第二章 声を取り戻せ-4
平恋が目覚めてから、五日後の昼下がり。いつものリハビリ治療の日がやってきた。
先週、先々週と同じく、保己と杏は、丸椅子に座りながら、言語療法室で平恋を待っていた。
「花輪さん来るかしら? あんなことがあったから、今までと同じく……」
「いや、今回こそ来るよ」
不安げに話す杏に対し、保己は自信満々に答えた。
「どうして、そう言い切れるの?」
「この前、目を覚ました時の様子を見たからさ。初めて、俺の前で笑ったんだよ?」
「そう、それで……」
保己のことを信用していないわけではないが、杏は半信半疑であった。
やがて、リハビリ治療開始時間である、午後二時がやってきた。
机に置かれたデジタル時計を見た直後、保己たちは、言語療法室の扉を見た。
しばらくじっと見つめたが、扉が開く様子はなかった。
「来ない、わね」
「うん……来ないね」
「保己さん、やっぱりあの子……」
杏が言いかけた時、ノックの音がして、言語療法室の扉が開いた。
中に入ってきたのは、タブレットを抱えた平恋と、付き添いの看護師だった。
その平恋の姿を見て、保己と杏は、彼女の顔に注目した。
着ている衣服は、以前と同じく入院着姿だったが、髪型が変わっていたのだ。
彼女の髪型は、ふんわりとしたセミロングヘアに整えられており、保己が初めて出会った時の面影は全く無かった。
おそらく、リハビリ治療に来る前に整えたのだろう。
「ほら杏! 来てくれたじゃないか」
平恋の姿を見て、目を見開いた保己は、得意げに言った。
「本当ね。ついに来てくれたわね」
杏は静かに答えたが、その口調から、彼女もまた、平恋が来たことを喜んでいる様子だった。
平恋は、扉の前で付き添いの看護師と別れた後、保己たちの前の丸椅子に座った。そして、抱えていたタブレットを操作した。
『今日は、よろしくお願いします』
彼女は、タブレットの電子音声越しに、あいさつした。
「はい、よろしくお願いします」
「よろしくお願いしますね」
保己と杏は、それぞれあいさつを返した。
「さて、これからリハビリ治療を始めていくわけだけど……杏、残りの説明頼んだ」
「保己さん、そんなに音頭をとらなくても大丈夫よ。専門的なことの説明は、まず私に任せて」
張りきる保己に対し、杏は冷静だった。
そんな二人のやり取りを見て、平恋は微笑した。
「さて、花輪さん。これからリハビリ治療をやっていくんだけど、その前に、あなたの声と喉――声帯の状態をチェックするわ」
杏に、平恋は頷いて返事をした。
「まず、自分の声で、名前を名乗ってみて」
平恋は再び頷き、その後息を深く吸った。
「わ……たし……の名……前は、花輪……平……恋……です」
ひどくしわがれたガラガラ声で、平恋は言った。
そしてそのあと、同じような声質で軽く咳き込んだ。
「言葉や名詞自体は発声できているから、やはり脳機能に問題はなさそうね。それに、咳き込む時にも声を出せてるから、声帯のに異常があるわけでもなさそう。となると、やはり声が出ないのは、機能面での音声障害が原因だと考えられるわね」
机でメモを取りながら、杏はゆっくりとした口調で言った。
しかし、平恋は杏の話が、いまいち理解できていない様子だった。
「ああ、ごめんなさいね。要するに、花輪さんの声が出ないのは、以前も診断を受けた通り、失声症が原因だろうってことよ」
平恋の戸惑った様子を見て、杏は言い直した。
「失声症は失語症とは違う病気だけど、リハビリ治療をして治るのか?」
平恋よりも先に、保己が杏に訊いた。
「リハビリ治療する側の、保己さんが心配してどうするの。失語症の場合とは違うけど、きちんとやれば、声は戻っていくはずよ」
