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後編

中庭から見上げた美術室の窓には、明かりはついていなかった。

だけど、大きくカーテンがはためいているのが見える。

暮れなずんだ赤い西日の満ちる中、彼女は相変わらずあそこで絵を描いているのだろうか。

毎日毎日、代わり映えのない同じ事を繰り返し続け。

だけど、彼女は何よりも何気ない日々を過ごすことを大事にしていると、今の高橋にはなんとなくわかってしまっていた。

彼女を迎えに行くことは、もちろん「隣の席」としての義務少々と、善意と慈愛に近い労りのせいだ。

あのまま。このまま。

時間が止まってしまえたら、彼女は間違いなく幸福の中で息づくことができるのだろう。

そう、彼女自身が繰り返し言うように。

だけど、本当は閉じられた世界には幸せが生まれることなんてなきっとないだろう。

容易い幸せに身を委ねるには、 川奈 は賢すぎた。

だから、いつも夕日を惜しむように見つめている。

時間は止まらないし、世界を押しとどめることも切り取って取り出すことも、出来ない。

例え出来たとしても、彼女はしない。







美術室のドアは空いたままだった。

高橋は、そこから中を覗き込む。

窓辺に置かれたキャンバスと、それに向かい合っている 川奈 。

彼女は立ち上がって絵を覗き込むように腰を屈めている。

片手でキャンバスにそっと手を付き、僅かに睫を振るわせていた。

そして、静かに絵に唇を近づける。

高橋はその光景を眺めていた。

西日が緋色から藍色に変わり始めている。

彼女の身体は今にも闇の中へと溶け込みそうなほどに儚い光に縁取られていて、まるでモノクロ映画を観ているようだと高橋は思った。

それぐらいには芸術的に綺麗だったのだ。

彼女は数秒ほど、絵にキスをしていただろう。

すっと身を離すと、おもむろにこちらを見てにっと悪戯っぽく笑った。

「覗き見なんて悪趣味。」

「だったら、ドアぐらいちゃんと締めておけ。」

「だって高橋くんが来たらすぐわかるようにしておきたかったんだもの。」

その言葉に、高橋は眉間に皺を寄せる。

ということは、彼女は先ほどのシーンを自分に見せつけるために行ったと言うことだ。

廊下を歩く足音は、数メートル前から彼女の耳に届いていたはずだった。

「どっちが悪趣味なんだか。」

しかし彼女は高橋の言葉などまるで聞こえないとでも言いたげに、微笑む。

「絵がね、やっと完成したの。」

彼女の耳はポンコツだと、内心で思う。

「もう間に合わないかと思ってたんだけど、やっと完成したのよ。さっきのキスは、その完成祝。」

「絵にか?」

「ええ。あたしはもっと別のを貰うから。」

ふふっと 川奈 は心底嬉しそうに笑った。

そして、しみじみとした表情で自分が描いた絵を見つめる。

高橋は、まだそこになんの絵が描かれているのか知らない。

彼女は完成したら見せてくれると言ったが、少なくとも今、見せてようという意志は働きそうにはなさそうだ。

「だったら今日は早く帰れるのか?」

ドアに持たれる。

「ん~。でも、もう少しこうしていたいな。せっかく絵が完成したんだから。気分が良いの。」

川奈 はふうと椅子に倒れるように座り込み、深々と肺の奥から息を吐き出した。

それからこちらを見て、「こっち来て、座ったら?」と隣の空いた席を勧めた。

ニコニコと笑いながら、そこに高橋が座るものと決めている笑顔だった。

高橋は、仕方なく彼女へと近づく。

最近、彼女の我が儘に流されている自分をひしひしと痛いほど感じる。

その度に、心の中で反省する。

この状態が部活にまで影響を及ぼしていたら、大変なことだ。

座って見て気付いたが、結局高橋の場所から絵は見えなかった。

上手いぐらいに角度がずらしてある。

「完成したら見せてくれるんじゃなかったのか?」

川奈 はこちらを向くと僅かに首を傾げ、くすりと笑った。

「この絵ね、あなたにあげるわ。」

彼女の顔を見る。

「今まで色々と良くして貰ったお礼。たいした絵じゃないけど、自分では上手く描けたと思うから。」

高橋は窓から差し込むキャンバスを赤く縁取る光を見つめて、瞳を細めた。

「これね、油絵なの。だから、乾くまで少し時間がかかるのよ。明日から夏休みでしょ。この絵は、だから夏休みの最後の日に取りに来て。 どうせ、学校へ部活に来るんでしょ?」

