第8話 『侯爵令嬢は一陣の風になる』
2限目『魔術実践各論』(略:実論)
1年でも学年後期になると魔術系の授業は魔術構文や魔術言語などの座学だけであった前期と異なり、実際に魔術を使用する授業が始まる。それがこの魔術実践各論だ。
本日がその最初の講義のようで魔術を使用できる時間とあって、生徒たちはどこか移動の間も落ち着きがないようだった。そんな彼らに合わせてリリも魔術演習場へと歩を進めた。
魔術演習場には様々な演習用の道具が設置されているが、それでもこの程度の人数ならば収納しても空間に余裕が十分ある。
そこに仁王立ちで漢が一人待ち受けていた。
「俺が貴様ら1年生の実論を受け持つジャンジャック・J・ガベティネであーる」
生徒達を待ち受けていた教諭はガベティネ伯爵家に連なる者であった。
ガベティネ家は宮中伯であり、その権勢はリュシリュー家にも劣らない。このクラスの木端伯爵家の子息では逆らえまい。ましてやこの体軀……
2m越えの長身だが細くないため、とにかくデカい!としか形容できない。
筋肉で隆起した腕回りはリリの腕2本合わせたよりも確実に太い。
脚は丸太の様で、まるで大地から聳え立つ大樹だ。
上着はパツンパツンで今にも破れそうでどのようにして着たのか不思議であるが、とにかく服の上からも胸筋の盛り上がりが見て取れた。
ジャンジャックが身体を前傾に両腕で体の前に輪を作るような姿勢を取ると筋肉が膨れ上がったように感じた。
まるで万夫不当の勇士の様だ。圧が凄い。
背後からゴゴゴゴゴ!と効果音が聞こえてきそうだ。
とても魔術師教諭に見えない。
教諭というより軍人か騎士と紹介された方が納得できる。
ちなみにリリは知らないが今のジャンジャックがとっているポーズはモストマスキュラーである。
この筋肉の塊には、ひ弱そうなクラスの男子達では束になっても敵うまい。
しかし、リリはガベティネ宮中伯は法衣貴族で文官の一族のであったはずだが最近の文官も筋力を必要とするのかしらと訝った。まあクラスの問題児達が大人しくなるならいいかと流したが。
一通り生徒たちを威圧して満足したのか、ジャンジャックは身体を起こしフロントリラックスの姿勢を取って高らかに宣言した。
「サージェイと呼ぶのである!」
──あ!元騎士なのですね。結構優秀な人かもしれません。
文官畑の一族で騎士になるのはかなり大変だった筈だ。それなのに退役時に功績を残している者だけが戴く『サー』の称号を名乗っているなら騎士として優秀だったのだろう。
しかも武威だけではない。なんせこのシュトレイン学園の魔術教諭になっているのだ。このシュトレイン学園では、どの教科をおいても魔術系に力を入れている。その教諭は皆エリートだ。
──こんな見た目でも文武両道。実戦経験もおそらくありますね。
さて、そんな教諭の実論授業。今まで見てきた教諭とは一味違う。何をするのかとリリは俄然興味が沸いた。きっと素晴らしく、斬新な授業に違いない。
広げた腕を腰に当てラットスプレッドの姿勢から生徒達を睥睨するサージェイ。
ゴクリ……
あまりの威圧に生唾を飲み込む生徒達。
「健全な魔力は健全な筋肉にやどーる!」
サージェイはそのまま正しく脳筋であった……
「全員グランド10周!」
この演習場は広い。
グランドだけでも1周1kmは下るまい。
生徒達は皆真っ青だ。
古き貴族の名残りを持つこの国の体質上、貴族令息なら日頃から剣術などで身体を鍛えている者もいるだろうが、このクラスの令息達は果たして幾人がまともに訓練していたか。令嬢に至っては元々運動自体した事が無いはずだ。精々が乗馬経験があるかどうか。とても10kmを走る体力はあるまい。
さてリリはどうかと言うと、実は10kmくらいは走りきる自信はあった。もとの身体なら。リリは一般貴族女性とは趣が異なっているようで、それなりに体を動かすことが好きであった。あまりに儚げな印象の容姿を持つため、あまりそのように見られてはいなかったが。
リリは巨大な『魔力保持容量』を持って生まれたこともあり、魔術を使用した戦闘訓練も幼少期より施されていた。そのことが、他の貴族女性が忌避する運動に対して抵抗がない要因の一つだったのかもしれない。
『魔力保持容量』
体内に魔力を内包できる容量のことである。これは基本的に生まれながらに大きさが決まっている。
一応成長とともに拡大してはいくのだが、あくまでまだ空である容器の中に大気中より徐々に魔力が満たされていく過程である。魔力保持容量のサイズは魔術の訓練をいかに積んでも生まれながらに決まった容量を大きく超えることはできない。
抜け道が体積アップ、特に筋肉量の増加である。何故か筋トレを行うとほんの少しだけ魔力保持容量が増加するのである。これは魔力保持のための器官が体積に依存しているからとの説があるが、それなら脂肪で増やしても同じ効果にならない説明にならない。また、魔力保持器官が筋肉に存在するとの説も出されたが、リリの様に筋肉量の少ない女性が世界でも有数の魔力保持容量を備えたこともあり矛盾した。
まあよく分かっていないが、とにかく筋トレすれば魔力保持容量が増えるのは事実だ。世の脳筋どもは狂喜したことだろう。例え増加量が雀の涙であったとしても。
