中編
マネージャーが作った練習メニューを見ていると、不意に名前を呼ばれて顔を上げた。
振り向くと、数歩後ろにあるフェンス越しに 川奈 が立っている。
高橋は持っていたメニュー表を、たまたま隣でコートの空きを待っていた部活仲間に渡して、彼女に近づいた。
「どうした?」
「今日は早く帰ろうと思って。お迎えいらないって伝えに来たの。」
「ああ。そうか。わかった。」
「練習中に呼び出してごめんね。」
川奈 が微笑んで言った。
「でもこの間みたいにいつまでも待っててもらっちゃあ悪いしね。」
だったら、そんなに遅くなる前にさっさと絵を切り上げたらどうだという言葉が喉から出かかって、寸前で押しとどめる。
彼女の場合、言って素直に聞くような人間ではないことはとうにわかっていることだったからだ。
「明後日の日曜日、試合なんでしょ?」
川奈 がコートの中で練習に勤しんでいる部員達の姿を見やる。
高橋も彼らの方へと視線を向けた。
ポーン、ポーンと断続的にボールがガットやコートを打つ音が響く。
それに賑やかなかけ声。
「元気ねぇ。あそこで試合してるのは噂の子?一年生でレギュラーになったっていう。」
「ああ。」
「そう。試合に出るの?」
「ああ。」
「高橋くんも出るの?」
高橋は彼女を見た。
川奈 はコートの中で小柄な身体を動かしている後輩を見つめていた。
「あの子、綺麗ね。身体のラインが特に。躍動的っていうのかな。猫科の獣みたい。一度モデルお願いしたいくらい。」
独り言のような呟きが聞こえた。
彼女は人物画を描くのだろうか、ふとそんなことを思った。
「それで、高橋くんは試合出るの?」
目線だけで問うてくる。
「ああ。」
「そう。」
ふっと 川奈 が微笑んだ。
「応援に行くわ。」
高橋はちょっと言葉に詰まった。
どう反応を返して良いのかわからなかったからだ。
だが、言葉を返せないでいる自分を彼女は気にしたふうもなく、ただ微笑んでいる。
「明日は試合終わるまで声かけたりしない方が良いだろうから、今のウチに言っとくね。頑張って。」
「・・・・ああ。ありがとう。」
僅かに戸惑いながらそう言うと、 川奈 は笑みを深くした。
彼女の笑みは、時々母親が子供をあやすときに浮かべるそれに似ていると思う事がある。
どうしてか、逆らえない優しさが潜んでいた。
だから高橋はいつも、彼女が願い事を口にするとき同時に浮かべるその種類の笑みにあやされ宥められ、結局従わされているような 気がしてならなかった。
「それじゃあ、帰るわ。明日ね。」
バイバイと手を振ってコートから離れていく。
そのスカートが風で翻る様を見つめながら、どうしてから吐息が落ちた。
最近彼女といると、どうしても気を張ってしまう。
何故なのか自分自身でさえわからないけれど、まるで試合直前に生まれる心臓を捻るような緊張感を感じた。
高橋がコートに戻ってくると、部活仲間の友人がすっとメニュー表を差し出した。
「さっきの子、高橋のクラスメート?」
「ああ。」
「最近、仲良いよね。」
友人の言葉に、高橋は僅かに眉間に皺を寄せた。
彼は何故か愁いや翳りを滲ませた声と表情をしていた。
いつもの控えめな穏やかさを浮かべた表情のなかに、どこか人を痛んでいる、そういう雰囲気がさっと流れて、消えた。
高橋は、友人のその刹那の表情が気になった。
「それが、どうかしたのか?」
「ううん。別に。なんでもないよ。ただ、なんとなく気になっただけ・・・。」
彼はすぐに明るい表情に変わって、話を打ち切った。
こちらを見つめていた視線を逸らし、コートに向けてしまう。
その瞳にも唇にも頬にもカーテンが掛かったかのように高橋の存在を遮っていた。
友人の横顔は、時々 川奈 が浮かべる硬質な物に似ていた。
