第二章 声を取り戻せ-6
次の週も、その次の週も、平恋の発声練習は続いた。
リハビリ治療の中身は、平恋の希望も受けて、文字だけでなく早口言葉の発声練習も組み込んでいたが、なかなか滑らかな発声をするまでに至っていなかった。
そしてこの日も、保己と杏による、平恋のリハビリ治療が行われていた。
今までと同じく、二人が並んでそれぞれ丸椅子に座っており、彼らと向かい合う形で、平恋もまた別の丸椅子に座っていた。
平恋は、リハビリ治療で喉を使うことを意識してか、ペットボトルの水を持参するようになっていた。
「先週と同じく、今日は早口言葉をゆっくりと発声する練習をやっていこう。準備はいいかい?」
「大丈夫……です……」
保己の問いかけに、平恋は答えた。
「よし。じゃあ、私の後に続いて発声してみよう。『抜きにくい釘、引き抜きにくい釘、釘抜きで抜く釘』はい!」
「抜きにくい……釘、引き……抜きにくい……釘、釘抜き……で……抜く釘」
保己に続く形で、平恋が発声した。
一つ一つの文字の音から、一単語一単語ずつ続けて発声できるようになっていたが、まだ文章を一気に発声することは、いささか苦しそうだった。
現に、今保己が言った早口言葉の短文も、発声自体はできたものの、直後肩で息をするほどだった。
「いいかい、花輪さん。私が言ってるのは早口言葉だけど、早く言うんじゃなくて、一つ一つの音や単語を、しっかり発声することを意識するんだ」
保己の言葉に、平恋は、少し息切れしながら、頷いて返事をした。
「ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、着実に発声してみよう。もう一回。『抜きにくい釘、引き抜きにくい釘、釘抜きで抜く釘』はい!」
「抜き……にくい……釘、引き……抜き……にくい釘、釘……抜きで……抜く……釘」
再び、保己に続いて、平恋が発声した。
単語の発音については、先ほどと同じ要領でできていたが、やはり文章を一気に発声するのは難しそうだった。
「OK、OK。いったん休憩にしよう」
保己はそう言って、練習を一度やめた。
それを聞いて、平恋はリラックスした様子になり、ペットボトルに手を伸ばして、水を飲み始めた。
ある程度飲み終えると、一息つきながらペットボトルを置いた。
「何回か続けて、早口言葉を使った発声練習をやってるけど、どうだろう? 何か、手ごたえや実感はあるかい?」
雑談をする感覚で、保己は平恋に訊いた。
「単語は……言える……ように……なりました……けど、続けて……言う……のは……ちょっと」
平恋は、自分の言葉で返事をした。
この返事は、今まで保己が聞いてきた彼女の返事の中で、最も長い言葉だった。
「やっぱりそうか。早口言葉をゆっくり言う練習は、どう?」
「喉が……鍛え……られてる……感じが……します。で……も、まだ……上手く……早口で……言うのは……」
保己の問いかけに、平恋は、大きく息を吸ってから答えた。
「大丈夫、大丈夫。くどいようだけど、早口言葉だからって、早く言う必要はない。一つ一つのフレーズを、着実に発声するのが、大事なんだ」
保己は、いたわるように言った。
それに対し、彼女は頷いて答えた。
「なぜ、発声練習に早口言葉を導入しているのか? 今まで詳しくは説明していなかったけど、ちゃんと理由があるんだよ」
「そう……なんで……すか?」
保己の話に、平恋は興味を示した。
「そうさ。早口言葉っていうのは、早く言うことと、口の運動ばかりが注目されがちだけど、その言葉自体に着目すると、似たような母音と子音で構成されているんだ」
「母……音と……子……音?」
「簡単に言うと、似たような発音が続く言葉になっているってこと。つまり、喉――声帯の、いい運動になるんだ」
「!」
最初は、よくわかっていない様子の平恋だったが、保己の再度の説明により、理解したようだった。
「こうした早口言葉の練習は、アナウンサーや声優の学校や養成所でも、取り入れられてるんだよ。現に、ウチのアナウンススクールでもやってるしね」
「学校……?」
平恋は、首を傾げた。
「あれっ? 花輪さんには、まだ言ってなかったっけ? 私の本業は、アナウンサーと、その養成所であるアナウンスクールの講師なんだよ」
「アナ……ウン……サー……」
目を丸くしながら、平恋は言った。
口調はゆっくりだったが、その様子から、かなり驚いているようだった。
「そう。もっとも、アナウンサーの方は一歩引いた感じになってるから、アナウンススクールの講師業の方がメインだけどね」
保己は、苦笑しながら言った。
