番外
いつもいつも思う、どれだけの物を捨てればあたしはあたしのままでいられるんだろう。
例えば自由。
例えば痛み。
例えば友人。
例えば学校。
例えば苦しみ。
例えば時間。
そして恋。
それらを一つづつ捨て去ることで今のあたしは生きている。
まるで魚の鱗を剥ぐように、あたしの身体からいくつも剥がれ落ちていく物たち。
だけど、それらは、本当なら誰もが当たり前に持っているはずのもだというのに。
あたしと同じ年頃の女の子なら、誰もが普通に、なんの努力さえ必要なく、当たり前に両手に携えているというのに。
あたしは、それらを手放さなければ生きていけないのだ。
まるで今にも沈没しそうな船が、次々と積み荷を暗い海の中へ落とすように。
あたしは、そうやってでしか生きられなかった。
そして、その不運にどれだけ泣いたことだろう。
学校へ行きたいとだだをこねて父と母を困らせたのはあたしだったが、学校へ行きたくないと泣いて嫌がったのもまた、あたしだった。
もっともあたしにだってプライドはあるから、自分から行きたいと言い出した以上は、父や母の手前で泣くわけにはいかない。
朝の通学路をてくてくと一人で歩きながら、スンスンと鼻を鳴らしながらメソメソ泣くのがあたしのやり方だった。
学校は昔から大っ嫌いだった。
学校へ行っても楽しくないからだ。
休みがちなせいで授業は随分と遅れてて、先生が何を言っているのかさっぱりわからなかったし。
友達もぜんぜんいない。
一人で過ごす休み時間ほどつまらないものはない。
体育の授業はいつも見学で、たまに学校へ行ってもすぐに体調を崩して保健室で寝ているか早退や遅刻ばかり。
先生の同情的な態度や、遠巻きに自分を腫れ物のように扱うクラスメート。
あたしは学校へ行っても出来ないことがたくさんあった。
例えば昼休みのドッチボール、長縄、鬼ごっこ。
体育のバスケ、バレー。
放課後のクラブ。
夏の水泳のノルマ。
宿泊研修、修学旅行、課外授業。
なにもかも。
あたしには出来ないことがありすぎて、数え上げたら指の数では足りない。
努力なんて言葉は、軽々しく誰もが言葉にするけれど。
いったい何に対して努力をすればいいのか、あたしにはまったくわからない。
頑張れって言葉を容易くみんな口にするけれど、いったい何を頑張ればいいのかあたしにはわからない。
あたしは死にたくない。
だから、一生懸命生きている。
後悔しないように。
だけど、人の言う努力とは、頑張れとは、あたしにとっては我慢と一緒だった。
生きるために、頑張ること、努力することは、あたしにとっては全てを捨てて諦めること同じなのだ。
例えばそれは学校、自由、友達。
薬による副作用の痛み、吐き気、頭痛。
あたしには足も手も目も口も鼻もあるのに。
出来ないことがたくさんあるのだ。
自由に走り回ることも、友達と一緒に日差しの下で買い物に行くことも、ふざけてはしゃぎ回ることも。
――――――大人になることでさえ、あたしにはできない。
学校が大嫌いだと言うくせに、あたしはたぶん誰よりも学校へ執着していた。
ほとんど通ったことなんてないくせに、友達なんて一人もいないくせに、あたしにとってあそこは、例えるなら憧れの象徴そのものだった。
あたしがやりたいことの全てを具現したような場所。
とはいえど象徴はあくまで象徴。
しょせんあたしはしがない病人。
学校へ行ったところで何が出来るというわけではなく。
結局、みんなが楽しそうにしているのを遠目に眺めて、一人ストレス溜めながら一日が終わってしまうのだった。
学校へ来るたびに、こんなはずじゃないのにと何度も思った。
本当のあたしは、みんなと手を繋ぎながらグラウンドを走ったり、放課後のおしゃべりをしたり、運動会のリレーで、みんなの 応援の中を一位目指して頑張ったりしてるはずなのに。
どうして、こう世の中って上手くいかなんだろう。
時々溜息が出ちゃう。
神様、あたし何か悪いコトしたかしら?