「・・・・何かのコンクールに出すんじゃなかったのか?」

その為に急いで完成させているものだと思っていた。

高橋の言葉に、彼女は少し考えるように「う~ん」と唸った。

「最初はそのつもりだったけど、途中で惜しくなったのよ。」

言葉の意味を計りかねて眉根を寄せる。

川奈 はにこりと笑った。

「たくさんの人に見せるのが勿体ないの。」

「たいした自信だな。」

さすがに高橋も呆れる。

「高橋くんほどじゃないわよ。」

彼女は机に左手で頬杖をついて、ゆったりと鷹揚な笑みを浮かべた。

「それに自意識過剰と自信は別物。そうでしょう?あたしの絵見たら、誰にも見せたくないっていう気持ち、絶対わかるわよ。」

チラリと、高橋はもう一度キャンバスを見た。

だけど、当たり前だが絵は見えない。

高橋は深く椅子に腰掛けた。

「本当に貰っても良いのか?」

「ええ。」

「悪いが、俺は絵のことはなにもわからないんだ。」

「良いのよ。何かを分かって欲しくて描いてるわけじゃないから。伝えたいことがあるならちゃんと言葉で言うわ。それぐらいには あたし文明人よ。」

「芸術家は古代人なのか?」

「言葉を持たないのならなね。画家にしろ小説家にしろ、なんでも。自分の口で気持ちを表現できないのなら、それは古代人でしょ?」

いや、むしろそれはどちらかというと原始人だろう。

そう言えば、芸術家には口べたな物や、自己表現の苦手な物が多いという。

だからこそ、自分が作り上げる創造物で自己を表現しようとする。

「それでいけば、口数が少なく無口で自己表現の下手なあなたは古代人の部類ね。」

指を突き付けられて、高橋は少し身を引いた。

眉間に皺を刻む。

「人を指差すな。」

彼女は指を引っ込めた。

「反論は?」

もちろん、反論はある。

自分で自分が口べたで自己表現が下手だと思った事などただの一度もない。

ただ、無駄口を叩きたくないだけだ。

しかし、そんなことを言ったところで、彼女に口で敵わないことはとっくにわかっている。

高橋は無言に徹することで、肯定と否定を曖昧にぼかすことにした。

だが、そこら辺も勘の良い彼女には分かってしまっているのかくすくすと隣で 川奈 は肩を震わせていた。

暫くの間、静かな教室の中に彼女の笑い声が小波のように響いた。

空気がサラサラと揺れる。

窓からは、蝶が羽根を動かす度に零れる鱗粉のように藍色の光が注ぎ込まれる。

それが、白い 川奈 の肌に淡い燐光を作り出していた。

多分自分の手も、窓にかざせば蒼く薄光りするのだろう。

高橋は、川奈が繰り返し「時間が止まればいい」と言った気持ちが、今なら少し分かると思った。

それは、何げない瞬間にぽつりと自分の目の前に雫のように落ちてくる。

愛おしさや切なさを伴って。

無性に手放したくないとか、壊したくないとか、失いたくないとか、そんなことを本気で思ってしまうのだ。

今、この穏やかに流れる時間の中で、彼女ととりとめない意味さえ探せそうにない会話を交わしている事が、どうしようもなく掛け替えない ものなのだと思えた。

本当に大切なんだと心の底からしみじみと感じられる物ほど、それは極ありきたりに転がっている物なのだと思った。

高橋は、だから瞳を細めて彼女の横顔を見つめる。

睫を震わせ、くすくすと彼女は笑っている。

とうに見慣れた物のはずなのに。

どうしてか、無性に胸が締め付けられた。

一頻り彼女は笑った後、目尻に溜まった涙を拭い、

