Winter Iris
「ほら璃都くん、もう少しだから頑張って」
「うぅ……」
時刻は五時半、健一さんに別れを告げ向かった先は港からすぐ近くの森の中だった。
辺りは徐々に暗くなり始め、海で見た時よりも少しばかり赤い光が木々の間から差し込んで僕達二人を優しく照らしていた。
疲労困憊でへとへとになった僕の前で彩恵が元気よく獣道を駆けていく。
この絵を何度見たことだろうか。
男の僕より彼女の方が何倍も体力があるというのは随分皮肉なものである。
釣りをしている時は疲れなんて微塵も感じなかったけどいざ海から離れて余韻から解放されると身体中に疲労がどっと押し寄せてきた。
アドレナリンの力がどれほど偉大かを身で感じた瞬間だった。
「ほら早くー」
向こうで彩恵が大きく手を振ってくる。
あいつは疲れを全く感じない生き物なのだろうか。
もういっその事陸上部にでも入って勝手に全国目指してればいいのに。
こんな体育会系と一緒にいては僕の身体がもたない。
僕は急ぐ事なく、自分のペースで彼女の方へと歩いていった。
まるで劇場のスポットライトに照らされているように赤く光るその場所へ一歩一歩フラフラになりながら進む。
その姿ははたから見たら神に施しを求める乞食のようで今の僕の心の中とどこか似ていて少し馬鹿馬鹿しくなった。
なんで僕はこんな事をしているのだろうか。
行きたくないのなら行きたくないと言えばいいじゃないか。
それなのに川に行って、海に行って、健一さんと会って、今ここにいる。
僕は一人になるためにここに来たのに。
犯した罪から逃げ、僕を知る誰の目にも触れずに静かに暮らすのが本当の目的だった。
それを彼女は許さなかった。僕を離そうとはしなかった。
どうしてそこまでする必要があるのか、僕には理解が出来ない。
頼むから、頼むから僕を一人にしてくれ。
「お疲れ璃都くん。ゴールだよ」
なんとか彼女の元へと辿り着くと、彩恵は疲れて倒れこむ僕にしゃがんで視線を合わせた。
「やっと……長すぎだって……」
「そうかなぁ。私にしては結構すぐのつもりだったんだけど」
「僕にとっては……遠いんだよ……」
「……そっか。頑張ったんだね、璃都くん」
彩恵は微笑んで僕の頭を優しく撫でた。
「っ……」
僕は触るなと抵抗する気力も無く、されるがままに地に身を預けた。
疲労のあまりこれが異性とのファーストタッチだということにこの時僕はまだ気づいていなかった。
それほど頭に触れる彼女の手の感触は優しくて、安心して、どこか懐かしかった。
この手、どこかで……。
「見て。あれが私のもう一つの行きたかった場所」
彩恵はある程度撫でて満足すると、立ち上がって僕に背を向けた。
僕もそれに続いて立ち上がり、彼女の横に並んだ。
その時僕達の目の前に広がっていたのは、木々に囲まれた広大な草原だった。
小学校の校庭くらいの広さがあるのではないかと思うほど開放的で、風がなびく度に短い草が一斉に横に流れた。
「行こう。璃都くんに見せたいものがあるの」
そう言って彩恵は草原の中へと歩き出した。
***
「確かここら辺だったかな」
円形に広がる草原のちょうど真ん中辺りに来た所で僕達は足を止めた。
「ここら辺って何も無いじゃないか」
「大丈夫。ちゃんとあるから」
彩恵は口元だけで微笑むとその場でしゃがみ込んでそーっと足元の草を掻き分けた。
するとそこから現れたのは一輪の紫色の花だった。
「……花だ」
雌しべの部分から反りあがるように咲くその花は注意しないと気づかずに踏んでしまいそうなほど低い位置に花弁があり、それを覆うように周りの細い葉が花の上まで伸びていた。
「カンザキアヤメって言うの」
彩恵は僕に背を向けたままボソッと呟いた。
「は、はぁ。今更自己紹介されても」
「違う違う。この花がだよ」
「これがカンザキアヤメっていう名前の花なの?」
「そう。アヤメ科の花なんだけど、すごい偶然だよね」
「……可哀そうに」
「どういう意味じゃおら」
「いえ、何でも」