人にこれ以上を踏み込ませまいとするための防御壁に似た・・・・。
しかも、彼らが浮かべる物は傍目からはあんまりに穏やかだから、すぐにはそれと気付かない。
近づいて触れてみて、始めて知るのだ。
だから高橋はそれ以上の詮索は止めた。
終わりなんて、誰の元にも等しく訪れる物だから。
いつかは、どこかで区切りをつけなくてはならなかったのだ。
川奈 が、遅刻魔なのは今に越したことではない。
だから、コートに立ってすっと周りを見渡して、そこに彼女の姿が見あたらなかったとき、高橋はいい加減あの遅刻癖をどうにか するべきだなと思った。
いつかは、その事で痛い目にあうこともあるだろう。
友人との約束や社会に出たとき、信用は第一問題だ。
遅刻を繰り返せば、いつかは誰からも信用して貰えず孤立して困るのは 川奈 自身だろう。
彼女の場合、されさえも飄々とやり過ごしていそうな雰囲気がしないでもないが、協調性というのはなくて困る物ではない。
いっそ、多分に合った方が良い物だ。
審判が試合開始の合図を放つ。
高橋は、サーブを打つ為に軽くボールを地面に打ち付ける。
ポンポンポンと音が響く。
意識が、細い針の穴を通すように冴え渡っていくのがわかった。
誰の歓声の声も聞こえない。
誰の姿も映らない。
風も日の光も、全てが色褪せていく。
あるのは、コートとボールとその向こうにいる敵だけだ。
それ以外に、今の自分に必要な物などなかった。
それ以上に、意味のある物などないはずだった。
それだけ。
それだけが、今の自分に必要で意味のある物全てだった。
なのに、高く上げたボールを打とうとした瞬間、敵側のフェンスの向こうに少女の姿が見えた。
呼吸荒く、フェンスに指を絡めて腰を折り曲げ、膝に手を付いて息継ぎを繰り返している。
激しく上下に揺れる肩。
青味を帯びた白い頬に張り付いた黒髪。
川奈 だった。
彼女は、荒い呼吸のまま額を伝う汗を拭って顔を上げた。
こちらを、見た。
瞳が合った。
瞬間、彼女は迷うことなくにこりと微笑んだ。
「最初のサーブは、少しコントロールをミスったみたいだね、高橋。」
手帳に何事かを書き連ねながら、マネージャは高橋がベンチに戻ってくるなり開口一番言った。
「はい、タオル。」
手渡されたタオルを受け取る。
「どこか他のことに気を取られていたみたいだが。何かあったのかい?」
彼は中指で眼鏡を押し上げながら尋ねてくる。
「いや。なんでもない。」
高橋はおざなりに額の汗を拭った。
「高橋にしては珍しい油断だね。」
彼はそう言葉を締めくくった。
高橋は、ふいと彼らから視線を逸らして、もう一度フェンスの向こう側にいる 川奈 を見た。
彼女の顔色が悪い。
ただでさえ白い肌が、遠目にもわかるほど透き通ってしまっている。
それに、あれから十分近く経っているのに、彼女の呼吸が治まらないのだ。
本人は平気なフリをしているが、フェンスにきつく絡み付けた指に高橋は気付いていた。
どうしたのだろうか。
怪訝に思っていると、
「ええと。じゃあ、みんなこれから閉会式に出る用意をして。」
真副部長がベンチに集まっている他の部員達に向かって声をかけている。
試合に出たのはレギュラー八名だけではあるが、開会式と閉会式には一応部員全員に出席が義務づけられている。
わらわらと後輩達が荷物を肩に提げて、移動を開始する。
「高橋。」
友人だった。
いつの間にか隣に立っている。
「なんだ?」
「この後僕が適当に言い繕っておくから、彼女の所へ行ってあげて。」
友人の瞳は、迷うことなく 川奈 に向いていた。
その事に内心驚く。
それは言葉の内容にもあったし、友人が川奈の存在に気付いている事に対してもだった。
「なぜだ?」
高橋は眉間に皺を寄せた。
言葉の意味を計りかねると暗に伝える。
