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前編

 

梔子の花がぽつぽつと蕾を付け始めた頃、新しい学年に進級してから一度も埋まることのなかった隣の席に、一人の少女が座っていた。

朝のホームルーム前の、クラスメートたちのやかましげな話し声の溢れるなか、彼女はぽつんと一人席に腰掛けて物憂げそうに頬杖を付き、 窓の向こうに広がる夏の空を見上げていた。

抜けるように白い肌と、ほっそりとした首筋と、顎のラインで揺れる黒髪。

くっきりとした瞳は意志の強さに輝いていた。

一瞬、彼女を転校生だと思った。

それまで一度も見かけたことのない顔だったからだ。

もう三ヶ月近く自分の隣の席は空席になっていて、それを当然だと思いこんでいた。

が、すぐに思い出す。

あの席は空席なのではなくて、ずっとその席の主が留守にしていただけなのだ。

三ヶ月近くも。

彼女は、ふとこちらの存在に気付いて振り向いた。

そして、「ああ」と唇を緩めた。

「おはよう、高橋くん。」

ほっそりとした、だけど響きの良い声。

微笑むとき、ほんの少し幼げな顔立ちになること。

それが彼女―――― 川奈百合 との始めての出会いだった。







想い出と、そう呼ぶには切なすぎた。

だけど、時間は流れ行く物だから。

いつかは、全てが過去の物として消えゆくのなら。

想い出と呼ぶよりももっと確かな物として、胸に刻みつけておきたい。

そう思える、恋だった。







「悪いわね、部活サボらせちゃって。」

そう言う声はちっとも悪びれてなどいない。

むしろ楽しそうでさえある。

高橋学は、小さく吐息を落とした。

「おまえは人の話を聞いているのか?」

「聞いてるよ?」

彼女は、一つの机を挟んだ向かい側でにこりと微笑んだ。

言葉のわりに、だけど彼女は机の上に広げた数学のノートに一度も目を落とすことはない。

真っ白な、綺麗なままのページが無機質に二人の間を別っている。

高橋は、今度こそ溜息を落とした。

「俺は、先生におまえの勉強を教えるように頼まれたんだがな。」

「ええ。本当。高橋君のおかげであたし大助かりよ。」

「だったら、少しは真面目に勉強したらどうなんだ?」

「だって、勉強なんて大っ嫌いなんだもの。」

にっこりと、彼女はますます笑顔を深くした。

反対に高橋の眉間の皺が深くなった。

長期欠席をしていた 川奈 の授業の遅れを、担任教師はただ隣の席に座っていると言うだけで高橋に全て押しつけたのである。

もちろん、それには学力の裏付けや、責任感の有無が考慮に入れられたのだろう。

おかげで高橋は放課後の一時間だけ、部活を遅刻することで彼女の家庭教師を引き受けるはめになってしまったのだ。

しかし、コレがまた手間のかかる生徒だったのだ。

こちらが真面目に教えていれば、彼女はぼんやりと空を見上げたり、くだらない雑談を仕掛けてきたりといっこうに勉強に意識を集中 しようとしない。

その事を叱りつければ、反対にニコニコとした顔で揚げ足を取ってくる。

もう半月ほど経つが、教科書のページはやっと数ページを進んだだけだった。

こんなのは時間の無駄だ。

日が経つ事に、 川奈 にはこれっぽっちも勉強をする気がないのだということに、高橋は薄々ながら気づき始めていた。

どんなことでもそうだが、やる気のない者に何を教えてもそれは無意味であり時間の無駄である。

わざわざ放課後の練習時間を潰してまで、彼女に時間を割くことに意味はあるのだろうか。

高橋は、考えれば考えるほどあまりの無意味さと労力の無駄さに呆れたくなった。

明日、担任に辞退を申し入れよう。

これ以上の勉強は無意味だ。

部の方では大会も近いし、たかが一時間でも無駄に過ごすぐらいなら少しでも多くの練習に費やした方がどれほどましなことか。

そう考え、だけど――――――。

「高橋くん。」

不意に名前を呼ばれて、高橋が顔を上げるとすぐ傍で微笑んでいる 川奈 の顔があった。

「眉間に皺。だめよ、そんな難しい顔しちゃあ。みんな怖がって逃げちゃう。笑う門に福来たるって言葉知ってる?」

ふっと額に当たった冷たい感触。

濡れた水のように、凍えた冷たさ。