「久しぶりに大笑いしたわ。あ~スッキリした。」

「笑いすぎだ。」

高橋は憮然と返す。

川奈 はチラリとこちらを見て、それから面白そうに肩を竦めた。

時々思う。

彼女は、微笑み一つでがらりと己が身に纏う雰囲気を色々な色や模様に変えてしまう。

例えばそれはとても鮮やかな赤だったり、しっとりとした紫だったり、透き通るほどの切なさを内包した青だったり。

悪戯っぽかったり、慈悲深かったり、愛想笑いだった、爆笑だったり。

まるで衣服や口紅を取り替えるように、彼女は笑みで装いを変えてしまう。

高橋にはそれが彼女特有の特技なのか、それとも女性だけが持ち得る特技なのか、わからない。

だが、どちらにしろ尊敬には値するだろう。

「絵、貰ってくれる?」

問われて、高橋は頷いた。

「良かった。」

心底嬉しそうに、彼女は息を漏らした。

そして、ふっと瞳を細めるとするりとこちらへ向かって腕を伸ばした。

高橋は、とっさのことで反応が遅れた。

首に彼女のひやりと冷たい腕が回される。

それと同時に、自分を真っ直ぐに見つめる彼女の瞳が間近に迫った。

釘付けになった。

どうしてか、彼女の瞳に。

その深さに。

その切なさに。

ふっと唇に触れた感触。

鼻先を掠めた甘い匂い。

お互いを見つめ合わせたままの、キスだった。

仕掛けて来たのが彼女からなら、終わらせたのももちろん彼女からだった。

さっと身を離したとたん、悪戯が成功した子供のような笑みを顔一面に浮かべる。

「お祝品いただきね。」

「キスが?」

さすがに呆れた。

「贈り物というよりも、どう見ても強奪品の間違いじゃないのか?」

高橋は舌の上に広がった味に顔を顰める。

「不味い。」

「絵の具の味ね。さっきあたしが絵にキスしたせいで、唇に絵の具が付いてたんだわ。」

川奈 は緩く唇を引き結んで、微笑した。

「これってもう絶対に忘れられないキスね。」







恋だった。

とてもとてもささやかな。

たくさんの未熟と隣り合わせの。

後悔だらけの、恋だったのだ。







夏休み中、多くの生徒が夏期休業を楽しんでいても、もちろん部活は毎日続いている。

炎天下の日差しの中、あてどもなくボールを追い続けることは、時々どうしようもなく虚無的な気分にさせられる。

こんな行動にどれほど意味があるのだろうかとか。

どれほどの必要性があるのだろうかとか。

もちろん、意味も必要性も十分にあるのだが、暑さでゆだっている思考回路は、時々ショートしてしまって混乱するのだ。

「高橋。」

マネージャーに名前を呼ばれ、彼が組み立てた練習メニューの最終チェックを任される。

その隣で、部員たちがウォーミングアップを始めていた。

暑い暑いとぼやきながら、背中を押してロードワークに引っ張り出している。

何人かはとっくに走り込みに行っているのだろう、姿が見あたらない。

幸原は、高橋のすぐ傍で地面に腰を下ろして靴の紐を直していた。

昨日となんら代わり映えのない、今日。

どこにも目新しさなど、一つだって発見できない。

同じ事の繰り返しで過ぎてゆく時間。

そのはずだった。

「高橋、ちょっと。」

顧問の先生だった。

周りにいた皆がいっせいに顔を上げる。

「はい?」

高橋は、歩いてくる彼へ、こちらからも歩み寄ろうとした。

だけど、その瞬間、腕を掴まれた。

振り向くと、幸原だった。

彼はきゅっと唇を引き結び、眉根を寄せていた。

