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花は咲く  作者: 柊 仁
20/33

真っ黒

 通りから外れた所にある階段を降りて小さな港に辿り着くと、僕の目の前にはさっき見た時よりもずっと大きな海が、青々と果てしなく広がっていた。


「これが……海……」


 ごつごつした岩に打ちつける波の音、鼻にすんと入り込む潮の匂い。「海」という自然が創りだす神秘に僕はコンクリートの防波堤の上で立ち尽くしながら、目の前に広がる大海原に心を奪われていた。


「あれ、もしかして海来たことない?」


 横から彩恵がひょこっと顔を覗かせてくる。


 僕は「うん」と声には出さず首を縦に振った。


「へー。珍しいね」


 前住んでいた県に海はあるにはあったが家はほとんど内陸部にあったので間近で見たのはこれが初めてだった。


 それもあってかこの光景は僕にとってとても衝撃的だった。


 海って……こんなに広いのか……。


 「広い」という言葉以外、僕の頭の辞書からはこの壮大な海を表せる言葉が出てこなかった。


 一人感慨に浸っていると、背後から聞き覚えのない低い声が飛んできた。


「すごいだろ。洋野の海」


「え?」


 謎の声にハッと現実に引き戻されたかと思うと、振り返ればそこには漁業用のつなぎを着た短髪の青年が僕を見つめながら微笑んでいた。


「あ! 健兄!」


 彩恵は青年に気が付くとすぐに彼の方へ駆け寄っていった。


「彩恵、来るのが遅いぞ」


「ごめんごめん。璃都くんがすぐバテるから遅くなっちゃったよ」


 彩恵がそう言うと青年は再び僕に向き直った。


「君が璃都くんか。彩恵から話は聞いてるよ」


「は、はぁ」


「この人、私のお兄ちゃん」


門崎健一(かんざきけんいち)って言うんだ。よろしくな」


 もしかしてこの人が彩恵が会わせたいって言ってた人……。


「気軽に健一って呼んであげてね」


「健兄だ。俺はお前らより五歳も離れてるんだ。身分をわきまえろ身分を」


「健兄に身分とかあるのー?」


「おい」


「は、はぁ」


 急に始まった兄妹漫才に戸惑っていると、僕の目の前にすっと筋肉質の腕が伸びてきた。


「よろしくな。璃都」


 璃都……。


「……あっ」


 僕は久しぶりの呼び捨てに驚いて膠着したまま動けなくなってしまった。


 するとそれを見た健一さんが、固まった僕の右手を何も言わず無理矢理握ってニッと歯を見せて笑った。


「じゃあ俺自販機で飲み物買ってくるから二人はそこの船の前で待っててくれ」


 そう言って健一さんは階段の向こうへと歩いて行った。


「はーい。じゃ、待ってよっか」


「……うん」


 僕と彩恵は係船柱にロープで繋がれている小さな船の前で座った。

 

「……健一さんは今高校三年生?」


 僕はさっき握られた右手の感触を思い出しながら横に座る彩恵に聞いた。


「そうだよ。ここの県立高校に通ってるんだ」


「高校生で船持ってるなんてすごいね」


「まぁ家が漁業一家だからね。お父さんの手伝いとかでよく一緒に船を出したりしてるんだよ」


「へぇ。君は父さんの仕事継いだりするの?」


「どうかなー。でも多分そうなっちゃうかもね」

 