これでも、日々真面目に自分の人生見つめながら生きてるんだよ?
このままじゃ、あたしは何一つ出来ないままであの世へ逝っちゃいそう。
それじゃあ、未練たらたらだわ。
絶対に地縛霊になってそう。
そうして、わけのわかんない霊能者とかに御祓いされちゃうんだ。
悪霊だとかなんだとかいわれてさ。
そんなの凄く凄く心外。
あたしは、ただ短いなら短いなりに自分の人生楽しみたいだけ。
あたしの身体が弱いのは誰のせいでもないんだから。
あたしのせいでも、生んでくれた母さんや父さんのせいでもなくて。
これが、どうしようもない運命って物なんだから。
だから、あたしはその運命少しでもきちんと受け入れて。
自分に許された時間を、精一杯生きたい。
泣きたくない。
後悔したくない。
無様に、死にたくないなんて喚いたりしたくない。
あたしは、あたしの人生に誇りを持ちたいの。
誇りを持って、胸を張って生きたいの。
生まれてきてよかったって。
生きてきて良かったって、そう胸を張って誰に対しても言いたい。
それが、私に出来る、唯一の孝行ってものでしょう?
初めてあなたに出逢ったのは、雨の日だったんだよ。
小雨の降るなか、あたしは傘も差さずに道に佇んでいた。
俯いて、ぐずぐずと膝をすりあわせながら、なかなか一歩を踏み出せずにいた。
高校に入学して一ヶ月。
あたしは今日初めて学校へ登校する。
春雨で灰白色にけぶる視界の向こうに、ぼんやりと木々の頭からにょっきりと突き出た校舎が見えた。
あたしの身体の事を慮った両親の配慮での、郊外の緑の多い私立の学校。
だけど出だしで一ヶ月もつまずいてしまったあたしの学校生活は すでにお先真っ暗と言っても良かった。
知り合いなんてほとんどいない中で、一ヶ月の遅れがどれほど大きな物か、小学校でも中学校でもさんざん経験済みだ。
あそこはあたしの憧れの象徴だけど。
そこはあまりに眩しすぎて、なかなか近づけず、敷居は高すぎてまたぎきれない。
触れるとあまりに熱すぎて、あたしは遠目に眺めてることしかできやしない。
溜息が落ちた。
さざれ雨は、身体を濡らすにはあまりに淡くて儚く、湿り気を帯びた空気は微かに甘い。
すぐ傍でれんげ畑が風にさよさよと揺れている。
学校へ行ったところで、また独りぼっちだろうなぁ。
授業、一ヶ月も進んでるなら一日二日じゃ追いつくなんて絶対無理。
意味のわからない授業聞きながら、一時間ぼんやりすることがどれほど忍びないことか。
いつ当てられるかとビクビクするのも嫌だし。
もし、だよ。
もしも、先生が「次の問題は好きな人同士で適当にグループを作って発表してください」なんて言いでもしたら、どうなると思う?
