閑話③ 『そのころ男爵令嬢は《家族》』
2021/6/29 改稿
「今日は二度寝もせずにお早いお目覚めのようで」
突然の声にルルは一瞬ギクリとし、心臓が飛び跳ねそうになった。下がっていた顔を上げ、目の前の鏡台を見れば、ルルの後ろには無表情の専属侍女が立っていた。
「私は今の貴女様の専属侍女のアンナです。今から身拵え致しますので、まずはそのままで」
ルルの返事をまたずにアンナはルルの髪を結い始めた。やはり、この侍女は中身が入れ替わっていることに気がついているのだとルルにも分かったが、今は大人しく従うしかなかった。
それよりも……
ルルはこの世界で前世の記憶が甦った時のことに思いを馳せた。
ルルが前世の記憶を取り戻したのは5歳の時。流行病で生死の境を彷徨ったルルが奇跡的に回復すると今までの記憶を失い、代わりに前世の記憶で埋め尽くされていたのだ。
当然、混乱した。茫然とした。それはそうだ。日本で生活していたはずの成人女性だった自分が、いきなり日本人ではない幼女の姿になっていたのだから。
そして恐怖した。5歳の幼女。それは前世でのあの両親のことを思い出させる。
喧嘩ばかりの毎日。
罵詈雑言の日々。
八つ当たりが日常だったあの日。
そして、それに抗うことのできなかった幼少期。
体の年齢に引っ張られたのか、それともあまりの恐慌状態に感情を制御できなかったのか、堪えることができずにルルは泣き出してしまった。大声で泣いてしまったのだ。
まずいと思った。
幼き日、泣けば、喚けば、何をされたか……
頭では分かっていた。しかし、いったん泣き始めると気持ちを抑えることはできなかった。
部屋に人が近づいて来ている気配がした。前世の両親に折檻された記憶がフラッシュバックして、ますます感情を抑えきれなくなる。
まずい、まずい……泣き止め!収まって!と焦れば焦るほどに感情のコントロールが難しくなっていく。
がちゃり……扉が開かれ人が入ってくるのが分かり、ルルは恐怖に目をギュッと瞑り身構えた。
「あらあら、どうしたの?ルルちゃん」
しかしルルの予想に反して優しい表情を湛えた女性が優しく声をかけてきた。その妙齢の女性は美しいと言うより可愛らしい感じで、それがいっそう彼女の温かみを強調しているようだった。
「おやおや、我が家の可愛いお姫様はご機嫌斜めかな?」
次にやって来たのは、柔和な顔と穏やかな声の男性だった。その男性は整ってはいるが愛嬌のある顔で、笑みを絶やさない表情は、この男性の優しさと大らかさを体現しているようだった。
──怒られない?怒鳴られない?殴られない?
ルルは怯えて2人を見上げたが、その恐怖の予測は外れた。ルルにとって素晴らしくも良い方向に……
その優し気な女性がルルに手を伸ばしてきたので、『殴られる』と目を瞑って体を硬直させたが、訪れたのは叩かれた痛みではなく、ふわっとした浮遊感と柔らかな温もりだった。
ルルは恐る恐る目を開けて女性に抱き上げられたのだと理解した。
「お熱が出て一人寝したから、寂しくなったのね?」
女性は抱っこしたルルの背中をポンポンと軽く叩いてあやし始めた。
今までに感じたことのない穏やかだが、しっかりとした温もりにルルは幸福感でいっぱいになった。
「ノノが生まれて、あまり構ってやれなかったしなぁ」
横から男性が優しくルルの頭を撫でた。見た目よりもゴツゴツした手だったが、それは確かな存在に守られている安心感をルルに与えた。
ルルは女性にしがみついた。すがった。甘えた。
まるで赤子が母の存在を確かめるかの様に。
ルルは初めて『家族』というものを知った。
前世では経験することのできなかった愛情を体験した。
おぎゃぁぁぁ!おぎゃぁぁぁぁぁ!