 彩恵は空を見上げながら口元だけで笑う。その表情からは、僕にはどこか寂しさを感じられた。


「璃都くんは何か将来やりたい事とかあるの?」


「え……」


 やりたい事……そんなもの考えたことも無かった。

 過去に囚われてばかりの僕に将来の事を考える余裕なんて無いし、どうせ大人になっても今のようにダメ人間のまま朽ちていくに違いない。

 一度犯罪に手を染めた僕に、未来など語る資格は無いから。


「特にない」


「……そっか」


 彩恵はそう言うと僕に向かってニッと笑って再び口を開いた。


「じゃあ、可能性は無限大だね!」


「え?」


「だって今は真っ白の状態ってことでしょ。真っ白の紙には何色でも塗れるんだよ。青でも赤でも黄色でもなんでもね。だから璃都くんの可能性はきっとカラフルだよ!」


「……それは紙の話だろ。僕に可能性なんて無いよ」


 そう。可能性なんて無い。たとえ未来を変えることが出来たとしても失った過去を取り戻すことは出来無い。


 僕は……真っ黒なんだ。


「えーそうかなー」


「そうだよ」


「おーい。買ってきたぞー」


 そうこうしているうちにペットボトルを抱えた健一さんが向こうから戻ってきた。


「お、サンキュー健兄」


「ありがとうございます……」


 僕と彩恵は冷えたスポーツドリンクをそれぞれ受け取る。


「それと、これも付けとけ」


 健一さんは僕に向かって薄っぺらいオレンジ色の何かを投げてきた。


「これって何ですか?」


「ライフジャケットだよ。万が一海に落ちでもしたら危険だからな」


「え? あの海に今から行くんですか」


「だべ。正確には俺の船に乗って海釣りだ」


「そういう事だから璃都くんほら、乗った乗った」


 彩恵は僕の背中をグイグイ押してくる。


「え、ちょっ、そういう事って……聞いてないよ」


「心配するな。海釣りは楽しいぞ」


 健一さんは船に乗り込むと係船柱からロープを取り外した。


「えー……」


「ほら、来い」


「……はい」


 僕は手招きする健一さんに向かってそーっとジャンプした。

 船に足が着いた瞬間、ギシッという音が鳴ると共に小さく船体が揺れた。


 怖い……。僕の体重で揺れるってこの船本当に大丈夫か……?


 全く安心できない船の強度に怯えていると、更に大きな音が隣から聞こえてきた。


「よっし。ナイス着地!」


 見ると彩恵が満足気な表情で体操選手ばりのポーズをきめていた。


「おい、そんな勢いよく乗るなよ……。壊れて落ちたらどうするんだよ……」

 

「大丈夫だよー。確かにこの船ぼろっちいけどお父さんの代から一度も壊れてないという信頼と実績がありますからっ」


「だとしてもその音はビビるからやめて。心臓に悪い……」


「お前ら乗ったかー。それじゃあ出発するぞー」


 健一さんは船の後ろに付いているモーターのスイッチを入れた。


 


 ***




「ここら辺でいいかな」


 防波堤から東に五十メートル程離れた浅瀬で、健一さんは船を停めた。


「お前らこれを持て」


「おー」


「これって釣り竿……重たっ」


 健一さんに手渡された釣り竿は僕の身長の二倍の長さはあって糸の先端にはミミズのようなものがくっついていた。


「ってうわっ! ミミズ!」


「なんだ璃都。虫嫌いなのか」


「いや、嫌いというかキモイです」


「はっはっは。まぁ確かに最初はそうだわな。慣れればどうってことねぇべ」


「因みにそれミミズじゃなくて岩虫って言うんだよ。見た目は似てるんだけどね」


 横で何かクーラーボックスをあさっていた彩恵は岩虫がうじゃうじゃ入ったタッパーを取り出して中身を一気に掌に出した。


 こいつもう人じゃないだろ。


 うっ、駄目だ。気を失いそう……。


 彼女の掌の上でうねうね動く岩虫の大群を見て、僕はめまいを起こした。


 ……僕の竿に先に付いてたってことは健一さんが気を遣って付けてくれたのかな。

 

 彩恵と違って案外いい人なのかもしれない。


「よーし、まずは俺がやって見せるから見てろ」


「はーい」


「わ、分かりました」

 

 そう言うと健一さんは大きく振りかぶって遠くの海面へ釣り糸を垂らした。


 すると餌は見事にポチャンと小さな音を立てて海底へと沈んでいった。


「これで魚が食いつくのをひたすら待つ。俺が今狙ってる魚は普段海底にいて警戒心が強いからな。変に動かすとばれて逃げられる。そんで竿に付いてる鈴が鳴ったら食いついた証拠、すぐに引き上げろ」


「……」


 意外と釣りって地味なんだなぁ。もっとバンバン釣れるものだと思ってた……。


「璃都。今地味だなって思っただろ」

 

 健一さんは僕が思っていたことを何故かそのまま当ててきた。


「え、いや、まぁ……。思ったよりかは……」


 僕はドキッとして彩恵の方に視線をずらす。


「でもな璃都、魚を釣ることだけが釣りじゃないんだぜ」


「え?」


「こうして魚が食いつくまで待ってる時間をいかに楽しむかも、釣りの醍醐味なんだ。どんなに嫌な事があっても、この時間だけはそれを忘れて釣りに夢中になれる。釣りが無かったら今の俺は無いと思うよ」