まるで今にも泣き出そうとするのを、必至で我慢している、そんな表情だった。

「幸原?」

高橋は怪訝に彼を見返す。

幸原の瞳の中で揺れているのは、嘆きと労りだった。

「高橋。」

もう一度、先生に呼ばれた。

するりと幸原の手が離される。

彼は何も言わなかった。

高橋は、彼の傍へと足早に近づいた。

「あんたのとこの担任が呼んでる。職員室へ来いとさ。」

その瞬間、高橋の中で直感にも似た不安が駆け抜けた。

わけのわからない、戸惑いと、得体の知れない不安。

だが、それを寸前で押し隠し「わかりました」と頷いて、職員室へと向かう。

心臓が早鐘を打っていた。

それは限りなく恐怖に近い不安だった。

胸をわし掴みされるような痛み。

下腹部に走る緊張感。

コートの中でさえ感じることのない、本物の不安だった。

わからない。

なぜ、こんな不安を感じるのか。

だけど、心の中で何かが警鐘機を鳴らしている。

もう、終わりだと。

もう、何もかもが終わりを告げたのだと。







「彼女とは、小学校が一緒でね。二度同じクラスになったことがあるんだ。」

コートの練習を眺めていた高橋の傍にやってきた幸原は、こちらが何かを言うより早く自分から話し始めた。

彼の声は、とても淡々として冷たい。

でもそれは、冷ややかだというのではなく、声に温度を感じないという表現がぴったりくるものだ。

心地よく優しい冷たさ。

石とか水とか風とか、そう言う種類の冷たさだった。

「先天性の心臓疾患とかで、滅多に学校に来ることもなくてね。何度も入退院繰り返してるんだってその時の担任から話を聞いたんだ。 千羽鶴とか、お見舞いの手紙とかをクラスで作ったこともあったよ。」

 コートの中を走る部員たちをぼんやり眺める。

「彼女とは何度か話したことがあってさ。病院で。クラスで作った手紙持っていったの、僕だったから。その時に聞いたんだ。」

幸原は、そこでいったん言葉を止める。

「彼女は知ってたよ。」

高橋は、ぎゅっと掌を握りしめた。

彼の声は、どうしようもなく冷たく聞こえるのに、優しいほど労りに満ちていいるから、胸を締め付けるのだ。

気を緩めると、ダイレクトに身体の中に響いてきて、どうしようもなくなってまう。

「――――――自分がもう長くないこと。」

高橋は、瞳を伏せた。

足元には、自分の影が黒々と出来ている。

「僕に笑いながら、そう自分で言ったんだ。」

誰かの笑い声が聞こえる。

それに反論するまた誰かのばかでかい声。

見ると、どうやら後輩の放ったサーブが、部員の一人の後頭部に直撃したらしい。

その事でマネージャーが後輩を叱っているのだが、相手はつまらなそうに顔を背けたまま、何処吹く風だ。

それを見て副部長が苦笑を浮かべている。

良くある光景。

毎日、必ずコートのどこかで目にするほどの、ありきたりなシーンだった。

「高橋。」

幸原を見ることは出来なかった。

「怒ってる?彼女のしたこと?」

唇を噛む。

「後悔してる?彼女を好きになったこと?」

喉が詰まって、痛みを覚えた。

「僕が彼女のこと知ってて黙ってたのはね。時間は止まったりなんて絶対にしないから。なら、流れてゆく時間の中で少しの間でもいいから 彼女や高橋が幸せになってくれればいいとそう思ったんだ。結果的には哀しみが増すことになっても。それでも、幸せだったという 想い出は消えたりしないでしょう。後悔は残るかも知れないけど。だけど、出逢えなかったことを後悔するよりは良いと思ったんだ。」