だが、彼はこちらに顔を向けることもなく、ただ彼女を見ていた。
その横顔に、暗く愁いを帯びた翳りがじわじわと水を吸い込んだハンカチのように滲み出していた。
「おい・・・?」
「早く行ってあげて。」
ますます分けがわからない。
「だめだ。」
「高橋?」
「部長の俺が理由もなく抜けるわけには行かない。」
何故だろう、瞬間彼は今にも泣き出しそうな、それでいて怒り出しそうな表情をした。
彼の瞳が不安定に揺れている。
「理由ならあるよ。彼女の傍にいてあげるっていうのはダメなの?」
普段の彼は、どちらかというと他人事には必要以上に介入してこない。
例えば部員同士の争い事も、それがレギュラー同士だったとしても、彼はどちら側にも付こうともしなければ、率先して仲裁役を 買って出ようともしない。
ただ静かに全てを眺め、成り行きを見極める。
派閥を作ることもなければ属することもなく、かといって一人孤立するというのでもなく、ただの傍観者であることで、 中立を貫こうとする。
ある意味彼は他人に対してどこまでも淡泊になれる人種なのだろう。
裏を返せば他人に対しても自分に対しても公平にあろうとする男だった。
その、いつだって傍観者側に佇もうとしている友人が、今日に限って執拗だった。
高橋は、その事を不審に思った。
「いったいどうしたんだ?別に今すぐ川奈の側に行かなくてはならない必要性などないだろう?向こうにもし用があるのなら こちらの用事が終わるまで待っているだろ。」
その瞬間、彼は何故か憐れむような眼差しをした。
哀しみと嘆きと労りとが複雑に混ざり合って途方に暮れている、そんな表情だった。
微笑もうとして失敗したように、笑顔が歪んだ。
彼はすぐに、それを隠すために俯く。
「おい?」
「・・・・・後悔したくないでしょ?」
「?」
俯いた彼の唇から大袈裟なほど大きな溜息が落ちたのが聞こえた。
そして、戸惑う高橋の目の前でくいっと顔を上げると、彼には珍しいほどきつく眦をつり上げた。
「いつか、今日の日を振り返って後悔しないためにも、今は彼女の所へ言った方が良い。」
「意味がわからないんだが。」
「今はわからなくてもいつかわかるから。絶対に。」
とても、苦くて痛い物を口に含んだときのように友人の整った容姿が歪んでいる。
それを、泣き出しそうだと何故か思った。
今までどんなにきつい練習でも、先輩のしごきの中でも一度だって涙を見せたことのなかった友人の、その表情に戸惑う。
何が彼をそこまで、追い詰めているのかがわからない。
「行って。」
彼が繰り返した。
高橋は 川奈 を見た。
先ほどまで苦しそうにしていたが、今は至って普通に佇んでいた。
何が楽しいのか、ニコニコと笑いながらこちらを見ている。
「高橋。僕は君のために言ってるんだよ。今ここで彼女の傍に行かなかったことを、いつか君は絶対に後悔して自分を責めるだろうから ――――――。」
友人の声も瞳も祈るような真摯さに染まっていた。
どこか哀願にも似た響き。
「僕は少しでも君の哀しみが救われれば良いとそう思ってる。今はわからないかもしれないけど。でもいつか、ちゃんとわかる日が来るから。 その時、君が少しでも救われれば良いと思ってる。だから、今は彼女の傍にいてあげて。」
だけど、後悔の波はとめどなく押し寄せて。
哀しみの淵は、底などないかのように深い。
「 川奈 。」
水飲み場の傍のベンチで腰掛けていた彼女は、すぐに気付いて顔を上げた。
そして、彼女には珍しくあからさまなほど驚いた顔をした。
「え?なんで、ここにいるの?だって、閉会式じゃないの?他の人、みんなグラウンドの方に行っちゃてるわよ?」
だが、驚いているのは高橋自身も同じだった。