あたしは、当たり前だけどあぶっちゃうわけで。
そのときの情けなさったら、本当に泣けてきちゃうわよ。
それだけじゃない。
移動教室の時、一人で歩くことの惨めさや、お昼休み本を友達代わりにして食べるお弁当のまずさったらない。
体育の授業中、無人の教室でぼんやりとみんなが帰ってくるのを待つときの、あの心許なさとか。
クラブ活動に勤しんでいる人たち後目に、一人で家路を急ぐ物悲しさ。
理想と現実は上手くいかないもの。
この歳で、そんな現実痛感してどうすんのよと、心の中で呟く。
学校へ行きたいと言い出したのはあたし。
学校行って、制服着て、友達作って、遊んだり笑ったりするの。
放課後の寄り道、恋の話し、授業中の手紙交換。
そんなこと、するの。
するつもりだったのに・・・・。
あたしは視線をあげて、雨に濡れる校舎を見る。
今日通えても、明日通えるとは限らない。
明日通えても、明後日通えるとは限らない。
あたしの身体は、超高層ビルとビルの間に結ばれた綱渡りのロープの上を歩くみたいに、どうしようもないほど不安定なのだ。
ほんの少しの風でさえバランスを崩してしまいそうになるほどに。
夢も希望も、本当のことろ全てが砂上の楼閣と同じだ。
まるで砂のお城みたいに、サラサラといつかは消えてしまう。
あたしには進むべき未来が用意されていない。
歩くべき道が、ないのだ。
あるのは、ぽっかりと穴の空いた奈落だけ。
ぎりりと唇噛み締めた。
悲観的なこと考えたい訳じゃない。
一人で悲劇に染まって酔いたいわけじゃない。
だけど、それがどうしようもない現実だからあたしは受け入れるしかないのだ。
ことある事に痛感させられるだけ。
学校はあたしの憧れの結晶。
だけど、それと同じくらいにあたしには手の届かない場所だった。
雨は、霧まくように景色を白く霞ませる。
まるでそれが、あたしと現実を遠ざけているようで、なんだか無性に哀しくなる。
どうしてだろう。
この地球上にはたくさんの命があって。
みんな平気な顔して生きてる。
なのに、あたしのこのポンコツの心臓は、なんでまともに鼓動を打ってくれないのだろう。
哀しいわけじゃなく、悔しい。
自分の望み叶えることも出来ない、自分の身体の弱さ。
そして、それを理由にして一歩も前に進めない自分の意志の弱さ。
心臓は、緩やかな動機を打っていた。
学校へ行きたいと言ったのはあたし。
だけど、学校へ行くことを怯えているのもあたしだ。
「何をしているんだ?」
その時、唐突に聞こえてきた声に、あたしはかなり驚いた。
そして、すっと翳った視界に、心臓が口から吹き出そうになった。
悲鳴を上げなかったのは、反対に驚きすぎて声が出なかっただけである。
始業ベルが鳴ってからかなり時間が経過しているせいで、無人の通学路だと安心しきっていたのだ。
「こんなところに突っ立ってると、濡れるぞ。」
起伏の乏しい、平板な声音。
振り向くと、真っ黒に沈んだ学生服を身に着けた男の子が立っている。
ウチの学校の生徒だ。
「えっと・・・・。」
あたしは身構えて、数歩後ろに下がる。
「・・・あなたも遅刻の人?」
彼は、ちらりと校舎を見やると、
「学校へ行かないのか?」
あたしは、彼を見上げたまま何か気の利いた言い訳を言おうと唇を開いた。
だけど、上手く言葉にならなくて、もごもごと口ごもってしまう。
「うん・・・まあ・・・。そう。学校行くの。行くつもりではあるんだけどねぇ・・・・。」
ぽりぽりと頬を掻く。
とりあえず、先生に見つかったんじゃなくて良かったよと、胸を撫で下ろした。
「お先にどうぞ。あたしは、しばらくここで考え事してから、学校行くから。」
アハハハと笑みを浮かべて、さっと道を避ける。
すると、傘が外れてサラサラと雨が頬を滑った。
