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メリル  作者: 篠江 一
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インクのように滑らかな黒い湖面を、小舟は静かに辷っていきます

 冷ややかな夜気が肌を浸しつつありました。インクのように滑らかな黒い湖面を、小舟は静かに辷っていきます。

 舳先の示す先、湖上に濛々とたちこめる霧の向こうから目当ての島が遠い空の残照を背景にうっすらその全容を現しつつあり、ひっそりと立つ城の塔が幻のように浮かんで見えていました。沈鬱な眺めだなぁ、としみじみ思います。

「気味の悪いところだね」

 プーカも同じような印象を抱いたようでした。今は三歳児くらいの大きさの面長の哺乳動物といった姿をとって船縁に腰掛け、いつになく物思いに耽った面持ちで指先を水に浸していた彼は、こちらを振り返って言いました。

「感謝してよ。オレがいなきゃ、きっと君は絶望のあまりとっくに湖に身を投げてる」

 わたしはつい頬が綻ぶのを感じました。相変わらずの毒舌です。

「それに、ほら、あそこの水草のあたり。ここには〈緑の牙〉が棲んでるみたい。落ちたら足を引きずり込まれて、きっと浮かんでこられないよ」

 本当でしょうか? 彼は時折、わたしを怖がらせるためだけに嘘を吐きます。

「何か可笑しいのかい?」

 艇首側の板に座ってオールを漕いでいた男が突然口を開きました。

 プーカはあからさまにむっすりと腕を組んでそっぽを向きました。わたしもすぐさま笑みを引っ込めます。

「いいえ」

「笑ったように見えた」

「気のせいです」

「何だか、すまないね」

 わたしは初めて彼の顔を正面から見ました。黒縁の眼鏡をかけた、ぱっとしない風采の、医者にしては若く見える男性です。

「何故謝るんですか?」

 彼は少しはにかみました。

「君たちの話の腰を折ってしまったのかと思って」

「……」

 わたしが黙ると、医者もそれきり口を噤みました。オールを漕ぐ音だけが聴こえています。プーカはなおも隣で不機嫌そうにしていました。

「信用しちゃだめだよ。こういう手合いが一番信用ならないんだ」

 舟が島の桟橋に着いたとき、わたしは半分寝ていたように思います。軽い振動に顔をもたげると、鉄の彫刻の施された厳めしい門扉が眼前に聳えていました。波止場は高い石の塀で囲ってあるようです。きっと古の城門をそのまま利用しているのでしょう。氷のように冷ややかな鉄の扉はまるで監獄の入り口です。振り返ると、ずっと遠くに残してきた陸の船着き場の灯りが湖の果てに淡く滲んでいるのが見えます。

 制帽を被った二人の男が暗がりから現れました。一人が舟を桟橋に舫い、その間もう一人は医者と小声で何やら言葉を交わしていましたが、わたしへは一瞥をくれただけでした。

 先に降りた医者が、身を屈めてこちらへ手を差し伸べてきます。背丈を縮めたプーカがわたしの右肩に跳び乗りました。

「安心して、メリル」耳たぶをチョイと引いて、彼は小声で言いました。「オレがついてる」

 わたしは礼を言って医者の手を取り、桟橋へと上がりました。

「きっとここを気に入ると思うよ」

 医者の台詞が可笑しかったのか、後ろで制帽の男たちが口を隠してくつくつと笑っています。わたしは改めて物々しい鉄張りの門を見上げ、その先の沈鬱な城のことを思いました。

 門の先から獣じみた絶叫が聞こえました。

 医者を見ると、彼はにこりと微笑みました。

 つい重い息が零れます。

 今日からここが、わたしのホームです。

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