それが、こちらへと伸ばされた彼女の指だと気付く。

「誰が原因だと思ってるんだ?」

「あたし?覚えはないんだけどなぁ?」

しらっと言われて、鼻白む。

頭を動かし、彼女の指を避けると、高橋は開いていたノートを閉じた。

「もう今日はこれで終わりにしよう。」

「怒ってる?」

「ああ。」

がちゃがちゃと筆箱の中にシャーペンをしまう。

その動作を彼女は眺めながら、ふうと一つ溜息を落とすと、

「だってね、あたし。学校って好きじゃないんだもの。」

高橋は、その言葉に手を止めて彼女の顔を見た。

川奈 はうっすらと唇に笑みを浮かべたまま、視線を窓の向こうに広がる夏空に向けた。

「あたしってそもそも協調性がないのよね。団体行動とか大嫌い。だって、おかしいと思わない?この世の中に同じ人間なんて一人として いないのよ。普通、どんなことでも個人差はあるものなの。発育も運動も勉強も。だけど、学校じゃあ、少しでもみんなから遅れをとれば 脱落者として扱われる。そういうの、おかしいでしょ?勉強も運動も出来て当たり前って考え方って好きじゃない。友達は作る物、 勉強はするもの、学校は来るもの、そう言う考え方が嫌いよ。あたし達はロボットじゃないんだから。決められた制限時間内の なかで、何もかもする必要なんてない。一時間のウチに、数学の教科書を何ページ進ませられるかとか、英単語を何個覚えるからとか、 100メートルを何秒で走れるかとか。そういうのはとってもナンセンス。人生は競争じゃないわ。」

「・・・・それは屁理屈とはいわないのか?」

「そう聞こえるのならそうなのかも。でも、あたしは誰かと競い合いながら生きていくよりも、わからないところを助け合いながら、 楽しい事を共有して生きていく方が、よっぽど好きよ。高橋くんは、違うの?」

彼女の考え方は、かなり独創的で。

だけど、真理だった。

高橋は、片づけようと手を伸ばしていた数学の教科書に視線を落とした。

そこに並ぶ数字の羅列に、本当のところどれほどの意義があるのか、実のところ知っている人はどれほどいるのだろう。

「確かに 川奈 の言うことには一理あるかもしれない。だが、努力と強制は別物だろう?おまえの話じゃあ、生徒は無理矢理競争社会へと 押し込まれているということになるが。だからといって、嫌なことから逃げることが良いことだとは言えないな。苦手な事は克服する 為にある。勉強は出来て当たり前ではないが、出来ないよりは出来た方が良い。自分自身のために。努力する事を人は覚えるために 学校へきているのだろう?」

努力すること、未来への足がかりを掴むこと、大人になること、自分は一人きりの存在ではないと言うこと、世界の広さを知ること。

そういうことを教そわる場所が学校だと、高橋は思う。

高橋の言葉に 川奈 は、僅かに驚いたように瞳を見開いた。

それから、ふっと微笑む。

「そういう考え方もありか。さすが、頭良いよね。」

空気が静かに揺れる。

彼女独特の笑い方。

半月、一緒にいて気付いた。

少し瞳を細め、緩やかに唇を和ませる。

彼女が良くやる笑い方だ。

まるで今にも空気中に溶けて溶けてしまいそうなほどに、澄んだ透明な・・・・。

「高橋くん。」

視線を向ける。

「今日はどうもありがとう。」

それは、いつもの軽口めいたものではなくて。

優しく優しく静かに響いた。

広げていたノートを、彼女もぱたりと閉じる。

「――――――だから、明日もお願いしても良い?」

そう問い掛けられて。

今までも何度も、そう問い掛けられた。

その度に、高橋は頷いてしまうのだった。

何度も、何度も止めようと思うのに。

最後に見せられる彼女の、その綺麗な綺麗な笑みに。

高橋は、自分がするすると流されていくのを感じていた。







彼女の欠席の理由は、親の仕事の都合と先生からは聞いていた。

だけど、飄々として 川奈 は「面倒臭いから」と答える。

「だって、中学って義務教育でしょ。よほどの事がない限り留年しないのよね。だから、その特権大いに生かさなきゃ勿体ないじゃない。 だっていつかは嫌でも時間に追われて生活しなくちゃならなくなるんだから。今のウチに自由に出来る時間は有効活用しなくちゃね。」