その時になって初めて視界を翳らせていたのは、彼が自分の持っている傘をあたしの頭の上に差し出してくれていたからだと気付いた。
彼は、愛想笑いを張り付かせたあたしをちらりと見てから、何故か小さく肩を竦めた。
「もうすぐ二限目が終わるぞ。いったい、いつまでここで考え事しているつもりだ?とっくにびしょぬれじゃないか。」
あたしは、彼を見る。
それから、曖昧に笑い、俯いた。
「学校・・・・行きたくない。」
酷く情けない気持ちで、そう呟いていた。
通りすがりの男の子相手に。
後になって思い返せば、どうしてこんなときにこんな情けないこと、見も知らない相手にしゃべってしまったんだろうって、赤面ものだ。
人一倍あたしはプライドが高くて、他人には絶対に弱いとこだけは見せたくないっていつも思ってた。
おまえは強情な子ねぇと母を困らせたこともしばしばある。
でもそれは、病気であることをハンディーにしたくないからだ。
これ以上、身体のことで諦めてしまう物を増やしてしまいたくなかった。
我慢することは、あたしにとって諦めること同じだから。
我慢しないために、諦めないために、あたしは強情になるしかなかったのだ。
だけど、このとき。
どうしようもない不安とか情けなさとか淋しさとか哀しさとかが、空からとめどなく降り注いでくる雨のようにあたしの髪の毛や頬や 指や足や胸を濡らしていた。
それらが、あたしの唇を動かす。
「学校、行きたくないの。」
あたしはもう一度繰り返した。
「行きたくない。」
「じゃあ、行かなきゃいいだろう。」
至極当然に彼からはそう答えが返ってきた。
ああ、本当に。
そのとうりだわと、あたしは心の中で思った。
だけど、行きたくないのも本心だけど、行きたいのも本心なのだ。
人間の感情なんて矛盾と曖昧と混在がせめぎ合って、複雑すぎて、心の持ち主のあたしでさえ把握できやしない。
あたしは道に迷った浮浪者と同じ。
すぐそこに温かな家があって空腹を埋める食べ物があるのに、お金を持っていないばかりに助けを求めることが出来ない。
喉から手が出るほど欲しい物があるのに、足に絡み付いた鎖が邪魔で手を伸ばせない。
そして、その鎖を作り出しているのは、あたしの弱さだと分かっているのに、鎖を外すための鍵の在処がわからない。
見つからない。
ほんのちょっとした見栄や怯えが、人に助けを求めるための手を差し出すことが出来ない。
「行きたくないけど・・・・でも学校へ行きたいの。」
「なんなんだ、それは?」
呆れた声。
そりゃあ、当然な反応だろうと、あたしも思う。
言ってることがちぐはぐなんだから。
「あなたには関係ないでしょ?それより、さっさと学校行ったら?」
憮然と唇を噛んで、あたしはぷいと顔を背ける。
すると小さなあぜ道を挟んで、雨に白く霞む中、赤と白に染まったれんげ畑が目に飛び込んできた。
りんりんと風に煽られて、小首を傾げるように揺れている。
その真摯な儚さ。
不意に、どうしようもなくあたしは泣けてきて唇を噛み締めた。
分けもなく、目の前の風景があたしの心の中に蓄積されていたやるせなさを刺激したのだ。
一人なのだと、思った。
漠然と。
こんな小雨の降りしきる中、あたしはいつも一人なのだ。
一人きり。
友達もいない。
心の中を話せる親しい人もいない。
「どうして、行きたくないんだ?」
彼の声は優しさなど微塵もなく、ただ淡々と義務的に尋ねてるとしか思えなかった。
だけど、そのよそよそしさが、あたしには救いだったのかもしれない。
下手に同情されるより、ずっと良い。
あたしは顔を背けたまま、
「友達がいない。お昼一人で食べるのつまんない。休み時間、一人ですることない。移動教室もトイレも、いっつも一人で、淋しい。」
