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沈黙の天使

作者: 廻 石輔

プロローグ


 東京・新宿から西に約20キロ、新青梅街道沿いに、雑木林に覆われた東京都小平霊園が広がる。

 新青梅街道を挟んだこの霊園の向かい側は、かつては内外の自動車販売店が軒を並べ、賑わいを見せていたが、景気の低迷とともに販売店は次々と撤退してしまい、今は辛うじてドイツ系とフランス系の数店を残すだけとなっていた。

 今流行りのガーデニング霊園「エバー小平」は、5年ほど前に撤退した国内メーカーの販売店の跡地の一つに建設されていた。

 敷地内には花木や芝生が植えられ、モニュメントや噴水がつくられるなど欧米の霊園をイメージしているようだった。しかし、いくら木々を並べてみても、裏手にある、大きく派手なラブホテルの看板は隠せておらず、安っぽい印象はどうにも拭えていなかった。

 私の手には、最高級のユリ「カサブランカ」を中心に、白いスカシユリ、黄菊を集めた花束があった。これを選んだのは、その凛とした姿が生前の彼女の美しい姿をしのばせるからだ。

 詳しい身元が分からないまま異国の地で灰となってしまった彼女。彼女を深く愛した織長数寄雄おなが・すきお=享年76歳=もすでに今は亡く、私がこうしてここに来なければ、訪ねる人はいないのだ。

 敷地はそれほど広くはなく、目的の区画はすぐに見つかった。

 彼女の墓は、斑糲岩(はんれいがん)という黒くつやのある高級石材をつかったプレート型の洋風の墓石だった。すべては、織長の右腕、黒棹太志くろさお・ふとし=58歳=が手配したのに違いなかった。

 花束をそなえようとかがみこみ、プレートに刻まれた文字をもう一度、確認した。

 そこには「ZJAVELIN LUGGADOWVIKIズジャヴェリン・ラガドービキ ~2011」とあった。

 綴りに意味はない。勝手に当てはめたものだろう。問題はこの名前だった。

 「黒棹は、あの話を信じているんだわ……」

第1章 アンジーの秘密


 あれは1年前のことだった。

 新橋で筒持笛子つつもち・ふえこ=52歳=が切り盛りするスナック「ビッグ・バット」で、私が手伝いをしていたときのことだった。その店の常連客が黒棹だったのだ。

 黒棹は浅黒くがっしりとした体格で、細い目に四角い顔していた。頭髪は短く刈り込んでいる。その日も指定席となっているカウンターの右隅に腰をかけた。私は見るともなく視界の端に、その姿を収めていた。彼は静かにウィスキーを傾けていたが、そのうち笛子となにやら込み入った話を始めだした。

 ずっと頷きながら話を聞いていた笛子が、突然、意を決したように顔をあげると、こちらを向いて言った。

「椎菜ちゃん、明日から店はいいから、織長さんのお宅を手伝ってくれない?」

 椎菜というのが私のことだった。瀬輪椎菜せわ・しいなというのが私の姓名だ。両親がともにファンだった英国のポピュラー歌手がこの名の由来だ。ことしで32歳になる。

 私が、少し怪訝な表情を見せると、笛子が説明を始めた。

「織長さんのお宅に外国から若い娘さんがくるんですって。慣れない日本の生活じゃあ、何かと大変でしょ。身の回りの世話をする人がいるのよ。でも織長さんちは女手がないから」

「私、英語、ぜんぜん喋れませんよ」

「そこは心配しなくていいの。その娘さん、もともと喋れないらしいから」

 なるほど、と私は思った。

 兵庫県加古川市生まれの私は、理学療法士を目指して神戸の専門学校に通っていたことがある。しかし、2年目のとき、初めての合コンで一目惚れした土木作業員の男に嵌ってしまい、「いままでの自分は自分の人生を生きていなかった」という思いにかられ、学業を捨て、男のもとに転がり込むと同棲生活を始めたのだった。しかし、すぐに生活は行き詰まり、男とも別れてしまった。高い学費を出してもらっていた親にはとても顔向けできなかったので、実家には戻らずにそのまま上京し、いくつかの福祉施設でパートとして働いた。しかし、何の資格もないため、重労働のわりに身入りは少なかった。やがて収入を求めて水商売で働くようになり、流れ着いたのがこのスナックだった。

 笛子は、そんな私の経歴を考えて、黒棹に推薦したのだろう。


 世田谷区にある織長の家は邸と呼ぶのにふさわしい構えだった。瓦塀に囲まれた敷地内にはさまざまな種類の数多くの樹木が植えられ、その中に広々とした日本庭園が作られていた。

 私が織長邸を訪れると、黒棹が「よく来てくれた」と笑顔で出迎えてくれた。母屋はゆったりとした平屋建てで、新たに迎える客人のために離れが増設されていた。

 私は、黒棹に案内され、木張りの廊下を離れへと進んでいった。

 黒棹が木製の引き戸をノックして、開けると、そこには竜の刺繍が施された紺のシルクのガウンを羽織った金髪の女性がソファーに横たわり、くつろいでいた。

 離れは外観こそ母屋と同じ和風で統一されていたが、インテリアは完全な洋室となっていた。

 顔をあげた彼女と目があった。緑とも灰色とも言い難い不思議な色の虹彩がとても美しかった。少し怒ったような表情からは理知的な印象を受けた。驚くほど白い肌にセミロングの金髪が踊っていた。人種のことはよく分からない私だが、なぜか彼女が東欧系であるような印象を受けたことを今でもはっきりと覚えている。