結局あの友人に押し切られ、閉会式もその後のミーティングもサボるはめになってしまった。
何故、そこまで彼が執拗に自分を 川奈の元へ行かせたがったのか。
そして、結局その提案を、何故自分は受け入れてしまったのか。
全くわからなかった。
友人の意図も、自分の行動も。
テニス部の部長としての立場を、自分は一度だって軽いものだと思ったことはない。
問題児やくせ者ばかりの勢揃いしたような部員が集まっているのだ。
部長の自分が気を緩めれば、和は容易く乱れてしまうだろう。
今の自分たちがここまで強くなれたその裏には、薄い氷の上にやっと結ばれている繋がりがなんとか続いているからに過ぎない。
良くも悪くも、レギュラーメンバーは個性が強すぎる。
その個性を存分に生かすためにも、どうしてもお互いの協調性が必要だった。
それを縛るために、自分がいると高橋は思っていた。
もちろん、どこかで息抜きは必要かもしれない。
絶えず気を張りつめ続けていれば、誰もが息苦しさを感じ窒息してしまう。
だから、副部長みたいな甘さが部内には必要だろう。
代わりに、高橋は厳しさを彼らに与える存在でいるつもりだった。
その自分が率先してサボるなんて。
どうかしている。
友人の口車に乗せられて。
今までそんなことなどなったのに。
自分でも無意識に、 川奈 のことが気に掛かっていたのか。
マネージャーにも言われたことだ。
試合の最中だったのに。
一瞬とはいえ、彼女に気を取られたのはどうしようもない事実だった。
今までそんなこと、あり得なかったのに。
誰よりも、その事に混乱しているのは高橋自身だろう。
「高橋くん?」
ベンチに腰掛けたまま、 川奈 は不思議そうに瞳を瞬かせた。
「顔色が少し悪いな。」
高橋は憮然とした声で言った。
友人の言いたいこともさっぱりわからないが、自分自身でさえコントロールできない自分の心に腹が立つ。
彼女は、キョトンとした後、「ああ」と言って笑った。
「久しぶりに走ったら気持ち悪くなっちゃった。運動不足かしらね?」
瞬間、気が抜けた。
とたん、呆れと怒りが入り交じった言葉が口を付いた。
「バカか。」
「あ、何よその言いぐさ?」
むっと 川奈 が唇を尖らせる。
「仕方ないじゃない。試合に遅れそうだったんだもの。コレでも約束守るために頑張って走ったのよ。言っとくけどねぇ、文化系と 運動系との部活の身体の鍛え方を一緒にしてもらっちゃあ困るのよね。自分たちが平気だからって、か弱い女の子が何百メートルも 全力疾走して平然としてると思ったら大間違いよ。そりゃあ貧血おこしかけて頭フラフラにもなるわ。ちなみにあたし体育って 大っ嫌いなのよ。しんどいから。」
高橋は、もはや呆れて声も出せなかった。
というか、そもそも他人と約束しているなら遅刻などしないように来る物だろう。
そうすれば走らなくてすむのだ。
しかも、いくら文化部系と運動部系とでは基礎体力に大きな差があろうとも、一キロにも満たない距離を走って貧血起こすというのも 問題ありではなかろうか。
体育が嫌いという次元ではない。
圧倒的に体力がなさ過ぎるのだ。
「少しは運動して身体を鍛えたらどうだ?」
「いやよ。疲れるから。」
即答である。
そう言えば、彼女が体育の授業を受けているところを見かけたことがなかったのを思い出した。
高橋は額に手をやって、もはや機械的に溜息が落ちる。
彼女は走って疲れたかもしれないが、高橋は彼女との会話で疲労を覚えた。
何故友人があそこまで彼女の側に行くことを強要したのか、ますますわからない。
「まあ、まあ。隣座りなよ。」
すぐに気持ちを切り替えたらしい 川奈 がぽんぽんと自分の隣の席を手で叩く。
「・・・・。」
高橋は無言で腰掛けた。
