通う学生でも、落ちることは珍しくないため、平恋が一発合格をしたことは、驚異的なことであった。
高校は、もともとは進学校への進学を希望していたというし、ある程度の大学受験も見据えていたことから、平恋の地頭はいいのだろう。
それに加えて、リハビリ治療で取り入れていた、アナウンススクール仕込みの発声練習法が、音声データによる試験も突破させたのではないか。保己は、そう推測した。
「先生、先生! 病室の掃除は、終わったので、そろそろ出ましょう」
保己が我に返った時、平恋は身支度を整えて、病室から出ようとしていた。
「おお、そうか。私も出よう」
保己は、そう言って急いで身支度をして、平恋とともに病室を出た。
「この病室とも、これでお別れだな」
二人は、廊下から病室の中をしばらく見つめたのち、その場を立ち去った。
<第三章へつづく>
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