 黒棹は「アンジーだ」と私に紹介した。それが彼女の名前だった。

 しばらくアンジーに見とれていた私は、我に返ると慌てて「私、椎菜」と、手話を使って自己紹介した。思わずそうしたのだが、すぐに日本と海外では手話も違うということに気づき、アンジーには自分がとても奇異に映ったことだろうと恥入った。

 アンジーは私の名前を理解したようだった。聴覚には何の問題もないようで、発声だけに支障があるようだった。

 以来、私は離れに近い母屋の一画にある8畳の和室をあてがわれ、アンジーの世話を続けた。


 アンジーの日課は、朝、織長とともに朝食を摂ると、その後、車イスの織長とともに庭を散策する。その後は、部屋に戻って寝転んで過ごし、織長とともに夕食を摂る。織長の体調が良ければ、一緒に少量の日本酒を楽しむこともあった。織長の衰えはすでに進んでいて、どこかに遠出するということは一度もなかった。

 織長はこの年齢には珍しく身長180センチちかい大男である。丸顔でギョロリとした大きな目と、いかつい鷲鼻が特徴的で、大きく後退した長めの髪を、オールバックにしている。

 肩書は産業コンサルタントとなっているが、もともとは1級建築士だった。高度成長期に重要な建築物の設計と施工に関わったことから人脈ができ、そこに持ち前のカリスマ性が加わり、不動産業、建設業などの幅広い企業や業界団体の活動に自然とかかわるようになった。実際に織長が具体的な助言をするわけではない。懇意にしている政治家もいたが、彼らを通して影響力を行使するわけでもなかった。織長は、ただそこに存在することで莫大な利益を得る、そんな人間だった。

 その利益を使って、時の政策に関与しようと企てたことはあった。そのためにつくった団体が「大日本独立愛国同盟」で、その活動業務を番頭として支えてきたのが黒棹だった。

 織長の政治信条は「すべての物事はごく少数の優れた人間により、計画・管理・運営されなければ秩序を失ってしまう」ということだった。建築家として統一された景観を追求してきた織長が、強権政治への憧れに傾くのは自然の流れだったのかもしれない。

 そんな織長も、70歳を超え老境に差し掛かると、政治活動への興味を急速に失い、目立った活動をすることもなくなっていた。

 織長に家族はいなかった。妻とは10年前に死別し、子どももいなかった。富をもたらす魔法のような彼の力は、もともと誰かに引き継げるようなものではなかったし、大日本独立愛国同盟にしても創設者がいなくなれば瓦解するのは目に見えていた。彼が築いてきたものはすべて彼一代かぎりのものだった。年齢による衰えとともに彼の帝国に滅びの影が忍び寄り、その濃度を徐々に増していこうとしていた。

 そんな織長が自身の年齢を顧みず、なぜ若い外国人の娘に心を奪われることとなったのか。そもそもそんな老境の男がどこでアンジーと知り合ったのか――。

 織長とアンジーとの馴れ初めを、私がいくら尋ねても、黒棹は口を濁してなかなか言おうとはしなかった。黒棹は織長の名誉にかかわることだと考えていたのだ。

 それというのもアンジーは、アイス・エンジエルという芸名で活躍していたアメリカのポルノ女優だったからだった。私はその事実を知って初めて、アンジーというのがエンジェルの短縮形だということに気づいた。

 若い衆たちが暇つぶしにポルノビデオを観ていたとき、たまたま織長が通りがかったのがきっかけだったという。アンジーの姿を目にした織長は何かにとりつかれたようになり、金に糸目をつけないので何としても彼女を連れてくるよう、黒棹らに命じた。黒棹は配下の者たちとともに渡米すると、エージェントを立て、モデル事務所に何度も足を運び、交渉した。その結果、破格の移籍金を支払うことで、ようやくアンジーを日本に連れてくることがきたのだという。

 アンジーがポルノ女優であったという事実は、その高貴な印象からは少し意外な気もしたが、納得する面もないではなかった。アンジーは若い男性に出会うたび、ことごとく強い興味を示していたからだ。植木の手入れに訪れた若い職人の動きに目を奪われたり、たまに洋服を買いに出かけたときにも、通りすがりの若い男性をまともに見つめ続け、冷や冷やすることがあった。日本とは違い、性に開放的な文化の違いだと理解しようとしてみたが、ひょっとすると彼女には、もともと淫乱の気があるのかもしれないと思ったものだった。