「そうか……そうだよな」
冷静な杏の回答を聞き、保己は胸をなでおろした。
杏は、再び平恋の方を向いた。
「失声症は、ストレス原因などの心理的要因を取り除けば、すぐに声が元通りになることが多いの。でも、花輪さんの場合だと、声を出してない期間が長かったから、声帯の運動機能の回復も必要ね。リハビリ治療は、少し時間がかかるかもしれないけど……頑張れそう?」
平恋は、再びタブレットを手に取った。
『はい。頑張ります』
「よし。じゃあさっそく、リハビリ治療の第一段階を始めていくわ。難しい言葉は使わないから、いったんタブレットは机に置いておいて」
平恋はタブレットを机に置き、姿勢を正して杏と向き合った。
「リハビリ治療の最終目標は、もちろん以前の通り発声と会話ができるようにすることだけど、まずは声帯を使って音を出すことの練習が必要よ。今日はそれをやっていくわ」
「……?」
杏の説明に対し、平恋は首を傾げた。
「口で説明すると、難しくなっちゃうけど、やることは簡単よ。私の指示に従って、発音するだけ」
「!」
頷いて返事をした平恋は、合点がいった様子だった。
「じゃあ、その練習をやっていきましょう。軽く口を閉じて」
杏の指示通り、平恋は口を閉じた。
「その状態で、鼻歌を歌う要領で、音を出すの。出す音は、『ん・ん・ん・あ・あ・あ』というイメージよ。やってみて」
平恋は頷き、鼻から息を吸った。
「ん・ん……ん、あ……あ・あ……」
彼女の鼻歌が、室内に響いた。
発音自体はできているが、やはり長い間声を出していない影響からか、発音はぎこちなく、音自体も、低くくぐもったものになってしまっていた。
「出る音はくぐもってるけど、ちゃんと発音自体はできてるわね。その調子で、もう一度やってみて」
「ん・ん・ん……あ・あ・あ……」
平恋は再び、杏の指示通り鼻歌を歌った。
先ほどに比べると、音は変わらないが、少しだけ発音の仕方は良くなっていた。
「いい調子よ。今度は、出す音を変えてみましょう。『ん・ん・ん・え・え・え』というイメージで、やってみて」
杏の指示を受け、再び平恋は頷き、鼻から息を吸った。
「ん・ん・ん……え・え・え……」
平恋は、鼻歌を歌った。
先ほどよりも発音しやすいのか、発音の仕方はやや滑らかになっていた。
「さっきに比べると、やりやすそうね。同じ要領で、もう一度」
「ん・ん・ん・え・え・え……」
この時の平恋の鼻歌は、さらに滑らかな発音になっており、かなりの改善が見られた。
「発音を聞いていると、『ん』の音は少し慣れてきて、『え』の音は出しやすいみたいだけど、『あ』の音がちょっと苦手みたいね」
「……」
平恋は、落ち込んだ様子でうつむいた。
「そんなに落ち込むことないわ。誰だって、最初はうまくできないんだから」
杏の励ましに、彼女は顔を上げた。
「そうさ! 杏の言う通りだよ」
杏に続いて、保己も平恋をフォローした。
「保己さん、無理に会話に入り込まなくてもいいのよ」
何かと会話に入ってこようとする彼を、杏はやんわりと注意した。
「だってさ、このままじゃ俺……じゃなくて私、一度も発言しないで、今日のリハビリ治療終わっちゃいそうだからさ」
保己は、少し寂しそうに答えた。
「今日は仕方ないわよ。まずは、発音できるようにすることが先決なんだから。保己さんの出番は、次回以降よ」
「そうか……そうなのか」
保己は、おもむろに落ち込んだ。
「そんなに落ち込まないで。ほかの失語症患者さんの時も、同じじゃないの」
この時の保己と杏は、夫婦漫才のような、軽快なテンポで会話をしていた。
「ハ、ハハハ……ハ……」
平恋は、声を出して笑った。