出逢ってしまったことに哀しんで後悔することと。

出逢えなかった事で、彼女を知らないで過ごしてしまう日々に後悔するよりも。

例え哀しくても、彼女と過ごした日々を幸せだったと、そう思って欲しいと。

高橋は息を詰めた。

「好きになったことに、後悔だけはしないであげて。」

そのとき、思った。

もし、彼の言葉通りに。

彼女を好きになったことに後悔できたなら、どれほど救われることだろうと。







全く嘘つきだったというわけだと、鼻で笑いたくなる。

なんて、演技の巧さだろうと、いっそ感嘆さえしたくなるほどだ。

学校が嫌いだからサボっていたことも、遅刻していたことも、体育の授業を見学ばかりしていたことも。

走った後、あれほど苦しそうに喘いでいたのも、貧血を起こして倒れかけたのも。

あれほど時間に固執したことも。

全て、嘘だったのだから。

本当にふざけているったらないだろう。

人をおちょくるにもほどがある。

後から聞かされた真実の数々に、こちらが何も感じないと本気で思っていたのだろうか。

例えば胸が痛まないとか哀しまないとか、考えていたのだろうか。

それほど冷血漢に見えたのだろうか。

だったら、かなり心外な話だ。

これでも人並みに、哀しみだって感じるのだから。

あんまりに哀しすぎて、涙さえ出ないほどだった。







夕暮れの美術室。

秋が近いせいか、部屋に満ちる空気はひやりと冷たく凝っているようだと高橋は思った。

部屋の中に差し込む緋色の日差しと、仄暗い翳り、それらに瞳をやりながら、高橋は無意識に誰かを捜している自分に気付いて、 苦笑を浮かべる。

机の上に置き忘れたままのパレット。

乾いて固まった青や、緑の絵の具。

コロリと転がった絵筆。

真っ白なキャンバスが幾つも無造作に壁に立てかけられている。

白い石膏像のけぶるように遠くを見つめている眼差し。

高橋は、そっと机の縁をなぞる。

風にはためくカーテン。

開け放したままの窓から見える、暮れなずんだ空の広さ。

木々が落とす深い翳り。

風に含まれた、夏の匂い。

溜息が落ちる。

何処を捜しても、彼女はいない。

いないはずなのに・・・・・。

だけどこの場所には彼女と過ごした時間の欠片が、無造作なほどいくつも転がっている。

例えば笑った顔とか、零れた吐息とか、紡がれる言葉とか、頬の辺りで揺れる髪の毛や、翻るスカートの裾、絵筆を握る指、 悪戯っぽい眼差、透き通るほどに透明な横顔が。

だから、どうしても色々なものを捜してしまう。

彼女の姿を。

彼女と過ごした時間を。

だけど。

まだ想い出と呼ぶには早すぎるはずなのに。

なのに。

どうしてだろう。

流れすぎていった時間は全てが過去になり、想い出として精算されようとしていることに、漠然と気付いてしまうのだ。

ここに残されたたくさんの彼女の移り香さえもが、空気に溶けて消えてしまいそうなほど色褪せようとしている。

いつか夏が終わり、蒼い空も甘い梔子の香りも見あたらなくなってしまうように。

指の隙間からぽろぽろと零れる砂のように、彼女の存在も消えてしまうのだろうか。

そう思うと、焦燥感で胸が焼ける思いがした。

少しずつ彼女が残していった物が消えていくことを意識するたびに、どうしようもない喪失感を覚える。

その度に、自分の中でどれほど彼女の存在が占めていたのかを思い知らされた。

いまさら、何もかもが手遅れだというのに。

高橋は、小さく息を吸い込んだ。

空気には小さな棘が幾つも含まれているのか、チクチクと喉や胸に痛みを覚えた。

例えば後悔。

例えば罪悪感。

それらが、高橋を嘖む。

気づけなかったこと。

気付いてあげられなかった。

労れなかったこと。

彼女が胸に抱いていただろう哀しみや苦しみや痛みや嘆きや、恐怖や不安を。

何一つ気付くことさえしてあげられず。

守ることも分かち合うことも、してあげられなかった。

そして、彼女はそんな高橋を責めなかった。

彼女が何のために高橋に病気のことを伝えなかったのかは、わかる。

たぶん、壊したくなかったのだ。

日常を。

未来へと果てしなく続くごくありきたりの明日を、彼女は壊したくなかったのだろう。

時間が流れすぎていくことを恐れるのと同じくらいに、彼女は日常が止まってしまうことも恐れていたように思える。

だけど、例え誰も高橋を責めなくても。

高橋は自分が自分で許せなかった。

ヒントはあちこちに隠されていたのに。

その時ふと、窓際のカーテン傍にセピア色に黄ばんだシーツを見付けた。

正確には、シーツを被ったキャンバスを見付けた。

そこで、思い出す。

そう言えば、彼女が自分に最後に残した言葉。

絵を、あげると。

夏の終わりに、取りに来てと。

高橋は、その絵へと近づいた。

そして、ふとシーツにセロハンテープで貼り付けられた一枚の白い封筒を見付けた。