 織長のわがままを叶えるために、なぜ黒棹がこうも奔走するのかが不思議でならなかったが、そのことを尋ねると、黒棹は言った。

 「命令は絶対だが、怖いからじゃねぇ。俺たちにとっては親以上の存在なんだ。何とかかなえてやりてぇと思うのが人情さ」

 それにしてもなぜ、織長はアンジーにあれほど執着したのか。それは黒棹も分からなかった。

 織長の死後、黒棹が「恐らく……」と話したのは次のようなものだった。

 織長は脂の乗り切った壮年期に何度もヨーロッパを訪ね、そこで大きなプロジェクトに関わったが、その際、ドイツやオランダで何度も少女の娼婦を買っていた。当時は今ほど厳しく取り締まられておらず、発覚してもスキャンダルにもならない時代だった。穢れのない無垢な姿態がもたらす甘美な陶酔感に溺れながらも、道徳的な罪悪感に身を焼かれるという少女との体験は、さすがの織長にとっても名状しがたいものだったことだろう。その強烈な体験が織長の脳裏に、消え去ることのない記憶として焼きつけられた可能性は大いにあった。それから時代は少女売春への規制強化へと進み、絶大な力を持つ織長といえども二度と同じ体験を味わうことはできなくなっていった。思いだけがくすぶり続けていた織長に、アンジーの容姿は、過去に出会った少女の面影を蘇らせたのではないかというのが、黒棹の推論だった。


 アイス・エンジェルという芸名はよく彼女を現していた。とにかくアンジーはめったに笑うことはなかった。苦悩を内に抱え込んでいるような容姿が魅力ではあったが、長く一緒にいるとさすがに気になってくる。アンジーが滞在するようになってからすでに約1ヵ月が経っていた。深い悩みがあるのなら、それを解決してやりたいと織長が考えたのは当然のことだった。しかし、それを依頼された黒棹にとって、それは大変な難題だった。

 黒棹は、アメリカの元の所属事務所に連絡を取り、彼女の経歴について詳しい説明を求めた。彼女はウクライナ出身ということになっていたが、何度説明を求めてもプロフィールに書かれている以上の事実がまったく出てこなかった。やがて「どこからも絶対に突っ込まれないよう完璧な履歴を自分が作った」という人物が名乗り出てくる始末だった。

 そこで黒棹は、元曙新聞編集委員でロシア支局長も務めた経験もある伝間剛毅でんま・ごうき=64歳=に調査を依頼した。伝間は織長とも旧知の間柄だった。

 伝間はかなり高額な調査費用を受け取るとすぐヨーロッパへ飛び、2か月後、報告書をよこした。それによると「彼女はハンガリーの農村地帯の出身で、3姉妹の末っ子で、本名をヤナ・ポドコバという。子ども時代にモデルとしてスカウトされたが、少女売春をさせられ、その事実が発覚しないよう言語野を鍼で壊された」ということだった。報告書には10歳当時の彼女の写真や彼女を知っているという人物の実名による証言も記載されていた。黒棹たちもこれでようやく真実にたどりつけたと思った。

 このころから、アンジーは少しずつ体調を崩すようになり、何度か病院にかかるようになっていた。その際、黒棹は念のためにとアンジーのDNAを調べてもらうことにした。すると、DNAのハロタイプから、いずれかの片親に由来する遺伝子の組合せを調べてみた結果、ハンガリーどころか東ヨーロッパ出身でさえない可能性が高いことが分かった。さらに頭部CT検査やMRI検査などからもアンジーの脳に人為的な損傷の痕跡は見当たらなかった。

 つまり、まことしやかに思えた伝間の報告書はまったくの作文だったのである。アンカーライターとしてならした伝間は、下っ端の記者が書いた記事を切り貼りしてはコラムにしたり、解説記事にしたりしてきた。自分の考えたストーリーに事実の断片を当てはめる習性があったのだが、そのことに何の罪悪感も感じてはいなかったようだ。

 このような報告書を捏造した伝間に対して、黒棹がどのように対処したか、私は知らない。この後、誰も伝間の姿を見たり、名前を聞いたりすることはなくなったことだけは確かだった。


 調査は完全に行き詰まった。織長の衰えは日に日に目立つようになり、それに呼応するかのように、アンジーも床に伏せることが多くなった。私は彼女の食事を介助したり、体を拭いたりして世話を続けていた。

 織長の衰えは年齢からくるものだったが、アンジーの場合は原因不明だった。医師は入院を勧めたが、織長はそれを嫌がった。彼女をずっと自分の手元に置いておきたがったのである。やむを得ず週に何度か医師の往診を頼むこととなった。

 黒棹は頭を抱えていた。時間は確実に少なくなっていた。アンジーの素性を解明することが黒棹が織長にしてやれる最後の奉仕になりつつあった。

 そしてそんな黒棹が最後にすがったのが、“あの男”だったのである。


 男は空崖妄太郎くうがい・もうたろう=29歳=といった。

 その日、私が朝食を済ませたアンジーを縁側に座らせ休ませていると、車寄せに敷き詰められた石がジャリジャリと音をたて、銀色のとても大きな車が入ってきた。

 黒棹によると、その車は空崖のもので、ベントレーと言うそうだ。黒棹は20代の人間が乗るには少し不釣り合いだとも付け加えた。

 ベントレーから降り立った空崖は190センチくらいはありそうな長身痩躯で、濃紺のシャツの上に、あたかも車の色と合わせたかのような明るい灰色のスーツを着ていた。頭頂まで後退した髪を肩まで伸ばし、薄いひげをこれまた根気強く伸ばしていた。電球のような顔に薄い黄色の入った眼鏡をかけていた。