「だったら友達を作ればいいだろう。」
あたしは唇を噛む力を強めた。
「授業わかんない。難しい。英語嫌いだし。古典なんて何言ってんのかぜんぜんわかんない。授業ついてけない。」
「だったら、勉強しろ。分からないところは人に聞けば良いんだ。」
「時間がない。ぜんぜん、時間ない。友達作る時間も、勉強する時間もないんだもん。どうしようもないじゃない。」
「そう思いこんでるのは、自分だけなんだろ?考え込んでる時間はあるのに、動くための時間はないのか?」
その言葉にハッとして、あたしは顔を上げた。
彼は、濡れそぼつ雨の中、相変わらずあたしに傘をさしかけながら。
前髪を雫で濡らし真っ直ぐに学校を見ていた。
大人びた表情。
視界を霞ませる霧雨の中で、彼の瞳は深く深く暗くて。
その前髪をぽつりと伝う透明な雫や、学生服の肩が黒く染まる様や、彼の長く細い指がぎゅっと握っている傘の柄を眺めながら、 それら全てが現在だけはあたしの為に存在しているのだと気付いた。
どうしてだろう。
その事に、どうしようもなく胸が詰まった。
涙が出た。
時間は止まったりしない。
あたしがぐずぐずたたらを踏んでいる間も、瞬く間に現在は過去になってしまうのだ。
あたしに与えられた時間はとてもとても短くて。
後悔しないとそう決めた以上、悩んでいる間も躊躇っている時間も、ないのだ。
ああ、ほんとうに。
どうかしてるわ、あたし。
あたしが、あたし自身を追い詰めて八方塞がりにしてたんだ。
自分の進むべき道に、穴を掘ってたのは、このあたし。
例え未来への選択肢は少なくても、選ぶ権利はきちんとあたしにだってあるのに。
どうして、見えてこなかったんだろう。
哀しんでる暇も、怯えてる暇も、怖がっている暇も、あたしにはないんだから。
少しでも、一歩前へ進むことだけを考えるべきなのに。
俯いて泣き出したあたしの頭の上で、溜息が聞こえた。
「ホラ、歩くぞ。いつまでもここにいたら風邪を引く。」
あたしは無言で頷く。
だけど、そうそうに涙は止まらないので、顔を手で覆ったまま俯いていた。
そのあたしの腕に彼の手が掛かって、くいっと引っ張られた。
「一人で遅刻して校舎に入るよりは、ましだろ。」
そう言った。
憮然とした声音。
それでも、気を遣ってくれているのがわかる。
あたしが一人で遅刻届けを取りに職員室へ行くことのないようにと。
無骨な優しさ。
彼に引っ張られながら、あたしはずっと泣いていた。
結局、あたしが泣きやむまで彼はもう一時間、遅刻する羽目になったのだけどね。
その節は、本当にどうもご迷惑をお掛けしましたね、高橋くん。
あなたの名前を知ったのは、一緒に遅刻届を取りに行った後、二人で隣り合わせに並んで遅刻理由を書き込んでいたときに、 あなたの名前を盗み見したからだよ。
遅刻理由は、「病院に寄っていたため」って書いてあったの、まだ覚える。
あの時は、一瞬あなたもあたしのように不治の病にでも冒されてるのかと思ったけど。
なぁ~んてことはない。
ただ過労で倒れたお祖父様の入院に付き添ってただけなんだってね。
まあ、二人して不治の病に冒されてたら洒落になんない話だわ。
あなたはあの時の出会いを、覚えてはいないんでしょうね。
三年生になって、あたしに会ったときも、すっかり顔も名前も忘れてたみたいだし。
だけどね、あたしは忘れた事なんてなかったよ。
あなたの事、よく見てた。
テニス部で頑張ってるってとことか、女の子に人気があるとことか。
顔はそりゃあ綺麗だけど、ぜんぜん愛想なしなのに、なんでそんなにもてるのかがいまだに不思議でしかたがないくらい。
やっぱり恋は見た目なのかしらね?
だけど、あなたが優しいことあたしは知ってる。
自分が濡れるのも構わず、傘さしてくれたでしょう?