「……本当は冬に咲く花なんだけど、ここのアヤメは何故か春になっても枯れないで綺麗に咲いてるんだ。まるで何かを待ってるみたいに」
彩恵は落ち着いた声音で話すと小さな手で優しく花弁に触れた。
「璃都くんもしゃがんで見てみなよ」
「うん」
僕は言われた通り彩恵の斜め後ろで腰を下ろした。
「横に来なよ。そこじゃ見えにくいでしょ?」
「大丈夫。十分見える」
……よく見ると結構綺麗な花だな。草に隠れてるなんてもったいない。
こんな綺麗な花でも、誰にも見られず、誰にも気づかれずに枯れていってしまうのか。
「……なんか璃都くんと似てるね」
「え?」
彩恵は僕の方には振り向かず、花をじっと見つめて呟いた。
「本当はこんなに綺麗な花を持ってるのに影でひっそりと隠れてるから周りからは全然知られないし見向きもされない。ましてや踏まれることだってある。それでも冬には咲かなければいけない、どんなに辛くても。今の璃都くんにそっくりだよ」
僕は彩恵の言葉に驚いた。
まさか彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
いつも明るく、何も考えてなさそうに接してきた彼女がまさかそんな事を思っていたなんて思いもしなかった。
意外な一面もあるんだと少しだけ彼女の優しい部分を知った。それでも……。
「出会ってまだ少ししか経ってない君に、僕の何が分かるんだよ」
僕は彩恵の背中に冷たく言葉を返した。
これは僕の本心。
家族とも仲が良さそうで、悩みなんて全くないような彼女に僕を分かったような口できかれたくなかった。
「分かるよ……」
彩恵は小さな背中を更に小さく丸めた。
「璃都くんは、私と似てるから」
「僕が君と? ありえないよ」
「そんな事無い。そっくりだよ……」
「僕の辛さは誰にも分からない。分かるはずがない」
「じゃあ璃都くんはずっとこのままでいいの?」
彩恵はようやくこちらに振り向いて僕の目を真剣な表情で見つめてきた。
「失った過去を取り戻すことは出来ない。僕は一人でいられればそれでいいんだ」
「……そっか」
表情一つ変えない僕を見て諦めたのか、彼女は花の方に顔の向きを戻した。
「……明日から、学校が始まるんだけどさ」
「そうみたいだね」
「本当に行くつもり無いの?」
「無いよ」
「……私は璃都くんと一緒に学校行きたいな」
「……」
俯く彩恵を見て、僕は何か応えることは無かった。
学校に行くこと。それは僕にとって自分の罪を忘れ過去を無かったことにするのと同じ。
そんな事出来るはずが無い。
僕の事を必死に考えてくれている彼女には申し訳ないけど、僕はこういう人間なんだ。
逃げてばかりで、他人任せで、心がもろくて、卑屈で、ずるい。
許してくれ。こんな僕を、許してくれ……。
「よーし!」
一人心の中で自虐的になっていると、彩恵が大声を上げていきなり立ち上がった。
「うわっ、なんだよいきなり」
僕は驚いて咄嗟に両手を後ろについた
すると彼女は僕の方に振り返って右手でグッと握り拳を作る。
「私頑張る! 璃都くんが学校に行けるように頑張るから!」
「頑張るってどう頑張るんだよ……」
「それは分からないけど、いつか一緒に学校に行けるようにしてみせる!」
「は、はぁ」
どんだけポジティブなんだよこいつ……。
「だからこれからもよろしくね。璃都くん」
そう言ってニコッと笑った彩恵の笑顔は、いつもの無邪気で子供っぽい笑顔ではなく、大人びた女性の笑みだった。
***
月の光が窓から差し込んで灯りの無い部屋をほのかに照らす。
今日の出来事を思い返しながら僕は本棚から一冊の植物図鑑を取り出した。
適当にページをパラパラとめくり、目当ての花の写真が見えた所で止めた。
その時、写真の上に太字で書かれている一行が目に入る。
『カンザキアヤメ 花言葉 信じる者の幸せ』
僕は他の説明文は見ること無く、ただその一行だけを何度も、何度も読み返していた。
「信じる者の、幸せ……」