「あの人って、もしかして……」

「ああ、そうだ」と黒棹。

 その特徴的な容姿は見たことがあった。つい先日亡くなった往年の名女優、峰山奈美子=享年86歳=の家に出入りし、膨大な遺産を受け取った男として週刊誌やテレビのニュースショーで取り上げられ、世間をにぎわせていた人物だった。

 しかし、胡散臭い人物であることを匂わすその噂こそが、黒棹を信じさせていた。織長を通して奈美子を直接知っていた黒棹は、奈美子の並はずれた知性と洞察力に深い敬意を抱いていた。それは老境に差し掛かっても決して衰えていなかったと黒棹は言う。奈美子が信を置く人物なら相談してみたいと願っていたのだった。

 黒棹は、空崖を応接室に招き入れると1時間近く話しこんでいた。

 私がアンジーの部屋で、彼女の額の汗をぬぐっていると、ノックの音が聞こえ、黒棹に案内された空崖が入ってきた。

 空崖は何の感情も見せず、アンジーをしばらく眺めていた。

 やがて、黒棹の方に向き直って言った。

「少し時間をください。1週間後ではいかがでしょう?」

 黒棹がうなずくと、空崖はそのまま去っていった。


第2章 ソフトマシン


 1週間後、空崖がやってきたとき、黒棹から私もアンジーを連れて応接室に来るように言われた。

 アンジーを北欧製の洗練されたデザインの車イスに乗せ、応接室に入ると、中央には、これまでなかった60インチの大型液晶テレビが設置されていた。そのわきに空崖が立ち、私たちが席につくのを待っていた。

 すでに織長はやってきていて、液晶テレビの正面の小さなテーブルに向かって車イスを止めていた。その右隣のソファーには黒棹が腰をかけていた。私がアンジーの車イスを織長の左横に並べると、織長はいたわるよに彼女の手の上に自分の手を重ねた。私はソファーを引き寄せ、アンジーの左横に座った。

 テーブルの上には薄いピンクのガラスコップがあり、そこに入った紫色のアロマキャンドルに火がともされていた。少し刺激のある香りが辺りに充満していた。

「これで、みなさんお揃いですね」と空崖が低く艶のある声で言った。

 容姿は冴えないが、声は随分ましだった。魅力的とまではいかないが聞いていて苦痛を感じるようなことはなかった。もし、彼が容姿相応の声の持ち主ならば、彼の話に耳を貸す者はいなかっただろう。

「さて、これからアイス・エンジェル、通称アンジーと呼ばれる、この美しい娘さんの過去をみなさんと力を合わせて探っていくことにしましょう」

 そう言うと空崖は液晶テレビの前に歩み出た。

「ご承知の通り、アンジーは、こちらの言葉は理解するものの、自分では一言も発することができません。かろうじて英単語の文字を読み、理解することはできるようですが、自分の生い立ちを文字にして綴るということはできないようです。これまでの数々の調査はすべて失敗し、わずかにDNAの調査結果があるだけです。はたして彼女がどこで生まれ、どのように育ってきたのか。それを探るすべはまったくないように思われます」

 空崖は、これまでの情報を整理するかのように話すと、あたかもその言葉が浸透し、全員の共通理解になるまで待つかのようにしばらく間をおいた。

「では、ここで一切の制限を外し、どんな条件、どんな手段があれば彼女の過去を解き明かすことができるか、それを考えてみましょう」

 私は何も思いつかなかった。織長や黒棹も同様のようだった。アンジーに至っては空崖の問いかけさえ、理解しているかどうかあやしかった。

「答は実に簡単です。タイムマシンがあればいいのです。タイムマシンをつかって彼女の人生をたどっていけば、なんの手がかりがなくても真相が得られるでしょう」

 織長が怪訝な表情をして眉間に皺を寄せた。それに気づいた空崖はすぐに言葉を継いだ。

「そんなバカな、たわごとをとお思いでしょうが、しばらく我慢してください。24世紀か25世紀ならどうでしょう。ことによるとタイムマシンが発明されているかもしれませんね。そのタイムマシンに乗って過去に行ったとします。さぁ、ここからが重要です。タイムマシンの仕組みは想像つかなくても、過去を見たときの反応は想像できるということです。もっと詳しく言えば、過去を見たときの脳の反応・状態は、いまの私たちの脳でも再現できるということです。25世紀の人間の脳と、20世紀の私たちの脳はそれほど変わらない。500年かそこらのスケールでは進化はしない。つまり、過去の世界を現実と感じるくらいリアルに想像することができれば、タイムマシンと同じ結果が得られるということです」

 私も、織長や黒棹たちも少し話についていけなくなった。

「私はこれから、みなさんの頭のなかにタイムマシンをつくりたいと思います。本物のタイムマシンをハードのタイムマシンとすれば、みなさんの頭につくるタイムマシンは思考のタイムマシン、つまりソフトのタイムマシンです」