慰めてくれた。
泣きやむまで、結局一時間近くあたしの傍にいてくれたよね。
あの時、どれほどあなたの言葉があたしを救ってくれたか。
あなたはもう覚えてもいないほどに、何気なく言った言葉なのかもしれない。
だけど、あの言葉があたしの支えだった。
生きるために。
有効期限を突き付けられた時間のなかで、あたしが満足行くように生きるために、神様がせめてもの慰めのためにあなたに出逢わせて くれたのかもしれない。
あたしにとっては、あなたに出逢えたことが最高の奇跡だった。
本当よ。
お世辞なんかじゃない。
あなたがいてくれたから、あたしはここまでやってこれた。
我が儘ばかり言ってあなたを困らせてばかりのあたしだったけど。
本気で好きだったのよ。
あなたを見て、頑張ることの意味を知った。
努力すること。
諦めるために、頑張るのでも努力するのでもない。
欲しい物を手に入れるために、動き出すんだ。
自分の足で。
悩むことよりも、真っ直ぐに前を向いて歩きたい。
俯いて自分の足ばかり見ていちゃあ、目の前に広がる長い道筋さえ見えやしないもの。
あなたがあたしの未来だった。
光に透けると薄茶色に煌めく髪、伏せたまつげの長さ、休み時間に見付けたうたた寝の時の、あなたの意外とあどけない顔。
倒れたときに抱きとめてくれた力強い腕、少しだけ甘い香り、ずっと握っててくれた大きな掌と、細く長い指。
考え事してるときに薄く唇を噛む癖、ほんの少しだけ瞳を細めてふっと笑う顔、低く掠れ声で名前を呼ばれること。
どれもどれも大好き。
信じられる?
あなたがあたしの初恋だったんだからね。
あの雨の日から三年間。
あたしはずっとあなたが好きだった。
同じクラスになれたと知ったとき、どれほどあたしが喜んだか知ってる?
余命半年もないこと隠さず教えてくれた両親や、 学校なんて行けば病気の進行を早めるだけだって必至で止めようとしてくれたお医者様や 末期患者を生徒に持って困り果ててた担任の先生を説き伏せてまで、あたしが学校へ行くこと選んだのはあなたがいたからだよ。
最後の時間を、あなたと想い出を共有することに費やしたいと思った。
あたしにとってあなたと過ごした時間は、だから最初で最後の自由だったの。
あなたと一緒にいるときだけ、あたしは普通の女の子だった。
他の子達と同じように、制服を着て、授業を受けて、放課後のクラブ、おしゃべり、恋愛。
楽しかった。
生きてて良かったって心の底から思えた。
全部、あなたのおかげだね。
だからねぇ、だから。
あの時のキスは許してよね。
最後の最後の、あたしの我が儘だよ。
冥土のみやげってヤツね。
絵の具の味なんて、最高じゃない?
あたし、絶対忘れないもの。
良い想い出でしょ?
梔子の花言葉は、きっとあなたの事だから知らないんだろうなぁって思う。
知ってたら、ある意味怖いしね。
どうして知ってんのか、反対に気になっちゃうわ。
でも良いの。
知らなきゃ知らないで。
言葉でちゃんと、あたしの気持ちは伝えてあるし。
後悔も未練も、ぜんぜんないもの。
だけど、最後に。
ありがとう。
とてもとても楽しかったよ。
だから、どうか。
――――――泣かないで。
ふっと梔子の花が香る季節になると、思い出す。
少しずつ色褪せ、想い出となっていく時間を。
たまたま図書館で開いていた本に載っていた梔子の花言葉。
『わたしはあまりに幸せです』
そう、記されてあった。
夏が来るたびに、梔子の花が咲くたびに、ふっと彼女の面影が瞼の奥に過ぎる。
懐かしい笑顔。
小波のような笑い声。
潔く前を見据える眼差し。
その度に、胸を駆け抜ける甘さと切なさを混ぜた痛み。
彼女の言うとおり。
最後に交わした絵の具の味のキスは、一生忘れられそうにない。
だけど、そういう恋をした自分を、後悔はしていないと思った。
これで完結です。
お付き合いありがとうございました。