さすがにそれを聞いたときには、呆れて絶句してしまった。

後から知った話だが、彼女はその理由で一年も二年のときも、ほとんどを休み倒したのだという。

「いったい休んでいる間はなにをしているんだ?」

いっそのこと、そっちの方に興味が湧いてくるほどだった。

「ん?本読んだりとかテレビ観たりとか。散歩したりとか。そういうこと。人によっちゃあ、退屈そうに思えるかも知れないけど、 自分の好きなこと自由に出来ることは、楽しいのよ。」

そうして、ふふっと笑う。

その奔放さに、高橋は反対に羨ましささえ覚えてしまいそうになるほどだった。

何からも束縛されず、気紛れに生きる、それはある意味羨望を抱かせ。

だけど、それと同時に不安を煽る。

本当に必要な物と必要でない物を、人はどうやって選別する?

まだ子供でしかない自分たちでは、何が正しく、何が必要なことなのか、まだどこにも確証をもてない。

学校という世界を、必要か不必要か、正しいことなのか悪いことなのか、判断なんて容易くできるものではないから。

それを、あっさりと放棄してしまうその潔さに感嘆し、その無責任さに眉を潜めたくなるのだ。

川奈 は、そんなハッとするほどの潔さと、曖昧な掴み所のなさと、無機質なほどの薄情さを合わせ持った少女だった。







部活が終ったころ、空は薄い藍色の幕が落ちていた。

最後に部員が部室を出ていったのを確認して、高橋は部誌をぱたりと閉じた。

部長である以上、部員全員が無事に練習を終えたのを確認する義務がある。

腕の時計を見ると、7時をいくらか過ぎていた。

もう、校舎にはほとんど生徒は残ってはいないだろう。

職員室が閉められる前に、早めに部室の鍵と部誌を職員室に戻さなければ。

筆記用具を鞄の中にしまい、戸締まりを確認して部室を出る。

辺りは、濃紺の闇が満ちていた。

木々が落とす影は暗く、深い。

蝋燭の残り火のように揺れる夕日に照らされた自分の影は奇妙に捻れて、海底を漂う藻屑を思い起こさせた。

そんなときだった。

「高橋くん。」

名前を呼ばれた。

一瞬、空耳かと思った。

立ち止まってきょろと辺りを見回せば、もう一度「こっちよ」と声が響く。

それは、自分の頭の上目掛けて落ちてきていた。

「 川奈 。」

3階の窓から、彼女は身を乗り出すようにして自分を見下ろしている。

暗がりでもわかるほど彼女は、柔らかく微笑んでいた。

「いま、部活終わったところなの?」

「何をしているんだ?」

彼女の問いかけには答えず、反対に問い返す。

「あたし美術部なの。知らなかった?」

確かに、彼女が今顔を出しているのは、美術室の窓からだった。

しかし、彼女が美術部に在籍しているという話は、知らない。

毎日放課後一時間ほど勉強を教える程度の、たまたま隣の席に座っているクラスメートの部活内容を熟知してしまえるほど、自分と 川奈 は親しい仲ではない。

「こんな時間までやってるのか?」

「そうよ。まだ絵が完成しないの。」

「早く帰った方が良い。」

「ダメ。絵が終わらないから。」

笑いながら、そう返って来た言葉に、高橋は眉を潜めた。

僅かに苛立ちを覚えた。

じょじょに空からは光が失われ深い夜が訪れようとしている。

こんな時間、女の子が一人夜道を歩くことがどれほど危ないことか。

彼女だってわからないわけではないだろう。

だけど、 川奈 は時々驚くほどの無防備さを見せる。

自分が何事にも執着しないように、自分自身にさえ彼女は無頓着に扱うことがあった。

眉間に皺を寄せて、さらに言葉を紡ごうとして高橋が口を開き書けるより早く、彼女が笑った。

「おいでよ。」

さらりと、風が流れるように自然紡がれた声だった。

高橋は、 川奈 を見上げ。

それから、わかったと頷いていた。







後になって、不意に彼女のことを思い出すたびに、高橋はどんなシーンでも優しく笑っている 川奈 に遭遇する。

はにかむように、悪戯を思いついたように、労るように、願うように、慈しむように、祈るように、愛おしむように。

たくさんの感情を、彼女は微笑みで彩り相手へと伝えようとする。

それはまるで、笑っている自分を相手の胸に刻み込ませることに苦心してでももいるかのように。

そして、その事実に気付いたとき、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。







美術室には、電気はついていなかった。

窓から差し込む、うっすらと淡い夕闇に照らされて、深い翳りの中彼女はキャンバスの前に座って、ドア口に立った高橋を微笑みながら 見ていた。

「目を悪くするぞ。」

高橋の言葉に、彼女はくすぐったそうに首を竦めた。

「良いのよ。コレぐらいの明暗があった方が幻想的で綺麗。」

「何を描いてるんだ?」

キャンバスは窓側に向いているせいで、高橋から見えない。

彼女はチラリとこちらを窺うように見たが、すぐににやりと品のない笑みを浮かべた。

「秘密。完成してからのお楽しみ。それまでは、絶対に見ちゃダメよ。」

言われなくとも、無理してまで見ようとは思っていない。

ただ、こんな時間まで熱心にキャンバスに向かっているから気になっただけだった。

「他の部員はどうしたんだ?」

美術室には、彼女以外の人間の存在は全くなかった。

置き去りにされたキャンバスや、部屋の四隅、カーテンの裏側、騒然と並んだ石膏像や机の落とす影は、もう夜の闇と同化して 境界がわからなくなるほど曖昧となっている。

部屋の中には夜と絵の具と埃の匂いが入り交じって漂っていた。

それは、どこか淋しい空気を生み出している。

そんな中に一人でぽつんといる 水城は、置き去りにされ忘れ去られた硝子の欠片のように頼りなく物悲しく映った。

「さあ?他の部員なんてあたしも知らない。もともと幽霊部員が多いみたいだし、ウチの部活動積極的じゃないしね。それに、絵を描くこと は団体競技じゃないんだから。他の子がどうしようと関係ないでしょ?」

