閑話① 『そのころ男爵令嬢は《置換》』
2021年6月10日 改稿
「え!?えぇ〜〜〜〜!!」
ルルーシェ・ルミエン(愛称ルル)は自分の身に起きたことが理解できず、叫び声を上げてしまった。
何事にも動じないリリとはえらい反応の違いである。まあ、一瞬にして場所が変化すれば動揺して、今のルルの様にまともに思考できないことの方が普通ではあるが。
ましてや先程までいた自分の部屋とは異なり部屋はだだっ広く、調度も高級品ばかりなのだ。座っている天蓋付き寝台は自分のベッドの倍以上の大きさで、シーツの肌触りなど滑らかすぎて、一体なんの素材なのか怖くて想像もできない。明らかにルルのベッドより圧倒的に座り心地がよい。
が、値段を考えると非常に据わりが悪い。
周りを見回せば、この部屋にあるものできっとルミエン家の屋敷(とは名ばかりの家屋)が敷地ごと購入できそうだ。壊したらと思うと怖くて動き回ることもできない。
トントン!トントン!
突然のノックにベッドの上でビクッと体を弾ませ、ルルは思わず立ち上がって音の発生源の扉を固唾を呑んで凝視した。
「リリ様いかがなされましたか?」
ま、まずい!とルルは思った。
何故かは分からないが、現状を鑑みるにルルは完全なる不法侵入者だ。しかも、周りの調度品から推測するに、ここはどうにも身分の高そうな貴族の屋敷だと思われる。こんなところを目撃されれば逮捕されるか、最悪無礼打ちに……
──に、逃げないと!
ルルの決断は早かった!――早かったのだが。
しかし……
逃げ場を探して周囲を見回したルルの目は死んだ。
なんせ、この部屋は高級品による結界になっている。壊したらと思うと身動きがとれない。右を見ても左を見ても最高級の調度品。その場でアワアワとぐるぐる回ることしかできない。貧乏人のルルはこの高級な牢獄を脱出する術を持たなかった、
神は死んだッ!
なんたる無慈悲。このような貧乏人を嘲笑うような牢獄を生み出す格差社会。神の前の平等などもはや形骸である――敢えて言おうカスであると!
「何をされているのですか?」
「ひっ!」
不意にかけられた声に、ルルは飛び上がらんばかりに驚いた。
それもそうだ。部屋に誰かが入ってきた気配を感じなかったのに、気づかぬ間に入室して背後から声をかけられたのだ、軽くホラーかサスペンスである。ルルが振り向けば、そこには侍女服に身を包んだひっつめ髪の眼鏡美人が無表情に立っていた。
恐怖だ!ルルにはもう恐怖しかない。
一瞬で恐慌状態に陥ったが、逆に思考が停止し体の機能も停止した。つまりは何もできなかっただけなのだが。
「もうお休みになられるのではなかったのですか?同じ場所でぐるぐると回って。何を面白可笑しなことされているんですか」
「???」
しかし、声を掛けてきた侍女風の女性はルルを見ても特に不自然に思わないのか、むしろまるで知り合いかのように話しかけてきた。
「リリ様。もう夜も随分と更けております。お早めにお休みになられて下さい」
「え?リリ様って、私は……」
私はルルよ、と応えそうになって、侍女の背後に鎮座する鏡台が目に入って言葉を失った。鏡に映っていたのは目の前の侍女の背中と鏡を見て驚愕する己の姿だった。
そう……己の姿にルルは愕然としたのだ。
軽いウェーブのかかった自慢のシルバーブロンドは、闇夜のごとく真っ黒な髪に。南国の海を思わせる透き通て綺麗な水色の瞳は、深く恐ろしい北海を彷彿とさせる暗い青色に。活発で適度に焼けた健康的な肌は、青白く血管が浮き出すほどの白い肌に。
そして、慎ましい胸や均整の取れた肢体は胸だけやたら大きなウラヤマケシカラン蠱惑的な体に。
どう見ても自分の知っているルルーシェ・ルミエンの容姿ではない。
──って、この姿は悪役令嬢リリーエン・リュシリュー!?
パニックである。
何が起きたのか訳が分からない。
ルルがリリで、リリがルル?
一体全体どういうことか?
そんな混乱のさなか鏡台の今の己の姿を凝視しルルは思う。
──それにしても胸大きすぎない?同じ16歳とは思えない!そのくせウェストめっちゃホソッ!?小顔で手足も細っそりしていて完全理想体型じゃない!そのくせこの美顔!
決してナイスバディで羨ましいなどとルルは思っていない。
決して美人過ぎで妬ましいなどとルルは思っていない。
ルルだって多少胸はある!ルルだって十分可愛い!
頑張れルル!
負けるなルル!
──ま、まあでも捕まる未来だけは回避できたし、いいの―――かな?