そう、やはり先天的に与えられた魔力保持容量を大きく伸展させる事はできないのだ。それに通常の生活における魔術行使の上でその程度で増減する魔力保持容量の差はあまり重要ではない。結果、魔力保持容量を増やす目的で己を鍛える者はあまりいないのが実情である。
魔力保持容量の大きさで有利な点は、大きいほど魔術言語を多量に生成できる点である。魔術構文を組み立てるためには構成される魔術言語が必要であるが、複雑な魔術構文である程多くの魔術言語、つまり内包魔力を必要とする。魔力保持容量が大きければ、それだけ魔術言語を必要とする大魔術を行使することができることを意味する。
他にも、魔力保持容量が大きいと有利な点がある。体内の魔力は大気中から補充されるので、使った自己の魔力は時間と共に回復するが、その回復はみな等しく一定の時間に一定の割合である。つまり、1時間で1割の魔力が回復すると仮定した場合、10の魔力保持容量の者は1時間後1回復するが、100の魔力保持容量の者は同じ時間で10回復する。10の魔力を使用する魔術を両者が行使する場合、100の者は1時間毎に魔術を行使できるが10の者は回復するのに10時間かかる。
この差は実戦において大きなアドバンテージとなる。
もちろん魔術言語への変換速度や魔術構文の構築速度、またその他それらの使い方も大きく関わるので、絶対の差ではないが。
サージェイは元騎士であり、その僅かな差が生死を分けた経験があるのかもしれない。
──なるほど。考えなしの様に見えて、意外と考えているみたいですね。
しかし、リリの身体ならともかく、このルルの身体では他の令嬢と同じく多分10kmも走れまい。
走り出したクラスメイト達を眺めながら特に令嬢達には無理な課題にリリはすぐには走り出さず魔術構文を構築し始めた。
──サージェイはグランド10周としか指示を出していない。目的はおそらく……
身体軽量。蹴力補助。持久力アップ……
リリは次々と身体補助の魔術を構築しては己に行使していく。数々の魔術を掛け終えた時には先頭を走るクラスメイトは半周先ほどまで到達していた。
──別に競い合っているわけではありませんが……
いつもおっとり構えているリリではあったが実は意外と負けず嫌いである。周囲も個性が強すぎていつもにこにこ穏やかな印象を与えているが、これはリリ自身もリリをよく知る専属侍女のアンナも認めるところである。おそらくリリの母や妃教育に関わっている王妃も気づいていると思われる。
──それにせっかくですから少し力量を見せておきましょう。
今朝のクラスメイト達の様子を思い浮かべてニヤリと不敵に笑うと、トントンッと軽く地を蹴って数度垂直に飛んで魔術を付与した感覚を確認し、己の認識とのずれを修正する。
と、弾丸のようにリリは飛び出した。そのスピードはもはや人の領域から外れており、半周あたりで集団の最後尾に追いつき一周走り切ったあたりで先頭を抜き去っていた。
ルルの体は小柄だ。一般女性の平均身長にも届かない。その為、先頭を走っていた男子生徒は横脇下あたりから自分を抜き去る影に一瞬ギョッとした。その正体がクラスで浮いている問題児であると分かると嘲りの笑みを浮かべた。
「馬鹿か?まだ一周だぞ。そんなペースで残りの週走れるものか」
鼻先で笑ったそんな男達を逆に嘲笑うかの様にリリは次々とクラスメイト達を周回遅れにしていくその走りは衰えを見せなかった。
──風が気持ちいい!
魔術を行使しての運動にリリは爽快な気分を味わった。
長い白銀のポニーテールが棚引き、小さくともしなやかな体で乱れず流れるように走る姿は一陣の白い風のよう。一部の生徒はそのリリの姿に見惚れた。
「う、嘘だろ!?」
「女の走りじゃねぇ」
「今何周差だ?」
全く衰えない走りにどよめくクラスメイトたち。
しかし、リリはそんな級友たちを気にも留めず、ただ制限なく使用できる魔術と自制する必要もない活発な運動からくる解放感に酔いしれた。
──ここまで、自由に動いたのは久々です!
貴族令嬢として、その高位の侯爵令嬢として、更には王太子妃候補として最近は抑制の日々を過ごしていたリリである。たまっていた鬱憤を晴らしているリリの走る姿は清々しく眩しく映った。
クラスメイトたちは、一人風のように疾走するリリに抜き去られてただ茫然とするしかなかった。
リリは走らされても困らない。自由な風になれたから……
ルル「つまり、『魔力保持容量』が大きいと無駄に『魔術言語』を使用することも可能ということですね。だけど『魔術構文』を理解していれば、その無駄を使わなくて済むと」
アンナ「貴女本当にルルなんですよね?」
ルル「『魔術構文』を熟知すれば綺麗で無駄のない魔術を使用できるのか……逆に無駄に『魔術言語』を使用している魔術はそれだけ要らない『魔術言語』を使用したごり押しのプログラムですから、もしかしてバグみたいなものも発生するとか?」
アンナ「貴女ルルの偽物ですね!」
ルル「酷いなぁ。アンナさん。私間違いなくルルですよ」
アンナ「ポンコツじゃないルルはルルじゃない!」
ルル「ひ、ひどい!」
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