 何かがおかしいと思うのだが、それがどこだとは言えない、そんな気分だった。どこか目的と手段がずれているような感触がしていた。私は、そんなもどかしい思いを抱きながら、空崖の説明を聞いていた。

「ちょっと待ってとみなさんは思うかもしれない。たとえ思考のタイムマシンがうまくいくとしても、依然としてアンジーとはコミュニケーションがとれない。そんな彼女の過去をどうやってたどるのだと」

 そうだ、そのことだ。私がひっかかっていたのは。

それにしても空崖はなぜ常に疑問を先取りするような話し方をするのだろう。なぜ質疑応答の形にしないのだろうか……。

「だからこそ、みなさんに集まってもらったのです。アンジーとはコミュニケーションはとれませんが、黒棹さん、織長さん、瀬輪さんの3人とはコミュニケーションがとれます。そしてこの3人のみなさんは、アンジーの人生全体からみればわずかな時間かもしれませんが、それぞれ彼女にかかわってきました。その経験を最大限に活用するのです。ここにいる4人全員が乗れる思考のタイムマシンをつくるのです。その前に……」

 と、そこで空崖は区切ると、かたわらに置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、キャップを外して水を口に含んだ。

「その前に説明しておかなければならないことがあります。タイムマシンの基本的な機能についてです。タイムマシンが、ある人間の過去に戻ることができるのは、トレーサビリティがあるからです。日本語では追跡可能性といわれるものです。ちょうど農産物につけられたICタグで、消費者に渡る前の流通経路から生産段階まで時系列にさかのぼって記録をたどれるのと同じです。タイムマシンは、まるでこのICタグのように私たちを構成する物質から時系列をさかのぼる機能があると考えるのです。コミュニケーションのとれないアンジーは、さしずめタグが読み取れない状態だといえるでしょう。それでまず3人の方々とアンジーとのかかわりを時系列にさかのぼります。すると、それはアンジーの人生を時系列にさかのぼったことと同じになり、タグが読み取るための手がかりが得られます。そして、今度はそれを使ってアンジーの過去へとジャンプするのです」

 そう言うと、空崖は足下に置いてあった人工皮革の黒いケースを開けた。そこには3Dテレビ用の眼鏡が5個入っていた。その一つを自分がかけ、残り4つを取ると左から順に黒棹、織長、アンジー、私にと渡していった。

 眼鏡をかけると視野が狭くなった。60インチの画面があまり大きく感じられない。ふとテレビの後ろに目をやると、全面ガラスとなった戸には、すでに遮光カーテンがひかれていることに気がついた。

 空崖は、液晶テレビを設置しているラック内のゲーム機のような機器をいじっていた。しばらくしてその機器に接続されたコントローラを手に取ると、黒棹に合図を送った。黒棹が立ち上がり、壁の電燈のスイッチを押した。部屋の明かりが消え、暗闇につつまれた。

 暗がりのなかに空崖の声が響いた。

「いままで話したことは全部忘れてもらって結構です」

 えっと思わず声をあげそうになった。空崖はいったい何をしようとしているのか。彼の本当の狙いは何なのだろう。

「いままでの話はこれから行おうとすることに、みなさんの理性が介入してこないようにするための煙幕のようなものです」

 そう言うと空崖は、コントローラーのボタンを押した。

 すると、画面にこの邸の日本庭園の画像が映し出された。画像は見事に3D化されていた。よくある3Dテレビのように、ペラペラの写真を縦に並べたような貧粗なものではなく、手を伸ばせばさわれそうな完璧な立体となっていた。

 空崖はコントローラーのスティックを操作し、画面をゆっくり回転させながら織長に尋ねた。

「今年の5月ごろでしたか? 織長さん」

 いま画面には庭園の真ん中にある池が映し出しだされていた。

「そうじゃった。その先の石にアンジーがしゃがみ込み、両手で池の水をすくいっては、指の間から零れるのを眺めていたんじゃ……」

 私はふとアンジーの様子が気にかかり、視線を彼女に向けた。眼鏡で表情は読み取れないが、彼女も画像に見入っていた。

「次はもう少し前。4月です」

 画像はアンジーの部屋に変わった。私の番だった。

「私が初めてアンジーと出会ったとき、彼女はそのソファーに横になっていました。とてもきれいな紺色のガウンを着ていました」

 私は、一瞬、その日の出来事が目の前に蘇ってくるような錯覚に襲われた。しかし、すぐに現実に引き戻され、応接間のソファーに座っている自分を感じた。これが空崖のいうタイムマシンなのか、それなら全然ダメじゃない! こんなじゃあ……。ふいに意識が遠のくような錯覚を覚えた。いけない。ここで眠ってはダメだ。アンジーのために最後まで付き合わなくては。画面を見なきゃ。でも、どうしてこんなに眠いんだろう。