さばさばと、言い切る。

その間も、彼女の手は緩やかに動き、色をキャンバスに塗りつけていた。

高橋は壁にもたれ、その動きを見るともなしに瞳で追った。

時々、サラサラと頬の辺りで黒髪が揺れる。

その度に露わになる首筋は、ゾッとするほどの白さと細さを高橋に見せつけた。

どこか病的で、だけど上質の絹を思わせる。

彼女の気配や身体や言葉や声は、全てが上等と軽薄さを曖昧に併せ持っていて、高橋は戸惑う。

奔放でいながらも誠実に優しく。

酷薄でありながら真摯に労る。

そういうアンバランスさ。

いったいどれが本当の彼女なのだろう。

考えて、だけど彼女と過ごす時間が多ければ多いほど、謎は深まり何一つ見えてこない。

まるで大きく深いミノタウロスの作り上げた迷宮を思わせた。

踏み込めば踏み込むほど、出口など見えてこなくなる。

「ねえ、高橋くん。」

「なんだ?」

「もう少しで今日のノルマは終わるの。そうしたら、校門まで一緒に帰ろう?」

高橋は、溜息を付いた。

もう、窓の外は真っ暗だった。

彼女は、校舎のすぐ傍にある街灯が零す薄白い明かりだけを頼りにキャンバスに向かっている。

高橋は黒板の傍まで歩み寄り、電灯のスイッチを入れた。

チカチカと数度瞬き、パッと部屋の中が明るくなる。

「家まで送っていく。」

突然増した光量に、彼女は顔を顰め瞳を細めた。

数度瞬き、不思議そうにこちらを見た。

「いいわよ。そこまでしなくても。」

「こんな時間に一人で帰すわけにはいかない。」

「まだ7時過ぎよ。」

川奈 が苦笑する。

「帰り道はちゃんと街灯だってあるし、平気よ。」

「不用心だ。」

高橋は、彼女の言葉をはねつけた。

川奈 は、結局肩を竦め、それから反論を諦めてキャンバスにまた瞳を落とした。

そのとき、彼女を言い負かしたのは初めてだなと、高橋は心の中で思った。

勝利感なんてものは感じなかったが、僅かに驚いてしまった。

少なくとも、口は彼女の方が上手いし、しょっちゅう煙に巻かれているのは、こちらの方だったからだ。

本気で拒否権を発動させれば、高橋は彼女に叶わないだろう。

勉強は嫌いだ、学校は大嫌いだと平然と言う 川奈 は、だけどとても賢い。

頭の回転が速く、物事の理解力が優れている。

それは、少し会話をすればすぐにわかることだった。

彼女は、人の思考の先を読むのが上手い。

だから、先回りにして言葉を紡ぐ。

相手を促すように、または阻むように。

高橋は、だから時々自分が小舟で、彼女に櫂を取られながらあてどもなく進んでいるような錯覚を覚えるのだった。

「高橋くんは、もしかして一人っ子でしょう?」

彼女の言葉は、脈絡なく作られている。

高橋は眉間に皺を寄せて、質問の意図を計りかねる。

すると、 川奈 はくすくすと笑った。

「絶対そうね。一人っ子。当たりでしょ?」

問いかけはだけど、ほとんど断定に近い。

高橋は憮然とした気持ちになった。

「・・・・そうだ。」

「いかにも他人の我が儘に不慣れって感じだものね。あなたの周りに、あたしみたいに好き勝手なことする子いなかったの?」

好き勝手という言葉に、こめかみが引きつる。

少なくとも彼女は、自分の性格を承知して、言動を行っていたと言うことだ。