宛名には、柔らかく崩された文字で「高橋学さま」と書かれている。

高橋は、瞳を細めた。

川奈 だ。

なんとなく、そんな気がした。

こんなことをするのは、彼女ぐらいしかない。

高橋は、そっと手紙を取り外す。

きっちりと封がしてある。

それを、静かに開けた。

カサカサと乾いた音が、静かさが満ち溢れる教室の中に響く。

封筒を開けたとと同時に、優しく甘い香りが零れた。

手紙と一緒にハラリと数枚ほど、白く小さな紙切れが落ちた。

高橋が怪訝に思って床に散らばったそれを拾い上げると、紙切れではなく花びらだった。

いくから茶色く変色しているが、乾燥した花びらだった。

梔子。

高橋はそれを掌にそっと握り込んで、手紙を開いた。







あなたがこの手紙を開く頃、私はもうこの世界のどこにもいないでしょう。

こんな形であなたに手紙を残してしまうことを許してください。

あなたのことだから、さぞ怒っているか薄気味悪くおもっているか、そのどちらかではないかと私は推測しています。

だけれど、私は最初から決めていました。

あなたと過ごす時間の中にいる私は、何処にでもいる普通の女の子でいようと。

少なくとも、あなたがふとした瞬間に思い出すとき、私は真っ白な病室でパジャマを着て横になっている姿ではなく、 この学校の校舎の中で制服を着て歩いている姿が良いなと、ずっとそう思っていました。


病気のことは、とうに諦めていました。

小さな頃から何度も何度も賞味期限を突き付けられていた身体だったから。

だから、私はいつも、もしすぐにでもこの世界から消えてしまうことになったとしても、何一つ心残りのないように生きようと 決めていました。

後悔しないようにと。

その為に随分と周りの人々に我が儘も言いました。

心配もかけたことでしょう。

父や母やお医者様や、学校の先生に。

そして、何よりもあなたに。

だけど、後悔はしていません。

我が儘を言ったことも、自分勝手をしたことも、そして好きに生きたことも。

例えこの事が私自身の時間を早めてしまう結果になったとしても、この身体の期限を一足飛びに進めてしまう事なったとしても、 心残りを残したままでは、私の心はどこにも逝くことができません。

彷徨うように、この場所にとどまることはどうしてもしたくありませんでした。

地縛霊や浮遊霊なんて、絶対に嫌でしょう?

そこまで浅ましく、命に執着はしたくありません。

ただただ、私は私が幸せであることに固執したかった。

そして、そうやって生きることが、私を大切にしてくれた人への、私が唯一出来る感謝です。

だから、その為に私のことをとても大事に思ってくれた人々を傷つけてしまったこともあったことでしょう。

きっとこんな形でさよならをしてしまったあなたを、私は傷つけてしまったことでしょう。

だけど、謝ったりはしません。

私が我が儘だって事は、あなただってよく知っているでしょう?

それで良いのだと思います。

あなたが思い出す私は、いつも我が儘で勝手気ままで、そんな女の子で。

それが、私の本望です。


本当は、手紙を書くかどうか悩みました。

何も言わず去っていくことも、それはそれでまるでドラマのように格好良いことだけれど、そこまではどうやら私は大人にはなりきれていないようです。

あなたに言いたいことがたくさんあります。

あなたに聞いて欲しいことがたくさんあります。

だけど、多くを語るにはきっと私の時間は短すぎますね。




その部分で、しばらく彼女の筆が止まったのだろう。

字の形が微妙に変わっている。

高橋は、僅かに息を落として、傍にあった机の縁に浅く腰を下ろした。




ああ、でも一つだけとてもとても心残りがあります。

あなたのことです。

私がいなくなった後、あなたが怒ってやしないか心配です。

騙されたって。

でもまあ、騙されたあなただって十分悪いのです。

とはいえど、騙しきった私としては快哉を叫びたい気分です。

いがいと、私女優のようだったでしょう?

と、こんな事を書いたら、あなたが怒りにまかせてこの手紙を引き千切ってしまいそうなので、ここら辺で引き際綺麗に謝っておきます。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい。




そうやって、まる一枚分ほどごめんなさいの、言葉が埋まっていた。

さすがに、高橋は笑ってしまう。

そこまで彼女に怯えられていたのか。

勉強の度に口うるさく言い過ぎたせいなのか。

それとも、彼女によく注意されたしかめっ面のせいなのか。

だけど、たぶん、彼女流の冗談のつもりなのだろう。

紙一枚全てに、羅列されたごめんなさいの文字に、さすがに怒りなど通り越してただただ・・・・。




ここまで謝っておけばいい加減許してくれるでしょう?