突然、隣の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
「おやおや、今度はノノ君の方ね」
「我が家の子供達は甘えん坊ばかりだ」
2人は笑いながらルルを抱えて隣室へと向かうと、そこには愛らしい乳児がゆりかごの中で両手を上げて泣いていた。
女性はルルの母、男性はルルの父、赤児はルルの弟。
それがルルの新しい家族。
それがルルの本当の家族。
ルルはその事を喜びを持って認識した。
これがルルにとって最初のルミエン家との優しく温かい大切な記憶だ。
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こうして、ルルの新しい生活が始まった……
転生したルルの容姿は、軽くウェーブの入ったきらきらと輝く綺麗な白銀色、瞳は南国の海を連想させる透明感のある薄い水色。
掛け値なしの美幼女だ。
男爵という貴族家でありながらルミエン家は貧しかったが、両親は優しく、生まれたばかりの弟ノノも可愛い。この世界には魔術が溢れており、魔術文明が著しく発展しているおかげで、中世っぽい世界の割に、日本人から転生したルルにとっても生活は清潔で便利だった。
何よりこの世界には、この家族には、前世ルルが求めてやまなかった、そして決して得られなかった、優しい言葉と思い遣りと愛情があった。溢れていた。満たされていた。
そうして賑やかで平和な貧しくとも平穏な生活が数年続いた。
将来は同じくらいの爵位、もしくは平民でそこそこの財産のある男性と結婚して、家庭を築き、父母と同じようにまったりと歳を重ねていくのだと漠然と思っていた。
そんな春の日差しの如く、暖かな満ち足りた日々。
ゆりかごの様な安心感でぬるま湯の様な安寧の暮らし。
ルルはずっと続くと信じていた。
そんな平和で長閑なルルの生活に影が差した。
母が懐妊した。
この時はノノの他に弟か妹ができると喜んだ。
そして天使が産まれた。
『ネーネシア・ルミエン』
それがルルの新たな家族の名前だった。
可愛い可愛い妹。
小さくて愛おしい自分の家族。
しかし、妹の名前を聞いた瞬間、この新たな家族を加えて幸せな今後を夢想していたルルは冷や水を浴びせられた。
──ここ『白銀と黒鋼の譚詩曲』の世界じゃない!?
『白銀と黒鋼の譚詩曲』
それは前世で晩年ルルに大きな衝撃を与えた乙女ゲーム。
通称『しろくろ』。かなり人気があってシリーズ化や同人化した作品である。
内容は単純なサクセスストーリーで、貧乏男爵家の令嬢が悪役令嬢リリーエン・リュシリューのイジメに立ち向かい攻略対象第一王子、騎士団長令息、宰相令息、魔術省長官令息、そして隠れキャラの王弟殿下の誰かと恋に落ちる、ここまで聞けば王道ものの乙女ゲームだ。
しかし、その実態は中々の鬼畜仕様だ。
なんせハッピーエンドかバッドエンドしかない。ノーマルエンドなぞないのだ。all or nothingの世界だ。攻略対象を落とせないと漏れなく家の借金の形にスケベじじぃの変態悪徳商人のもとに送られるという、ホントに乙女ゲームなのかと問いたくなる仕様であった。
そのため、絶対に攻略対象を落とさなければならないのだが、だいたいからして悪役令嬢のリリーエン・リュシリューが強敵すぎる。
この悪役令嬢は才能の塊で、学業は常にトップ。魔力も高く将来は魔術会の最高峰『魔天』の一に数えられること間違いなしと言われ、更には剣技や乗馬など体力面もピカイチだ。しかも学園での人望も高く、いじめが発生しても中々主人公の味方になるものがでないのだ。
その容姿も製作側の依怙贔屓が凄く、反則級の美貌である。
見事な黒髪と整っている顔つきならば普通は冷たい印象のはずなのに、温和そうな顔つきの絶世の美少女だ。とても悪役令嬢の容姿ではない。ヒロインや攻略対象よりも絵師の力の入ったグラフィックはどちらが主役か分からなくなりそうな程だった。