無自覚者には呆れていっそ突き放してしまいたくなるが、自覚者には反対に憤りと失望を覚えてしまう。

「自覚しているのなら、少しは改めたらどうだ?」

「どうして?」

「他人の迷惑だ。」

「他人よりも、あたしは遙かに自分が大事よ。」

ふふっと喉を鳴らして笑う。

熟した実のように膿んだ空気の満ちる部屋の中で、彼女の声はか細く、だけど透明に澄んで響く。

彼女の潔さを羨ましいと思う瞬間は、その混じりけのない潔さを躊躇いなく口にする姿を目にしたときだ。

多分、自分にはとうてい真似できないと、そう思えるから。

憧れてしまうのかもしれない。







過ぎ行く時間を止められないものなのだと、それを痛いほどわかっていたのは誰よりも彼女自身だったのだろう。

流れ行く時の狭間を彷徨いながら、振り返るたびに確かに刻み込まれていく自分の足跡を見付けながら、それをどれほど掛けがえなく 彼女が想っていたか、今となって推察することしかできなない。

その事が、こんなにも胸に痛い。

夏が好きだと、 川奈 は笑いながら言ったことがある。

それは梅雨の降り続く長雨の隙をついたように、珍しく蒼い青空の広がる空の下での事だった。

日直の仕事で社会科室へ授業で使用した大きな地図帳を片付けにいく 川奈 に、手伝いを頼まれて仕方なく二人で一階の渡り廊下を 歩いていたときだった。

川奈 には、その自分勝手で気紛れな性格ながらも、休み時間やお弁当を一人であぶることなく過ごせる程度の友人を 数人は持ってはいるようだった。

しかし、彼女はことある事に「隣の席なのだから」を言い訳に、高橋を利用した。

その日も、だからその言葉を理由に、筒状に巻いた地図を運ばされていたのだ。

渡り廊下に差し掛かると、水気を含んだ風が吹き抜けた。

茶色い地面が湿った藁半紙のようにぬかるみ、あちこちに大きな水たまりを作っていた。

この所の雨で、ずっと部活が出来ずにいた事を思うと、久しぶりの晴天はもちろん嬉しいものだった。

だが、グラウンドの様子を思うと、結局今日もロードワークで終わってしまうだろう。

晴れ渡った空を横目にロードワークほど物悲しいものもない。

きっと菊丸あたりが不平を漏らすのだろうなと、そんな取り留めのないことを考えているときだった。

「甘い匂い。」

川奈 の声が聞こえた。

彼女は、真っ直ぐに中庭の一角を見ている。

濃い緑色の葉が生い茂る低木に、八重の大きく白い花が咲いている。

「梔子だ。」

高橋の言葉に 川奈 は顔を上げた。

「あの花の名前?」

「ああ。」

「良い匂いね。」

首を花の方へと戻し、言う。

濡れた土や草の濃密な緑の香りに混じって、甘く優しい匂いが寄せては返す波ように鼻先を柔らかく掠めた。

「あの花が咲くと、夏も本番だ。」

「あたし、夏が一番好きよ。生きてるって気がするから。」

高橋は彼女を見た。

川奈 は、けぶるような眼差しで梔子の白い花を見ていた。

緑色の葉に付いた水滴が日の光に照らされて、宝石のように反射している。

それらを、彼女はまるで愛おしい宝物でも見るように眺めていた。

「夏は、なんだかとても色々なものが元気に生きてるように見えるから好き。花とか草とか木とか、雨とか風とか空とか人とか。なんでも。 鮮やかに見えるから、きっとそんなふうに思えるのね。」