「で、ある時杏経由で、私のところに、言語療法のボランティアの話が来たんだ。アナウンサーとして培った技術を、ぜひ生かしていただきたいって。その話に乗って、今、私はここにいるんだ」
「へー……」
平恋は、保己の話に聞き入っていた。
返事自体はそっけないものだったが、それは、彼女の発声力に限界があるためであり、内心では興味津々だった。
「院長先生の提案だったけど、最初は驚いたわ。でも、よくよく考えると、一理あるなと思って、保己さんに持ち掛けたの」
今度は杏が、平恋に言った。
「私も、最初はびっくりしたよ。アナウンサーとしてのスキルが、リハビリ治療に役立つのかって。でも、実際にやってみたら、そんな疑念はすぐに吹っ飛んだね」
保己は、再び話をつづけた。
「すぐ……に……」
「さっき言った通り、アナウンススクールでも実践している発声練習は、確かに口と声帯の動きのトレーニングになる。杏のやっている、言語聴覚士のリハビリ治療と組み合わせると、患者さんたちの回復スピードが早まったんだ」
「それ……は……すご……い」
平恋は感心しながら、彼の話に聞き入っていた。
「私も杏も、これには衝撃を受けたよ。そして、その時感じたんだ。アナウンサーって仕事は、声で視聴者に何かを伝えるだけじゃなくて、その伝え方も伝える仕事だったんだ、ってね」
「……!」
平恋は、その言葉を聞いた途端に、目をカッと見開いた。
同時に、机のデジタル時計が午後三時を指した。
「ありゃ、もう時間が来ちゃったな」
ふと時計を見た保己は、真っ先に終了時刻になったことに気づいた。
「なんだか最後は、私たちの身の上話で終わっちゃったわね」
杏は、苦笑しながら言った。
「大丈夫……です」
平恋は、静かに返事をした。
「今回も、早口言葉を使った発声練習で終わっちゃったけど、落ち込まないでね。くどいようだけど、自分のペースで、回復していけばいいんだからさ」
保己は、平恋のフォローを忘れなかった。
「はい。今日は……ありがとう……ござい……ました」
平恋は立ち上がってあいさつをし、言語療法室を出ていった。
普段は、ゆっくりと歩いて出ていく平恋だが、この日の歩き方には、どこか力強さが感じられた。
「今日の花輪さん、リハビリ治療は上手く進まなかったけど、そんなに落ち込まずに帰ってったな」
扉が閉まり、平恋がいなくなったのを確認してから、保己は言った。
「そうね。リハビリ治療への焦りが無くなったのか、それとも……」
「それとも?」
「保己さんのアナウンサーの話が、面白かったのかもね」
杏は珍しく、おどけて言った。
「そうかあ? まあ、病院へボランティアしに来ているアナウンサーなんて、珍しいもんな」
保己は、杏の調子に合わせて答えた。
しかし、直後肩を落として、こうつぶやいた。
「でも花輪さん、今まで俺のこと、アナウンサーだって気づいてなかったんだな。俺、朝のだけじゃなくて、昼間のローカルニュースとかも読んでるのに……」
* * *
夜九時半。夕食の時間もとうに終わり、静かになった個室病室。
平恋は、ベッドから起き上がって、タブレットをいじっていた。
彼女は、昼間の保己たちのリハビリ治療での話を思い出しながら、保己の名前でネット検索をかけていた。
トップでヒットしたのは、それぞれ彼が勤めている、アメトミテレビのアナウンサー紹介ページと、ラドクリフ・アナウンススクールの講師紹介ページだった。
(本当だ。佐里場先生は、アナウンサーで、アナウンススクールの講師もやってるんだ)
平恋は迷わず、アナウンススクールの講師紹介ページのリンクをタップした。
開いたページでは、教室内で教壇に立ち、生徒たちを指導する、保己の画像が掲載されていた。
(これが、アナウンススクール……)
彼女は、ページをスクロールして、下へ下へと読み進めていった。
ページには、保己の紹介のほか、アナウンススクールの授業内容、具体的な発声練習の例などが掲載されていた。
挙げられていた発声練習法は、彼が彼女に対して、リハビリ治療の際に実践しているものと、ほぼ同じものだった。
「その時感じたんだ。アナウンサーって仕事は、声で視聴者に何かを伝えるだけじゃなくて、その伝え方も伝える仕事だったんだ、ってね」
平恋の脳裏に、昼間のリハビリ治療での保己の言葉が、よみがえった。
その後も彼女は、そのページを含めた、ラドクリフ・アナウンススクールのホームページを、むさぼるように読んだ。
やがて夜一〇時の消灯時間が来て、部屋の蛍光灯が自動的に消えた。
しかし平恋は、それに構わず、ホームページを読み進めた――。
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