「……健一さんでも昔は嫌な事あったんですか」


「そりゃあるべ、俺だって人間だからな。でも今は夢に向かってひたすら突き進んでるよ」


「……夢って、何ですか」


「日本一の漁師になることだ!」


 そう言って、健一さんはニカッと歯を見せて笑った。


「……」


 健一さんは僕とは正反対だ。

 僕はこんなにポジティブになれない。素直に夢なんか追えない。


 彼には釣りという自分の助けとなる存在があったから悪夢を克服できたのかもしれない。でも僕の周りには助けてくれる人も、物も、何も無かった。


 健一さんの話を聞いてより自分が哀れだと感じながら餌が投げ込まれた場所をボーッと眺めていると、彼が持つ釣り竿の鈴がチリンと鳴った。

 

「お、どうやら食いついたみたいだな」


 すると健一さんは慣れた手つきで竿を動かしてからゆっくりとリールを巻いた。


 その瞬間、徐々に黒い影が水面から浮かび上がってくるのが見えた。


「お目当ての魚だぜ。彩恵、たも持ってこい」


「あいあいさー」


 彩恵がたもを持ってその黒い影を掬い上げると、中にはとさかのようなものが付いた茶色い大きな魚が入っていた。


 健一さんはそれを中から取り出して僕に見せる。


「アイナメっていう岩礁域に住む海水魚だ。その中でもこれはわやでかい方だべ」


「さすが健兄。一瞬だったね! ね、璃都くん。……璃都くん?」


「……」


 僕は健一さんのあまりの手際の良さに言葉を失っていた。


 すごい……こんな大きな魚を一瞬で……。


「お前らもやってみるか」


「やりたい!」


「や、やってみたいです」


「よし、じゃあまずは竿の投げ方から教えてやる」


 そう言うと健一さんは魚をクーラーボックスに入れてもう一度自分の釣り竿を手に取った。


「まず最初に右手で糸を竿側に押さえつける。そしたら同じ手の人差し指でここに付いてるベールって言う鉄の輪っかをパカンと開く。ここまでは出来たか?」


「楽勝楽勝ー」


「な、なんとか」


「オッケー。ここからが難しいからよく見とけ。両手を使って後ろに大きく竿を振りかぶる。この時に糸のつけ根の部分が船に着かないように気をつけてな。そうしたら狙いを定める」


「狙いを……」


 僕は健一さんと同じ動きをぎこちないながらもなんとかやって見せた。


 釣り竿って重いな……身体が後ろに持ってかれそう……。


「璃都、あそこの海面に岩がちょこっと飛び出してるのが分かるか?」


「はい」


 健一さんが指差したその先に青々と光る水面の中にごつごつした岩が何個か飛び出しているのが見えた。


「アイナメはああいう所で隠れながら暮らしてるんだ。だからまずは竿の長さを計算してあの岩の手前にちょうど落ちるように狙いを定めろ。定まったら振りかぶってそこに投げ入れる。この時に糸を指から離すタイミングがポイントだ。糸のつけ根に丸っこいのが付いてるだろ。釣り糸を投げる時にそいつが自分の頭を越した辺りで糸を押さえてる指を離せ。無事に狙った所に餌が行ったら二時の方向に竿を合わせて食いつくのを待つ」


 え、ちょ、早いって……。


 実演しながら自分のペースで進める健一さんの説明に僕は頭がパンク寸前になっていた。


 あの素早い動作の中でここまでの事を健一さんは当たり前のようにやってたのか。凄すぎる……。


「よっと」


 あたふたしてる僕の横でシュルシュルーという音が聞こえてきたので見てみると、彩恵が勢いよく振りかぶって釣り糸を海の中に投げ込んでいた。


「やったー。上手くいったよ!」


 こいつ、僕より先に……。


「彩恵、そこから動かすんじゃないぞ。璃都も、自分のペースでいいからな」

 

 健一さんは僕に優しく微笑みかけた。


「は、はい」


 よし。やってやるぞ……。


 まずは狙いを定める、そして、大きく振りかぶる。


「えいっ」


 そして糸を離す……。


 僕が投げ込んだ釣り糸は見事にポチャンと岩の手前へ落ちていった。


「や、やった」


「上手いじゃないか。初めてにしては上出来だ璃都」


「璃都くん油断は禁物だよー」


「そう言う君の竿はもう食いついてるけど」


「ありゃ? 本当だ! うわー重いー」

 

「おい璃都! お前も来てるぞ!」


「え?」


 健一さんが叫んだ瞬間、鈴が鳴るのと同時に僕の竿がグググっと引っ張られた。


「おわっ重っ」


「慌てるな! まだ引っ張るなよ。そのまま耐えろ。魚の動きが落ち着いたと思ったらリールを巻きながら一気に引っ張れ!」


「そんなこと言われたって……」


 気を抜いてしまえば僕の身体が海に放り出されそうなくらい、竿が強く引っ張られているのを腕全体で感じた。考えてる余裕なんて全然無い。


 お、重すぎる……。


「璃都、もう少しだ! 耐えろ!」


 身体が右へ左へと持っていかれる。


「うぅ……」

 

 ……あれ? 