鳥も犬も猫も星も太陽も海も虫も大地も影も。

何もかも。

「生きてるって凄く綺麗ね。」

その声には祈るような切実さが滲んでいた。

どうして、と何度も思う。

どうして、あの頃自分は何一つ本当の意味に気付かなかったのだろう。

仄白い光の後ろに潜む、痛々しいまでの翳りに。

彼女の、その想いや痛みや哀しみの深さに。

愚かにも自分は気付くことなく、日々を過ごしてしまったのだろう。

彼女は流れ過ぎてゆく時間を諦めに似た眼差しで見送り、そして終わり行く日々に哀しみを捧げていた。

だけど自分は、過ぎ去った過去を今だ捨てきることが出来ずに、繰り返し小箱を開けては彼女と過ごした短い夏を思い出していた。







彼女は一週間に三度ほど学校へ遅刻して来る。

酷いときはお昼休みがそろそろ終わりを告げようとするころに、ひょっこりと顔を出すのだ。

そして、飄々と自分の席に着く。

そのあまりの堂々とした態度に、担任でさえ注意することを憚ってしまうほどだった。

代わりに耐えかねて、その事を高橋が注意をすると「朝は苦手なの」と悪びれもせず笑った。

その度に、本当のところは真面目に学校へ来るだけ彼女の場合マシなのかも知れないと考えさせられた。

放課後の勉強会は相変わらず毎日続いている。

また、美術室に彼女が遅くまで残っている事が、三日に一度はある。

部活が終わった後、校舎を見上げて窓から電灯の明かりがついているのを見付けると、高橋は美術室まで彼女を迎えに行った。

遅くまで残るのは良くないと何度も注意したが、彼女は止めようとしない。

結局、その度に高橋は彼女を家の近くまで送る羽目になった。

最初のうちは、仕方ないという気持ちだけで動かされている感情だった。

義務感。

ある意味職業病とも呼べるかも知れない。

部活で問題児ばかりの面倒を見ているせいか、どうしても 川奈 のことを必要以上に構ってしまう。

だけど、ずっとその感情は、ただの義務感とか責任感から来るものだと思っていた。

彼女が始めて学校へ来たとき、高橋は担任に呼びだされ「隣の席のよしみで面倒をみてやってくれ」と言われたのだ。

隣の席。

彼女と行動するとき、まるで付属品のようにその言葉が付いて回る。

それは、筋肉や脂肪を覆う薄い皮膚のように、高橋と 川奈 の周りには「隣の席」が付いて回った。

だから、あの頃自分はその言葉を大義名分にしていたのかもしれない。

その言葉を理由にして、彼女との日々を過ごしていたのかもしれない。

その日、部活はいつもよりも少し早めに終わった。

まだ空は傾いておらず、蒼く澄んでいる。

だから、校舎を見上げても美術室に明かりはついておらず彼女が今日は絵を描いているのかいないのか判断できなかった。

高橋は少し悩んで、結局美術室を覗いてみることにした。

彼女はこの所絵にかかりっきりだった。

「時間がないのよ」と、ぼやくように幾度も繰り返している。

何かのコンクールにでも応募するのかと問うと、曖昧な笑みではぐらかされてしまった。

ガランとした教室が並ぶ廊下を歩く。

遠くで、誰かのさざめくような笑い声が聞こえた。

だけど、それはとても儚く頼りなく、まるで分厚いカーテン越しに響いてくるかのように現実感は希薄だった。

放課後の人気のない学校は、普段の馴れ馴れしさが嘘のように引いて、まるで干潮時の遠浅の浜をあてどもなく歩き続けているか のような不安定さを感じた。

全体が灰色くくすんで瞳に映った。

美術室には、誰もいなかった。

大きく開け放したままの窓から吹き込む風が、ヨットの帆のようにカーテンをはためかせている。

窓際にはキャンバスが立てかけられ、傍の机にはパレットと絵筆が出しっぱなしになっていた。

そのすぐ傍には鞄が転がっている。

高橋はぐるりと教室を見回して、そこに 川奈 がいないのを確かめる。

多分小用か何かで席を外しているだけだろうと、見当を付けた。

教室の中にはまだ色濃く、彼女の気配が残っていた。

ゆうるく辺りに立ちこめる煙のように。

高橋はキャンバスから少し離れた席に腰を下ろした。