「でもまあ、走ってきただけの価値はある試合だったわよ。だって6-0でしょ?しかも決勝戦だったのに相手に一ポイントも与えないな んて、これって凄いことよね?あたしテニスよくわかんないけど、試合観て感動した。」
パタパタと彼女は小さな子供のように足を降った。
「なんか噂だけはめいいっぱい聞いてたけど、ウチのテニス部の部長さんって凄く強かったのね。凄い凄い。」
高橋は、無邪気に喜ぶ川奈にはあと肩を落とした。
それにしても、ただの貧血だったのかと。
「それで、閉会式出なくて良いの?」
ちょっと上目使いになって 川奈 が顔を覗き込んでくる。
それをチラリと一瞥し、高橋はすぐに視線を避けた。
「幸原が上手く誤魔化しておいてくれるそうだ。」
「幸原くん?」
それが、自分をしつこく川奈の元へよこした友人の名だった。
川奈 は一瞬眉間に皺を寄せた。
それは、少し引っかかる表情だった。
川奈 の顔に、右から左へと罪悪感が過ぎったのだ。
「知り合いなのか?」
「ちょっとだけね。」
彼女は肩を竦めた。
どこか言葉を濁した言い方だった。
「それより、何かお祝いしようよ。ジュースでも買ってくるわ。もちろんあたしの傲りでね。」
すくりと立ち上がる。
「いや。そんなこと――――――」
「しなくてもいい」と高橋が言うより早く、川奈は走り出そうとして、だがその身体が数歩進んだ所でくらりと傾いだ。
驚いた高橋はとっさに手を伸ばして、崩れ落ちそうになる彼女の身体を抱き留め支える。
「きゃっ!」
短い悲鳴と同時に、軽い体重が腕にかかる。
それと、柔らかな感触。
頬にサラサラと黒髪が当たって、ふわりと甘い匂いがした。
「川奈 。」
「あちゃあ~。まだ、貧血抜けきってなかったみたい。」
高橋に身体を支えられながら額を押さえ、それでも 川奈 は気丈に微笑んだ。
その額に浮き出ている汗が、冷や汗だと高橋はその時始めて気付いた。
走って身体を動かしたから、ではないのだ。
「ベンチで寝ていろ。誰か人を呼んでくる。」
「いい!いいから。そんなコトしなくていい!」
鋭く、 川奈 が制止の声を上げた。
高橋は驚いて動きを止める。
腕の中で、 川奈 は唇を噛み締めてこちらを見上げていた。
まるで迷子になった幼子が、道行く人に助けを求めて縋り付く姿を思い起こさせた。
だが、すぐに彼女はその顔を笑みで隠すと、
「大袈裟にしないでよ。たかが貧血なのに、騒がれたら格好悪いじゃない。女の子に貧血はワンセットなのよ。良くあること。最近、 忙しくてあんまり寝てなかったせいね。ちょっとベンチで横になるから。すぐに治まるわ。」
彼女は高橋の腕を支えにして、自分の足でベンチまで辿り着くとゆっくりとした動作で腰を下ろし、右向きに身体を横たえた。
「何か冷やす物か飲み物を買ってくる。」
「いらない。それより、傍にいてよ。」
いたって平気そうに笑って言った。
だけど、その顔色は白や青を通り越して、蒼白だった。
高橋はますます不安を感じる。
「やせ我慢はやめた方が良い。」
「本当に大丈夫だってば。ねえ。」
するりと右手をこちらへと差しのばしてくる。
「握っててくれる?」
高橋は瞬いた。
川奈 はくすりと笑う。
「病気の時はね、誰かと触れ合ってるのが一番良いんですって。そうするとね、相手の温もりとか気遣いとか、そう言うのが肌越しに 流れ込んで、元気になれるの。迷信だけど。でも病気の時って気持ちが不安になっちゃうでしょ?そう言うとき、傍にいてくれる 人がいると安心できるよね。」
高橋はしばらく躊躇った後、結局 川奈 の手を握った。
よほど渋々だったのを読まれたのか、繋いだ瞬間声を上げて笑われた。
仕方なしに、 川奈 が横になっているベンチの空いた隙間に腰を下ろした。
彼女の手は、凍えるように冷たかった。