 画面は見たこともない洋式の豪邸のインテリアが映し出されていた。

「3月でしたか?」と空崖。

「そうです。ここはロサンゼルスの邸宅です。私が初めてアンジーに会ったのがここでした」

 黒棹が答えていた。

「たしか有名な映画プロデューサーの家をビデオ撮影のために借りたということでした。白い大理石の廊下の先には庭があり、その庭には瓢箪のような形のプールがありました。短パン姿のスタッフが何人もせわしなく歩いていました。彼女はその脇の部屋に紺のガウンを着て座っていました。そうです。そこです。サンドイッチか何かをほおばっていました。彼女の後ろにはメイク係がいて、彼女の髪にせっせと櫛をかけていました」

 自分が意図しないのに、脳が勝手に画像を描こうとする。ビデオの撮影現場など私は見たことがないのに……。ああ、それにしても眠い。あとどれくらい続くのだろう。とても眠らずにいられそうもない。

「いよいよ、これからです。2年前までさかのぼりましょう」

 そういう空崖の声は、すごく遠くで聞こえ、聴きとるのにも苦労するほどだった。

「おや?……」

 あたり一帯が赤黒く見える。見渡すと黒い木々の影が見えてきて、ここが山の中だとわかった。地面にはクロームメッキのように周囲の景色が映りこんだ棺のようなカプセルがあった。その上部が一方の端を支点として音もなくゆっくりと開き、中にはスモークガラスのバイザーのついた白いヘルメットを被り、真っ白のボディースーツに身を包んだ女性が眠っていた。しばらくじっとしていた女性は、やがてゆっくりとカプセルのなかで立ち上がった。女性がアバラ骨あたりの両脇にある突起を押すと、ボディスーツはまるで液体のようにスルスルと滑り落ち、たちまち全裸となった。ヘルメットを抜き取ると、あらわれたのはアンジーだった。

「これはどういうこと?」

 私にはまったく意味がわからず、解釈のしようもなかった。

 アンジーが何かの手話のように右手を素早く動かすと、棺の中のランプが点滅を始めた。点滅の間隔は徐々に短くなっていく。アンジーは全裸のまま走って山を下り出す。木々にぶつかり、枝に傷つけられながらもアンジーは必死に走る。すると、背後で大きな爆発が起こる。爆風に煽られたアンジーは吹き飛ばされて転がり、何かの物体に激突した。

 それは消防士だった。

 「カリフォルニア……。2年前……。山……。消防士……。そうか! 2009年のカリフォルニアの山火事だわ! あのとき彼女はあそこにいたのね。これでポルノ女優のキャリアとも符合するというの? だったらあの棺のようなカプセルは何なの? 彼女はいったいどこから来たというの?」

 そんなことより私は確かめなければならないことがあった。

 今すぐ確かめなければならない、重大なことが……。

 そう、それは……。

 何だったのか……。

 思い出せない……。


第3章 深層へのジャンプ


「……起きて」

「ねぇ、起きてったら」

 誰かに強く体を揺すられている。それに応えようとするのだが、体がだるくて力が入らない。しばらく、もがいていると、ふいに体が軽くなった。そのタイミングを逃さず、すぐに上体を起こし、一気に目を開けた。

 目に飛び込んできた光景に驚き、声をあげそうになった。見たこともない若い男性が心配そうな表情をしてこちらを見つめていたのだ。全身を、ゆったりとしたデザインの白い衣服に身を包んでいる。

 見渡すとその部屋は半球形のドームのような形になっていた。内装の半分が白い和紙のような材質で覆われていて、残りの半分がガラスのような透明な材質でできた窓になっていた。

 目に映る自分の腕は真っ白で、金色の産毛に覆われていた。肩に流れる髪も金髪だった。

 目覚めたのは私ではなかった。どうやら私はアンジーになってしまったようだ。

「ズジャベリン、大変なことになったみたいだ」

 彼が言った。

「どうしたの? ドロスコイフ」

 そんな言葉が自分の口から出た。自分の意志とは無関係に自分が動くのなら、自分という存在に意味はあるのだろうか……。

「ガンマ線バーストが起こる」とドロスコイフは思いつめた表情で言った。

「それって?」

「ガンマ線というエネルギーの高い電磁波が突然、放出される現象だ。僕たちの太陽が百億年間でつくる量のエネルギーを一秒間で放出するほどのすさまじい爆発現象なんだ。これまでは50億光年以上の遠距離で起こると考えられていたんだが、今回のはごく近くで起こるみたいなんだ」

 尋ねるのが次第に怖くなってきた。

 ドロスコイフは冒険映像家だった。クルーザーを飛ばして宇宙の秘境を訪ねては誰も目にしたことのない映像を発表していた。宇宙を熟知し、数々の危険を乗り越えてきた。そんな彼がいつまでも黙っていた。止むなくおそるおそる尋ねてみた。