ここまで謝らせておいて許してくれないというなら、人間としていかがなものかとも思うしね。

私はあなたに優しさに縋ることにします。




彼女の笑った顔が浮かび上がる。

楽しそうに悪戯が成功した子供のように笑っている顔。

だけど、次の紙をめくった瞬間、高橋は僅かに息を詰める。

前半部分のよそよそしい雰囲気が埋まった言葉が、がらりと変わる。

彼女が不意に浮かべる笑みのように。

高橋は、唇を噛んだ。

瞬きを繰り返す。

そうしなければ、痛みに耐えられそうになかった。




ごめんね。

それでも、私は私の望みを諦めきれなかった。

例えあなたを傷付けることになっても。

優しいあなたを、私の我が儘で哀しませることになったとしても。

それでも、一緒にいたかった。

あなたと一緒にいたかった。

例えどんなに短い時間の間でも。

それが刹那ほどの間でも。

あなたと一緒に同じ時間を歩いてみたかった。

ありきたりな学校生活をしてみたかった。

さっき、後悔したくないって、言ったよね。

あれはね、少しだけ嘘。

あなたが哀しんでいなきゃ良いと思う。

あなたが傷ついていなきゃ良いと思う。

そればかりが気になります。

私は私の望みのために、生きることが出来たけれど。

その為にあなたを傷つけてしまっただろうことだけは、どうしても心の残り。

いなくなった後にこんな手紙を未練たらしく残して、もしかしたらこの手紙さえもがあなたを傷つける物になっていなければと不安に なります。

だけど、時間だけはどうしようもないから。

何度も時間が止まればいいのにと、あなたと一緒にいるとき思った。

このまま、あなたと二人でなんのへんてつもない学校生活を送れたら、どれほど幸せだろうって。

だけど、私の時間はバカみたいに短くて。

こんな方法しか取れなかった。

高橋くん。

好きだよ。

私にとってあなたは何よりもの救いだった。

病気がつらくても苦しくても、頑張って来れたのはあなたがいたからだ。

あなたと出逢って、少しでも長く生きたいと心の底から思った。

学校なんてずっと苦手だったけれど、あなたに出逢ってから頑張りたいと思った。

強くなりたいと思った。

不安も苦しみも哀しみも、恐怖も痛みも嘆きも、全て強さに変われるように。

あなたと一緒にいるとき、私はいつだって笑っていられた。

もし、あなたが私を思いだしたとき、あなたの記憶の中の私が笑顔であったなら、私は上手く生きていけたと思う。

だから、あなたに出逢えたこと感謝してる。

例え、こんなに短い時間しか生きることが出来なくても。

あなたと出逢えた人生を与えてくれたたくさんの人に感謝してる。

私は間違いなく幸せだった。

本当よ。

だから、もし、少しでも私の死を悼んでいるなら、どうか哀しまないで。

もし自分を責めてるなら、どうか許してあげて。

私は幸せだったんだから。

あなたと一緒にいられて、幸せだったんだから。

反対に、あなたは私をそこまで救ってくれた凄い人だって事よ。

いっそ惜しみなく誉めてあげても良いぐらいなんだからね。







手紙はそこで一度途切れた。

高橋は、どうして良いのかわからなくなる。

こんな言葉をもらうような事を、自分は彼女に何かしてあげただろうか。

怒ってばかりいたような記憶しかない。

怒ったり注意したり、そんなことばかり。

そのくせ、思い出す彼女の記憶は、いつも綺麗に笑った顔ばかりだった。

机に頬杖を付きながら、キャンバスを見つめた横顔、制服のスカートの裾を翻しながら、いつだって笑っている。

どうして、どうして彼女はこんなにも潔いのだろう。

まるで学校を嫌いだと平然とした顔で、言い切ったときのように。

自分の幸せが一番大事なのと、きっぱりと断言したときのように。

それはとても、彼女らしいと言えば彼女らしい。

強さだろうなと、思う。

それが彼女の強さ。

自分の人生を後悔しないと言い切るほどに。

自分の命の短ささえ受け入れてしまえるほどに。

「こんなんじゃ、後悔のしようなんてないじゃないか。」

高橋は小さく呟いた。

川奈 でさえ、己の人生を後悔しないと言い切ったのに。

生きている自分が、彼女と出逢えたことを後悔なんてできやしない。

好きになったことを、痛いと思う事なんてできやしない。