だけどそれは、貧血のために冷たいのか、普段から冷たいのか高橋には判別できなかった。
今まで何度か触れた彼女の体温は、いつだってとても低かったのだ。
まるでいつも冷たい水に身体を浸してでもいるかのようだと、高橋は触れるたびに思った。
「本当に大丈夫なのか?」
「ん。大丈夫。」
ほうと短い息を吐き出し、彼女は握っていない方の手を瞼の上に乗せた。
高橋は彼女の顔から視線を外し、自分たちが座っているベンチの周りに広がっている景色を見た。
人通りはほどんどない。
選手も応援に来ていた人々も、みな閉会式の行われているグラウンドへ行ってしまったのだろう。
シンと静かな空気が満ちていた。
別に、音が全くないというわけではない。
葉擦れの音や、鳥の鳴き声はあちこちから絶え間なく聞こえるのに、そこに人間が作り出す音がないだけで、とてもとても静かで、 まるで世界の中から自分たちだけ切り取られてしまったような気分になった。
孤独に似た静謐さ。
だけど、実際の所高橋は一人ではなく、孤独でもない。
自分の傍には、 川奈 がいる。
どうしたことか、高橋はその現実が決して嫌ではないと思った。
世界から取り残されたとき、そこに 川奈 と二人きりでいることを、不快だと思わない自分がいる。
決して孤独が嫌いだと思ったことはない。
それよりも、好きでもない相手と二人きりで世界に閉じこめられるぐらいなら、いっそ一人でいる方がましだと思いさえするのに。
川奈 がいることを嫌だと思っていない自分がいるのだ。
左手の中にある彼女の手は、凍えるほどに冷たく、頼りないくらいに細かった。
その事を意識したとたん、高橋はヘンゼルとグレーテルの物語を思い出した。
お菓子の家に住む魔女に捕まった幼い兄妹は、兄は閉じこめられ妹は魔女の小間使いとして働かされる。
檻に閉じこめられたヘンゼルは、毎日運び込まれる大量の食事に自分はいずれ魔女に食べられてしまうだろうことに気付く。
しかし、目の悪い魔女はどこまで彼が太ったのか判断できないため、毎日檻の隙間から彼に腕を出すように言うのだ。
腕の太さで食べ頃を計ろうとしたのだ。
なんとも、ゾッとしない話だ。
まるでフォアグラだ。
あの時、賢いヘンゼルは自分が食べた鳥の骨を魔女に差し出し、それをヘンゼルの腕だと勘違いした魔女はいつまでも太ることのない 彼にイライラと業を煮やす。
川奈 の手は節くれだって、今にも握りつぶせてしまいそうなほどの細さだった。
それが、ヘンゼルが魔女に差し出した鳥の骨を連想させてしまう。
女の子の手というのはみんなこんなふうに細いのだろうか。
それとも 川奈 だけが特別なのか。
少し考えあぐねてしまう。
クラスメートの女子だって十分細いが、彼女らの身体に何かの拍子に触れたとき、そこに細さは感じても脆さを感じたことはなかった。
だのに 川奈 の手はどうしてだろう。
まるで砂糖を固めて出来たお菓子のように思えて、触れた場所からポロポロと崩れていきそうで下手に力を入れることさえ出来なかった。
しばらく、高橋は無言で景色を眺めていた。
時々触れ合った肌から伝わる彼女の鼓動や冷たさを意識しながら。
漠然とした心地よさを感じた。
でも、それはどこか今にも薄れ行き消えてしまいそうな儚さの上に成り立つ、平穏だった。
「もう、大丈夫。」
川奈 の声に彼女を見る。
川奈 はむくりと身を起こして、ほうと息を付いた。
「何か飲み物を買ってくるか?」
「うんん。平気。それよりも、傍にいて。」
彼女はまた同じ事を繰り返した。
高橋は押し黙る。
「もう、日暮れね。」
ようやっと落ち着いた気分で周りの景色を見渡したのだろう、僅かに驚きを込めて彼女は言った。
試合が終わったとき、まだ午後の半ばだった。
その後、どれぐらい二人はぼんやりとベンチに座っていたのか。