実はまだ彼女がなんの絵を描いているのか知らないでいた。

「完成するまで見ないで欲しい」そう彼女が言ったのを、律儀に守っているからだ。

別にそう見たいものでもないし、と心の中で呟く。

だけど、そう言えば言うほど言葉には僅かに言い訳めいた匂いがして、高橋は苦虫を噛み潰した気分になる。

最近、彼女に毒されている気がしてならない。

もしくは、流されている。

高橋は、頬杖を付いて窓の外を見た。

太陽は少しずつ西へ西へと流れていた。








頬に当たる風が、涼しかった。

それと、額をくすぐるように触れる柔らかくひやりと冷たい感触。

サラサラと耳のすぐ傍で、何かの滑り鳴る音。

優しい気配。

高橋はじょじょに浮上する意識の中、うっすらと開けた視界の向こうが、淡い藍色に染まっていることに気付いた。

「 川奈 ・・・。」

名前を呼べば、机を挟んで向かい側に座っていた彼女はこちらへと顔を向け、静かに唇に笑みを浮かべた。

白い頬が、色セロファンを重ねたように深い青に染まっている。

「俺は、寝てたのか?」

頭を起こして、瞼に手をやる。

同時に、今までに自分の額に触れていた感触が消えた。

無意識に辿るように視線を向ければ、それは彼女の指だった。

「よく寝てたわよ。疲れてるんじゃない?今日ぐらいあたしなんか待たずに先に帰れば良かったのに。」

笑うように 川奈 が言った。

変なところでうたた寝をしたせいか、軽い頭痛がした。

いつのまに自分が寝てしまったのか、さっぱり覚えていなかった。

瞳にかかる前髪を掻きあげ、彼女を見る。

そして、ふと高橋は眉根を寄せた。

「 川奈 、顔色が悪いぞ。」

「え?」

彼女は瞬き、そっと自分の頬に手をやり、それから「ああ」と微笑んだ。

「きっと空の色のせいね。」

「空?」

「青色が移り込んだのよ。だって、高橋くんの肌も真っ青よ。まるで海の中にいるみたいね。空が青色の鱗粉を蒔いて、世界を染めて るみたい。」

彼女の白い肌は、真っ白な紙に絵の具を落としたかのように、みるみる空気中に散りばめられたサファイアの結晶を取り込んで青く翳りを滲ま せた。

その様子は、それこそ一枚の絵を見ているみたいに静かな幻想に満ちていた。

高橋は、しばらく 川奈 のその姿をぼんやりと眺めた。

まだ少し意識が霞んでいる。

「今、何時頃だ?」

「7時過ぎ。」

「もうそんな時間なのか?なぜすぐに起こさなかった?」

これじゃあ早くに部活が終わったというのに帰宅時間はいつもと変わらないではないか。

「だって、気持ちよく寝てるんだもの。起こすの忍びないじゃない?」

屈託なく彼女は言い、

「それに、あんまりに綺麗だったから。」

するりと滑るように窓の向こうへと眼差しを向けた。

教室の中は、深い濃紺と浅い闇とが入り交じったコントラストで彩られていた。

窓から差し込む青色の光と、光に照らされて出来た影が、まるでいたる所に散りばめられた宝石のように煌めいていた。

昼と夜が交差する一瞬の狭間に出来る幻想を見た気がした。

「このまま――――――。」

高橋は 川奈 を見る。

彼女は瞳を細め、緩く唇を噛み締めた。

「このまま時間が止まってしまえばいいのにね。この綺麗な瞬間のまま。ハサミで切り取って宝箱の中に保管できたら、どんなにかいいでしょうね。」

彼女の声は祈るような切実さが込められていた。

どうしてだかわからないけれど、彼女が本心からそうなることを願っいる、そんな気がした。

だから、高橋は何も言えなくなってしまった。

短い幻が終わる瞬間を、二人で静かに待っていた。







本当は全てが幻だったのかもしれない。

何もかもが。

幻だったら、良かったのに。

そう、思えてしまう。

この胸の痛みも哀しみも、全てが夢の中での出来事であったなら。

浅い眠りの底で見る、蒼い蒼い夢だったなら。

どれほど、救われたことだろう。

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