 もうダメだと諦めて手を離そうとしたその時、竿を引っ張られる力が一気に弱くなった気がした。


「よし! 今だ! ゆっくりリールを巻きながら引き上げろ!」


「は、はい……」


 僕は健一さんの言葉通り、慎重にリールを巻いた。


 すると、さっき釣り上げた魚と同じような魚影が段々と海面に浮かび上がってきた。

 

「そのままにしてろよ! 俺が今たもで掬ってやるから」


 あれ? もしかして僕……。


「でかした璃都! 俺のよりでかいアイナメ釣ったな! 初めてなのにすごいよお前!」


 健一さんがたもの中から魚を取り出して僕の顔の前に持ってくる。


 嘘だろ……。


 これ、本当に僕が釣ったのか……? 信じられない……。


「持ってみろ。お前の初めての魚だ」


「おわっ」


 アイナメを持った瞬間、どっしりとした重みが僕の身体に伝わってきた。

 そのサイズは僕の身体の幅をゆうに超えていた。


「これが、海で釣った魚……」


「川で捕ったのとは全然違うだろ」


「はい。……ってなんで健一さんが知ってるんですか」


「そりゃあ家で彩恵が楽しそうに話してたからな。璃都と出会ってからはお前の事ばっか喋ってるよ」


 彩恵が……。


「見て見て健兄、璃都くん! 私も釣れたよ!」


 甲高い声がした方に顔を向けると、彩恵がピチピチと暴れるアイナメを一生懸命抱きかかえていた。


「お、やるじゃないか。一箇所でこんなに釣れるのはそうそうねぇべ」


「早さもサイズも君より僕の方が上だね」


「くそー。璃都くんに負けるなんて! 私の方が上手いはずなのに!」


 彩恵はぷくーっと頬を膨らませた。


「じゃあ皆一匹ずつ釣れたことだし、そろそろ帰るか」


「はーい」




 ***




 船で港に戻り道具の後片付けを済ませた頃には日も落ち始めて、夕陽が海一面をオレンジ色に照らしていた。


「じゃあこの魚は家で冷凍して幾ばあん家に送っとくから」


「あ、ありがとうございます」


「……璃都、今日は楽しかったか?」


 健一さんは満面の笑みで聞いてきた。


「……はい。楽しかったです」


「あれ、璃都くんちょっと笑ってる?」


 彩恵が横から僕の顔を覗いてくる。


「笑ってない」


 そう、笑ったつもりはない。でももし彼女が僕の顔を見て笑ったと思ったなら、僕は本当に笑っていたのかもしれない。


 釣りをするまでは身体中疲労困憊で早く帰りたいとばかり思っていたけど、いざ釣りを始めてみれば疲れなんてはるか海の彼方へと消えていった。

 あの時僕は確かに釣りというものに夢中になっていた。


 健一さんの慣れた手捌き、初めて釣った時のあの快感、持って感じた魚の重み、自分の中での常識がこの数時間で何度も覆された。


 僕は偏見で固まった常識を変えてくれる釣りという存在に、新たな楽しさを見出していたんだ。


「はっはっは。じゃあ俺はそろそろ帰るからな。彩恵はどうする?」


「私は璃都くんを送ってくよ。お母さんにもそう伝えといて」


「了解。それじゃあな璃都。また釣りしたくなったら言ってくれ」


「は、はい。ありがとうございました」


 そう言って健一さんは階段の向こうへと歩いて行った。


 健一さんが視界からいなくなると、港には僕と彩恵の二人だけになった。


 はぁ……。これからまたあの長い道を戻らないといけないのか……。


 そんな事を一人沈黙の中で考えていると、隣で彩恵がどこか恥ずかしそうに口を開いた。


「ねぇ璃都くん。もう一つ行きたい場所があるんだけど、いいかな」


「……はい?」


 

 

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