笑い声は、やはり女性にしてはしわがれており、低くくぐもっていたが、先ほどよりも少し音程が高くなっていた。
「花輪さん、笑い声も何とか出せるのね。いい傾向よ」
保己とやり取りをしていた杏だったが、平恋の変化を見逃さなかった。
「そう……なんで……すか?」
平恋の表情が、明るくなった。
「今日は、今保己さんにも言った通り、この鼻歌――ハミングを使ったリハビリ治療を、繰り返しやっていくわ。今度は、『ん・ん・ん・あ・あ・あ』の発音を三回、『ん・ん・ん・え・え・え』の発音を二回、それぞれ連続してやってみて」
平恋は頷き、今度は、大きく鼻から息を吸った。
「ん・ん・ん……あ・あ・あ……ん・ん……ん・あ……あ・あ……ん・ん・ん……あ……あ……あ……」
一度に長い発音をするのは難しいからか、ここで、平恋の発音はいったん途切れた。
そして、再び息を吸い、発音し始めた。
「ん・ん・ん・え・え・え……ん・ん・ん・え……え・え」
言い終えた彼女は、少し息切れしていた。
「さっきはちょっとぎこちなかった『あ』の音も、うまく発音できるようになってきたわね」
平恋も変化を実感しているのか、杏に頷いて賛同した。
「ちょっと疲れたかもしれないけど、もう一回。『ん・ん・ん・あ・あ・あ』の発音と、『ん・ん・ん・え・え・え』の発音を、それぞれ二回ずつやってみて」
杏の指示を受けた平恋は、息を吸って、発音し始めた――。
* * *
その後も、この日の平恋のリハビリ治療は順調に進んだ。
保己たち三人とも、それに集中していたため、あっという間に終了時刻の午後三時を迎え、さらにその時間を超過していた。
「杏、いつの間にかもうとっくに終了時間過ぎてるぞ。もっと続けたいけど、早く花輪さんを病室に戻さないと、科のナースステーションから色々言われちゃうぞ」
時間超過にいち早く気づいた保己は、杏に言った。
「そうね。今日はもう終わりにしなきゃ」
彼に返事をした杏は、今度は平恋の方を向いた。
「今日のリハビリ治療は、ハミング法が中心だったけど、そのおかげで、一回目にしては発音がだいぶ改善したと思うわ。このまま何回か発音練習をやって、それから保己さんも交えて、発声練習を行いましょう」
それを聞いた平恋は、タブレットを脇に抱えて、立ち上がった。
「今……日は、あ……りがと……うご……ざいま……した」
平恋は、苦しそうだったが、自分の声で、保己たちにあいさつした。
「今は、無理に言葉を発さなくていいのよ。でも、そうして自分から声を出そうという気持ちは、大切にしててね」
杏は、にこやかな顔で平恋に言った。
平恋は、顔をほころばせて立ち上がり、保己たちに会釈して、言語療法室から出て行った。
部屋の扉が、静かに閉まった。
「行っちゃったね」
扉の外の物音が消えたのを確認して、保己が言った。
「あの子、やればちゃんとできるじゃない。この調子でいけば、十分以前のように発声することもできそうよ」
「本当か!」
杏は平恋のことを評価し、保己は、それを自分のことのように喜んだ。
「ええ。でも、あれだけリハビリ治療に打ち込めるのなら、もっと早く来てくれてれば、回復も早かったかもしれないのに……」
「いや。今までのようなことがあったからこそ、ああいう積極的な姿勢があるのかもしれないよ」
残念そうな杏に対し、保己はそう返した。
「そうなのかしら」
「きっとそうさ。立ち上がろうとする人間は、強いんだよ」
保己は、自信をもって言った。
この時の彼には、声を出せるようになって立ち直る平恋の姿が、はっきりと見えていた。
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