おそらくここはリュシリュー家の屋敷。一応今はリリーエン・リュシリューの姿をしているので、当面は大丈夫だろう。大丈夫だろうが、それ以上に関してルルの思考は完全停止状態だ。もう真っ白で、あうあうするばかりだ。
「もう!リリ様いい加減になさって下さい。夜更かしは美容の大敵なんですよ!これで私のリリ様の柔肌が荒れでもしたら私悶死してしまいます」
──ちょっ!?『私の』って『リリ様』とこの侍女ってそんな関係ぇ!?そんな設定あったぁ?
ルルは貞操の危機を感じ、思わず両腕で自分を抱きしめてしまったが、その行為が目の前の侍女アンナをいっそう欲情させてしまった。何故なら身体はリリで、リリはルルとは違って巨乳だからだ!
つまりは両腕で豊かな胸を押し上げて……
「そんなに胸を強調して!リリ様はこのアンナを誘っているのですね?」
「ち、ちがっ」
「間違いありません!蠱惑的に誘惑でテンプテーションです。もうアンナはリリ様の魅力に辛抱たまらんです。絶対です!!」
無表情から突然息を荒げはじめた変態が暴走して口走る言葉は意味も不明で、血走った目で迫るアンナにルルはもはや恐怖しかなかった。
ワキワキと怪しく動きながら迫る魔の手。
「ご安心下さい。アンナのマッサージは極上です!間違いなく昇天できます。天国が垣間見えます。絶対です!」
「全然安心できないんだけどぉ!?」
にじり寄るアンナに恐怖し、ジリジリと後退るが、すぐ後ろはベッドである。もはやルルは追い詰められたか弱い獲物だ。
──もうこれ以上逃げられない!
ルルは必死になった。なけなしの灰色の脳細胞がフル回転だ。
──い、今は私が主人なんだし、とにかくマッサージを拒否しないと!
「マッサージはいいです!」
「はい!私のマッサージは気持ち良いんです」
「マッサージは結構です!」
「そうです!私のマッサージは結構なお手前です」
「マッサージは嫌です!」
「正解!これはマッサージ用ワイヤーです」
どこから出したのか両手で丈夫なワイヤーをルルの目の前でピシッと張る。完全な曲解(というより歪曲)である。主人の命令もなんのその。暴走アンナを止める力は無いのだ!
だいたいからしてマッサージ用のワイヤーとはなんぞや?何を縛るつもりなのか?ルルは恐怖にかられた。
今やルルは絶体絶命、万事休す、風前の灯。
もはや獲物は肉食動物に捕食される未来しかない。
──お母さん!助けてお母さん!
ぎゅっと目を瞑り、もはや心の中で助けを求めるしかできないルルはただただ産まれたての小鹿の如くプルプル震えることしかできなかった。
が、いつまで経っても何も起こらずルルは恐る恐る目を開けた。
アンナは先程までとは打って変わり、能面の様に無表情にルルを見つめて襲いかかる姿勢の状態でピタリと停止していた。その姿は非常にシュールだ。
「ふむ」
アンナは居住まいを正すとルルからスッと離れた。
「リリ様。夜も遅うございます。私もこれにて下がらせて頂きますので、早々にお休み下さいませ」
一礼すると音も立てずに部屋から出て行った。が、扉を閉める前に一度アンナはルルを一瞥した。その視線にルルはドキッとする。
「その体は……リリ様の体は至高の存在です。くれぐれも傷つけないで下さいまし」
急に鋭く言い放つ言葉と温度を感じない眼差しに一種冷たい殺気めいたものを感じたが、しかし、アンナは、それ以上何も言わずそのまま扉を閉めた。
緊張から解放されたルルはどっと疲れてベッドに倒れこんだ。
──今のセリフ……
「取り敢えずは助かったみたいだけど……あの侍女、私がリリ様ではないことに気付いてない?もう、明日からどうしたらいいんだろう?」
ルルは困り果てた……
しかし、成績もそれほど良いものではなく、いつも中間あたりを彷徨っているのだ。
そんなルルの頭では考えてもよい答えが出ないので……
ルルは考えるのをやめた。
ルル「アンナさんはリリ様にいつもマッサージしているんですかぁ?」
アンナ「いえ……させてもらえません」
ルル「リリ様はやっぱりアンナさんをちゃんと制御しているんですねぇ」
アンナ「制御も何も私はリリ様の忠実な僕ですよ?」
ルル「(この人やっぱり本気だったんだ)ところでマッサージワイヤーって何なんですかぁ?」
アンナ「はい?これですか?」
ルル「はい。明らかに普通の縄ですよね?ヘッドスパワイヤーでもないし」
アンナ「リリ様が絶対にマッサージをさせてくれないので、隙があったら縛ってみようかと……」
ルル「どこが忠実なんですかぁ!」
誤字報告や感想いただければ幸いです。