高橋にもよくわからない。
長かったような気もするし、短かったような気もする。
あんまりに時間感覚が漠然としていた。
でもそれは、彼女といるときによく起こる現象だった。
川奈 は、時間の流れを感じさせない人間だった。
何故だかわからないけれど、彼女の周りでは時間は静止てしまったかのように止まって感じる。
美術室や放課後一緒にいて、ふと我に返るととっくに日暮れが終わっていたり、部活に何時間も遅刻したりということが、 何度もあった。
だから、放課後の勉強に限ってのみ高橋はこまめに時計を確認することに決めていた。
今日は、だけどいちいち時間を気にする必要などなかったから、高橋は一度も時計を見ることなくぼんやりと時間をやり過ごしてしまって いたのだ。
空は、一番低い部分からじょじょに薄紅色に染まり始めていて、だけどまだ天辺の方は水色のままだった。
夕暮れが迫り来る直前の空は透き通るほど淡い。
その蒼が、まるで薄い硝子か氷の表層越しに覗いているかのように、凍えるほどに澄んでいて綺麗だった。
川奈 と一緒にいるとき、ふと気が付けば夕方の中にいることが多かった。
美術室の窓から、じょじょに夜の面積を増し始めた空を見上げ、赤く燻る太陽の残骸が消えるのを何度も眺めた。
彼女と過ごす時間は静止ししたままだと感じるのに、その外側の世界で目まぐるしく流れてゆく時間の早さにいつも驚かされる。
どうしてだろう。
矛盾のような世界に、二人はぽつりと取り残されたかのように佇んでいるみたいだった。
まるで自分たちは取り残されたいと望んでいるかのように。
このまま、時間など過ぎることなく。
静止した場所で、傍観者のように日々を眺めて。
そうして生きていけたなら――――――。
「時々、このまま時間が止まってまえば良いのにって思う。」
高橋は 川奈 を見た。
彼女は小さく微笑んだ。
「このまま、何もかも止まったまま。全てが静止してしまったら、幸せなのにね。」
何気ない口調で紡がれた声には、だけど深い切実さが息を殺しているように思えた。
まだ自分の左手と彼女の右手は繋がったままだ。
その掌越しに、頑ななまでに何かを必至で祈る彼女の想いが視えた気がした。
どうしてか、そんな気がしてならなかった。
緩く、手を握ってくるその頼りない仕草が、分けもなく胸に痛みを与えた。
漠然と、高橋は思った。
今の自分たちは、この夕方の空に限りなく近い場所を歩いているのかもしれないと。
沈み行く太陽と、かろうじて青さが煙のように残った漂白した空の広がる下で。
終わりを目前に控えながら、必至で足掻いている。
何かから逃げ出そうとして。
それがなんなのか高橋にはあまりに曖昧としていてわからなかったが。
川奈 の微笑みや言葉はとてもとても淋しさや哀しみに満ちていた。
こんなとき、どう言葉を紡げばよいのか、わからなくて正直困る。
彼女が気休めめいた優しさを欲しているようには見えなかったし、かといってその場限りの同情や同意を求めているようにも見えなかった。
彼女が紡ぐ言葉や浮かべる笑みは、 川奈 自身が胸に抱いている望みを祈るような真摯さで表現しているけれど、それと同時に 諦めることを知ってもいた。
その場しのぎがどれほど無意味な物なのか。
多分、確かすぎるほど 川奈 は知っているのだ。
時間は止まらない。
決して、彼女を取り残して進んでくれたりはしない。
その事を 川奈 は痛いほどわかっている。
だから、高橋は押し黙るしかなかった。
握った手をそのまままに。
「終わりなんて、来なければいいのに。」
静かに静かに、あまりに静かすぎて耳も瞳も心も痛くなりそうなその声を、高橋はただ黙って聞く。
祈りでもなく願いでもなく、それは諦めだと、思った。