プロローグ 卒業式の日の事件
その日、都内は強い雨が降っていた。
三月下旬、とある平日の午後。
古びたアパートの角部屋の一室で、白髪混じりの五〇代半ばの男が、一人で寝そべっていた。
春先にしては少し暑い日だとはいえ、使い古した白いTシャツに、色褪せたジャージ履くその格好は、かなりだらしなく見えた。
部屋の中央にあるちゃぶ台には、空のビール瓶と、半分くらいビールの残ったビアグラスが乱雑に置かれていた。
そのうえ、部屋の隅には、酒の空き缶を詰めたゴミ袋が置かれており、かなり荒れた生活を送っているように見えた。
「ただいま」
ドアの鍵を開けて、男の娘らしい少女が入ってきた。
ブレザーにスカートの制服姿で、髪型はショートカット。目鼻立ちはくっきりとしていた。
身長は、一般女性の平均ぐらいであるが、首がスラッと長いため、そのショートカットがよく目立っていた。
そして両手には、それぞれ通学カバンと、『卒業証書』と書かれた厚手のファイルを持っていた。
「なんだ、もう卒業式終わったのか?」
男は、少女の方を向かずに呼び掛けた。酒の飲み過ぎからか、ろれつが回っていない。
「うん。あいさつやって、卒業証書もらうだけだからね」
少女は、面倒くさそうに答えた。
「呼んでくれたら、行ったのによぉ」
「お父さんが来ても、特に何もないから」
男はにやついていたが、少女は不愉快そうに、鼻をつまみながら答えた。
「おいおい、そんな言い方はねぇだろう? 娘の晴れ舞台、お前が嫌がらなかったら、見に行きたかったぜ」
「……」
少女は無言で、通学カバンを置き、その場に立っていた。
「でも、これでお前も社会人だな。卒業してからのことは、何も聞いてねえけど、どうすんだ?」
「……そのことなんだけどさ」
そう言って少女は、厚手のファイルを持ったまま、男の前に立った。
少女の様子に違和感を覚えたのか、男は寝そべったまま、少女の方を向いた。
「どうしたあ? 急に改まって」
少女は、一瞬目を閉じ、その後カッと見開いて、こう言った。
「私、明日この家出ていくから」
その言葉には、力強さがこもっていた。
直後、外では雷が落ちた音がした。
「は? どういうことだよ?」
男は、驚いた様子で勢いよく起き上がった。
そして、あぐらをかいて少女を見上げた。
「四月から、原宿のショップで働かせてもらえることになったんだ。お店の方で、住むところも用意してくれるみたいだし。だから」
少女は淡々としていたが、対する男の方は、かなり焦り気味だった。
「お前が就職活動してたなんて、今まで聞いたことなかったぞ。それに原宿なら、ウチからでも電車乗り継ぎゃ通えるじゃねえか。何も出ていくことは……」
「もううんざりなの!」
「!」
少女の叫びに、男はぎょっとした。
「昼間から働きもせず、飲んだくれてばかりの父さんに、今まで私がどれだけ苦労したと思ってるの!?」
少女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「これは、仕方ねえんだよ。母さんが病気で死んじまってから、上手くいかねぇことだらけだったろ? だから……」
「死んだお母さんのせいにしないで!」
男の言葉を遮って、少女は叫んだ。
「こんな生活のせいで、お金には苦労しっぱなしだし、入学金が用意できなくて、希望の高校にも行けなかったじゃない!」
「……」
少女の訴えに、男は黙りこんでしまった。
そして、しばらくの静寂が流れて――今度は、男が不機嫌そうに言葉を切り出した。
「じゃあなんだ? お前、俺を捨てるってのか? 実の父親を……」
「あんたのことなんて、もう父親だと思いたくない!」
「……!」
「私は自分で、人生をやり直すから」
少女はそう言い放ち、男に背を向けた。
すると背後で、ガシャンという音がした。
「?」
少女が、その音を耳にして振り向くと、男は無言で立っており、こちらを見つめていた。
手には、注ぎ口を握り手にした割れたビール瓶を持っており、周囲にはビール瓶の破片が散乱していた。
「どういうつもり!?」
少女は男の様子に驚き、玄関のドアの方へと後ずさりした。
どう見ても、様子が普通ではない。
「俺が今まで育ててきてやったってのに、その言い草はなんだ? 俺を捨てるだなんて、バカにすんじゃねえぞ!」
男は、どすの利いた声で話しながら、少女にじりじりと近づいた。
「ちょっ……やめてよ」
少女は、男を落ち着けようとしたが、男は一向にその気配を見せず、玄関のドアに追い詰められてしまった。
「お父さん、だあ? さっき『あんたのことなんて、父親だと思いたくない』って言ったのは、どこのどいつだよ!」
そう言って、男は少女に、割れたビール瓶を振り上げた。
「助け――」
少女は鍵を開けて、ドアから外に出ようとした。
しかし、彼女が出る直前、男に追いつかれてしまった。
肩をつかまれた少女は、振りほどこうとしたが、その直後、首筋の激しい痛みに襲われた。
「――っ!」
少女は、痛みのあまりバランスを崩し、ドアにもたれかかった。
その重みでドアが開き、彼女はそのまま、雨に濡れた外の廊下に倒れこんだ。
(一体、何が……?)
少女は、状況が全くつかめておらず、首筋の痛みだけが、全感覚を支配していた。
そこへ、中年女性が通りがかった。
「あら、花輪さんの家の……きゃーっ!」
中年女性は、少女の姿を見て叫んだ。
少女の首筋には、割れたビール瓶がそのまま刺さっており、流れでた血が、髪の毛と制服、そして卒業証書をファイルごと真っ赤に染めていた。
(待って! 助けて……)
逃げていく中年女性を目で追って、少女はそう言おうとしたが、思うように声が出なかった。
手や足を動かそうにも、濡れた制服が想像以上に重たく感じられ、動くこともできなかった。
(あれ、身体が重い……)
やがて、救急車やパトカーが続々と駆け付けてきた。
しかし、そのけたたましいサイレンの音は、少女の耳に届くことはなかった。
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