そこまで、自分自身を冒涜したくない。

少しでも、彼女が自分の存在をを救いだと思っていてくれていたのなら。

なおさら。

彼女のためだけに、今は強がりでもいいから。

高橋は、息を吸い込んだ。

唇を噛み締めて、喉につかえている哀しみを必至で押しとどめた。

くしゃりと髪の毛を掻き上げる。

本当に、こんな手紙をいまさら残すなんて。

どうかしているんじゃないだろうか。

絶対に彼女の場合、予測しているはずだ。

こんな手紙を貰えば、相手が何を思うかぐらい。

わからないはずないのだから。

きっと、半分意図してのことだろうと、そう思う。

悪戯っぽく笑う、 川奈 の顔が瞼の裏にちらついた。






手紙は、末尾に追伸で締めくくられていた。




絵のことだけど、あなたの好きにしてくれてかまいません。

気味が悪いと思ったら、捨ててくれても良いです。

あなたにあげたものなんだから、あなたがその絵をどう扱おうと、それはあなたに任せます。

まさか、雑に扱ったからと呪ったりなんてことするほど、私は懐の狭い女ではありません。

ああ、でも、忠告までに。

まさか学校に寄付しようかなんて事は、間違っても思わないでくださいね。

あなたのことだからさすがにそんなことをしたりはしないとは思いますが。

これは、お互いの名誉のために。

人目に着く場所に飾ることはお薦めしません。

それと、手紙に同封している梔子の花びら。

あなたは花言葉知っていますか?

あなたのもとにたくさんの幸せが舞い落ちてくるように、せめてもの罪滅ぼしのために空から祈っています。




高橋は、しばらくずっと手紙を見つめていた。

だけど、文字を繰り返し追うことは出来なかった。

何度か呼吸を繰り返す。

その度に、肺の痛みが増した。

空気中にひっそりと漂う棘は、まるで粉々に砕け散った氷の欠片のようだった。

柔らかな皮膚を突き刺し、痛みと冷たさを生み出す。

瞳の奥も痛いし、喉も痛いし、噛み締めた唇も痛かった。

この手紙の中の彼女は、まだ確かな色を持って生きていた。

笑ったり怒ったり、冗談を言ったり。

当たり前に言葉を綴っている。

だけど、ふっと手紙から視線をあげて、辺りを見回せば。

いつも彼女と過ごした美術室は、もうないのだと実感する。

ひっそりと深く眠り着いたように、空気も、差し込む藍色の夜の翳りも、何もかもが沈んでいる。

翳りが増した夕焼け、一日が過ぎる事に濃く鮮やかになる空、冷たさを含んだ風、枯れ草の匂い。

やがて終わる夏と、始まる秋。

そのどこにも、 川奈 の姿はなかった。

いなくてあたりまえなのだ。

彼女は、もうこの美術室どころか、この学校のどこにも、この広い世界のどこにもいないのだから。

だけど、その現実は、まだ受け入れるには痛くて。

吐息とともに胸に支えていた哀しみが結晶化して吐き出すことが出来ればよいのにと、何度も思う。

しばらくぼんやりと手紙とじょじょに夜の闇が増し始める空を見つめていたが、高橋はやっと感傷を整えると、そっとキャンバスに かかっているシーツを指で掴んだ。

結局最後まで、はぐらかされ続けて見せてもらえなかった。

手紙の追伸に書いてあった言葉では、なにやら意味深げな感じではあったが。

いったい何の絵を描いたのだろう。

シーツを一気に引っ張る。

一番最初に飛び込んできたのは、蒼い空と鮮やかな日差しの色だった。

それと――――――。

高橋は瞠目し、羞恥心で口元を押さえた。

「川奈 のヤツ・・・。」

それと同時に、どうしようもないせつなさが満ちる。

切なさと、愛おしさと。

押さえきれない哀しみ。

くしゃりと髪の毛を掻き上げる。

高橋は、自分が泣き笑いの表情になるのがわかった。

「こんな絵を、いったい誰に見せられるっていうんだ。」

憮然とした呟きが、美術室に響く。

はらりと、掌から数枚の梔子の花びらが零れて、甘い匂いを放った。







タイトル『 I fell in love with you 』と書かれた絵は。

日溜まりの溢れかえる教室の窓際で、頬杖を付いてうたた寝をしている高橋と。

その顔を覗き込んで優しく笑っている 川奈 が描かれていた。


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