「それでどうなるの?」

「さっきのニュースだと、えらいさん達が協議しているらしいけど……。どうも逃れるのは難しいみたいだ」

「そんな! 嘘よ! あなたのクルーザーを使えば? ここを離れてやり過ごせばいいんじゃない?」

「無理だよ。向こうは光の速さの99.9%でやってくるんだ。それもあと40日しかないんだ。その前にバーストの放射範囲を出ることは不可能だよ」

 ドロスコイフは大きくため息をつき、私が横たわるベッドの足もとに腰を下ろした。

「昨日までは……。昨日まではあんなに楽しかったのに。2人で宇宙の穴場

を探検しようといってたのに……」

 頬を熱い涙が伝うのを感じた。泣き崩れた私を、ドロスコイフが優しく抱き止めた。二人は交わす言葉もなくただ黙ってそのままたたずんでいた。



 鏡を覗いてみた。そこにはアンジーの顔が映っていた。感情が抜け落ち、生気が失われている。時間の感覚が失われてしまったかのようだ。

 今朝、たしかドロスコイフは、ガンマ線バーストの発生はあと20日後だと言っていたのを思い出した。

 私は、力なくベッドに腰を下ろした。

 向かいの白い壁は望めば情報端末のモニターとなるのだが、今は観る気もしなかった。

 反対側の窓を眺めると、間もなく終末が訪れるというのがとても信じられないほど穏やかな天候だった。澄み切った薄ピンクの空が広がっていた。そこに幾筋もの白いロケット雲が伸びていた。間に合わないとわかっていてもクルーザーで、この星を離れようという人たちが後を絶たないようだった。ことによると、あの人たちは助かることなど考えていなくて、残された時間を愛する人と過ごしたいだけなのかもしれなかった。そう考えると自分もそうすればよかったと後悔の念にさいなまれた。

 そこにドアをあけ、ドロスコイフが戻ってきた。

「どうだった?」と私。

 ドロスコイフは政府のガンマ線バースト緊急対策協議会を傍聴してきたのだった。

「今考えられている案は2つのようだ。一つはセットバックで、もう一つはアーカイブだ。セットバックというのは人類の歴史の始まりを1万年ほど昔の方へずらそうという案だ。人類の歴史をもう一度やり直し、ガンマ線バーストという難局に対処できるだけの十分な時間を稼ごうとでもいうのだろう。しかし、1万年の間に新たに絶滅のリスクを背負いこむことになるかもしれない。そもそもそんなことが可能なのかどうなのかもあやしいみたいだし……。いずれにしろ今生きている者は全員助からない」

「じゃあ、アーカイブっていうのは?」

「似たようなものだ。全人類をデータに置き換えて圧縮する。そのデータを放射域外に向けて発信するというものだ。大容量の記録装置と解凍技術を持ったどこかの進んだ文明がデータからもとの人類に復元していくれるのに賭けるというのさ」

 素人の私にもいい案だとは思えなかった。どちらの案が成功したとしても私たちはたぶん助からないだろう。落胆のなかで貴重な時間だけが過ぎていこうとしていた。


「起きろ! ズジャベリン! 起きるんだ」

 目を覚ますと、ドロスコイフがいつになく興奮した様子でこちらを見つめていた。

 ガンマ線バーストの発生予告が伝わってから、ドロスコイフは希望を失い、感情の起伏がなくなっていた。なのに、このときの彼は妙に生き生きしていた。

「いったいどうしたの?」

「これを見てみろよ」

 ドロスコイフは手に持っていた薄い水色のカードを差し出した。

 受け取るとそれは何かのメンバーカードのようで、39という番号と、「ズジャヴェリン・ラガドービキ」という私の名前が記されていた。カードを見つめる私を、ドロスコイフがじれったそうに眺めていた。やがて痺れを切らせて彼が言った。

「選ばれたんだよ、君は」

「何に?」

「方舟に決まっているだろう!」

「方舟?」

「ああ、そうだ。ガンマ線バーストのエネルギーを利用して空間に穴をあけるんだ。その穴に限界いっぱいの60隻の方舟を投入するのさ。うまくすれば、どこかべつの宇宙に辿り着ける」

「あなたは? あなたはどうなるの?」

「無理を言うな。方舟は1隻に1人しか乗れないんだ。しかも60隻はみんな別々のところに向かうんだ」

「いやよ! 1人じゃ行きたくない。たった1人、自分だけが生き残るなんて地獄。まっぴらだわ!」

 私は泣きながらドロスコイフにすがり、その胸を叩いた。

「落ちつけ、ズジャベリン。厳密にいえば君は1人で行くんじゃない。僕を含めたみんなの遺伝子を携えていくんだ」

「どういうこと?」

 真意がわからなかった私は、泣くのをやめドロスコイフの顔を覗き込んだ。


「いいですか?」

 マスクをした白衣の男は、私の右腕に医療用銃を押しあてながら言った。銃のシリンダー内には白濁した液体が詰まっていた。

「空間を抜ける際、あなた自身はかなりのダメージを受けることになります。別の空間にたどり着いたとしても、そこで生殖し、子孫を残せるほど長生きはできないでしょう。そこでドロスコイフさんをはじめ、多くの人たちのDNAからつくったレトロウイルスに感染してもらいます。そのレトロウイルスが逆転写酵素を働せ、向こうで接触した相手のDNAを書き換えるのです」