タイトルである『白銀と黒鋼の譚詩曲』の『白銀』はヒロインを示すが『黒鋼』はもちろん黒髪のリリーエン・リュシリューのことである。題名から悪役令嬢を連想させようとする制作陣の思いの入れよう。どれだけ制作陣は『悪役令嬢』への愛が重いのか。
ネットでも美人過ぎる悪役令嬢として有名となり、その中でファンはリリーエン・リュシリューを『リリ様』と呼んだ。いつのまにか『ファン』も『信者』と呼ばれるようになるころには、盛んになっていた『しろくろ』の二次創作が、もうほとんど『リリ様』の二次創作と呼ぶべきものになっていた。
『しろくろ』のヘビーユーザーであるルルも『リリ様』信者である。
この『しろくろ』をやりこんだルルではあったが、今では思い出したデフォルト名の『ルルーシェ』を前世でプレイしていた時には使用したことがなかった。そのため『しろくろ』の世界であることに『ネーネシア・ルミエン』が生を受けるまで気づけなかったのだ。
では何故『ネーネシア・ルミエン』の名で気づいたのか。それは『しろくろ』の続編に登場するライバル令嬢が『ネーネシア・ルミエン』だったからだ。
続編は異色の冒険者達が織りなす恋物語で、RPG要素が組み込まれた乙女ゲームだった。その中で前作主人公の妹『ネーネシア・ルミエン』は没落した家から独立し凄腕の冒険者となって続編主人公の前にライバル令嬢として立ちはだかるのだ。
これはルルにとって衝撃だった。
この世界は『しろくろ』の中というだけではない。
──早く元の体に戻らないと。そうじゃないとルミエン家が、リリ様が……
ルルは焦燥感を募らせた。
まずい、やばい、どうしよう、どうすれば、と……
──だって……だって……このままだと……
このままだとルミエン家は没落する……
この世界が『しろくろ』なら、その結末はハッピーエンドとバッドエンドの2択。
そしてバッドエンドでルルは変態スケベじじぃの悪徳商人に身売りする運命。
続編ではネネが登場していたが、父も母も弟も登場していない。
つまり、ルミエン家は崩壊してしまうのだ。
ルルの掛け替えの無い居場所が、ルルの大切な家族が、ルルの大事な宝ものが、この世界でやっと手に入れた『最愛』が失われてしまう。
──そして、多分今私の体にはリリ様がいる。リリ様にも迷惑かけちゃう。
このままではリリはルルとして悪徳商人に身売りされてしまうから……
「何をぼーっとしてるのですか?支度は終わりましたよ。今から朝食を運んで来ます。決して部屋の外には出ないように」
ルルはアンナの声掛けで現実に引き戻された。
綺麗に編まれた髪が美しく結い上げられ、薄化粧ながら施された化粧はリリの容姿を引き立て、服を見れば皺1つない学園の制服を着せられていた。
「あ、あり……」
ルルがお礼を述べようとしたが、最後まで言う間もなくアンナはさっさと部屋から出ていき、ルルはぽつんと一人取り残されてしまった。
ルル「アンナさん酷いですぅ」
アンナ「貴女がちんたらしているせいです。1話で纏まらなかったじゃないですか!」
ルル「せっかく家族との思い出に浸っていたのに……」
アンナ「貴女の家族なんてどーでもいいんです。重要なのは『しろくろ』の内容でしょ!」
ルル「この家族との回想も重要なことなんですぅ!」
アンナ「はっ!貴女の家族の記憶なんてミジンコ程の価値もありませんよ」
ルル「アンナさんがどんどん鬼畜になってく(半泣)」
アンナ「リリ様成分が足りない!もう辛抱ならんとです」orz
ルル「ほらほら、ここに(体だけ)リリ様いますよぉ」
アンナ「(チラッ)こんなポンコツは私のリリ様じゃないぃぃぃぃぃ!!!」
ルル「アンナさんのSAN値が臨界点突破した!!!」
不定期投稿の『令嬢類最強!?~悪役令嬢より強い奴に会いに行く~』の方も合わせてお楽しみください。