 私が頷くと、男は引き金を引いた。短い音とともに液体の全量が体に注入された。この瞬間、私自身が方舟になったのだと思った。

 私の体はすでに方舟の中に収まっていた。ガンマ線バーストの発生はあと5時間後に迫っていたからだ。ハーネスによって体を方舟に固定され、あまり自由はきかなかった。バイザーを全開の位置まであげていたがヘルメットによって視野が制約されていた。そのためドロスコイフが覗きこんでくるまで、彼が近くにいることに気づかなかった。

「やぁ、気分はどう?」と彼は笑顔で尋ねてきた。

 私はとても声を発することができず、何度もうなずくことしかできなかった。

 ドロスコイフは私の右手をとると、強く握りしめて言った。

「君の旅立ちの瞬間を見守っているから」

 そして無言のまま、手を握り合っていた。

 しばらくして申し訳なさそうにやってきた係員が、私のヘルメットのバイザーを閉じた。彼は、ドロスコイフを下がらせると、方舟の蓋を閉じた。

 その瞬間、私はあらん限りの声をあげて泣き叫んだ。

「ドロスコイフ!」

 やがて激しい振動に揺さぶられ、眩い光に包まれた。



 喉に激しい痛みを感じ、我に返った。

 何度も泣き叫んだためだろう。涙を大量に流したためか頬がまだ少し濡れていて、一部は乾いてひきつっていた。

 目を開けると、60インチの画面を背に空崖が立っていた。

「えっ? どういうこと?」

 私は事の本質がつかめないまま、現実に引き戻され戸惑った。

 あれは何だったのだろう。

 すると頬を濡らしていることが急に恥ずかしくなり、慌てて横を向き、アンジーの方に目をやった。彼女もまた眼鏡をかけたまま涙で頬を濡らしていた。それは初めて見るアンジーの涙だった。

 その瞬間、何か大事なことを思い出したような不思議な感覚に襲われた。 しかし、その正体を確かめられないまま、その感覚はすぐに消え去ってしまった。

 ガサゴソと物音がした。

 そちらに目をやると、織長と黒棹がそれぞれ眼鏡を外してテーブルに置き、身づくろいをしたり、座り直したりしていた。

 空崖は無言のままテーブルに近寄ると、その上に置かれた眼鏡をケースに戻そうとした。

 黒棹は空崖と目が合うと、無言のまま労をねぎらうかのように目礼をし、織長も同じように目礼した。

 空崖は機器を片付け始め、それを終えると一礼し、無言のまま去っていった。

 私はてっきり、空崖から何らかの説明がなされるものだと思い込んでいたので拍子抜けした。

 黒棹もまた無言のまま、織長の車イスを押し、織長の自室へと戻っていった。

 問題が解決したのか、しなかったのか、私にはそれさえわからなかった。

 応接間には私とアンジーが取り残された。しばらくそのまま座りこんでいたが、それで何かが解決するわけでもなかった。私は大きくため息をつくと、のろのろと立ち上がり、アンジーの車イスを押し、離れへと歩いていった。

 離れへと続く廊下を庭園を眺めながら進んでいると、ふとアンジーが若い男性にひかれるのは、そこにドロスコイフの面影を探していたからだろうか、などと考えが浮かんだ。しかし、どこかしっくりいかない感じがしていた。

 車イスに揺られていたアンジーは、揺り籠に眠る赤ん坊のようにいつになく穏やかな表情をしているように思えた。


第4章 真相への接近


 それから1週間後、アンジーは静かに息をひきとった。


 アンジーの葬儀は、本当に寂しいものだった。

 彼女の存在は織長と黒棹、配下の若い衆のほかに知る者はいない。当然のことながら葬儀に訪れる者はいなかった。

 肩を落とした織長の落胆ぶりは目を覆うばかりだった。

 火葬に立ち会った後、織長邸に戻ると、私は彼女が身につけていた衣服や装身具などの遺品を整理した。それが終わって、部屋を掃除すると、私がやるべきことはなくなった。

「御苦労だったな」

 黒棹は、そう言うと、私にかなり厚みのある茶封筒をよこした。

 中をあらためると、当初の約束よりかなり多めのお金が入っていた。


 東中野のワンルームマンションに戻ると、また掃除が待っていた。

 時折戻ってきては空気の入れ替えをしていたのだが、部屋は酷い匂いがしていた。

 しかし、6畳1間とキッチンだけしかない狭い部屋の掃除はそれほど手間取らなかった。

 私は畳に仰向けに寝転がり、丸い蛍光灯を眺めた。

 すべてが終わった。

 この1年間、とくにアンジーが体調を崩してからは自分の時間はほとんどなかった。どこかで食事をしたり、映画を観たりということはまったくできなかった。

 アンジーの世話から解放され、ようやく好き勝手に過ごせる自由を得た。

 いつまでもアンジーのことを考えているわけにはいかない。これからのことを考えよう。そう思うのに、意識は自然とアンジーと過ごしたあの時間へと戻っていく。

 払っても払っても頭の中にはアンジーのイメージが浮かんできた。まるで、深い水底から浮かんでくる気泡のようだった。

 脳とはつくづくやっかいなものだと思う。問題が解決し、ストレスがなくなると、今度は勝手に自分で問題をつくり出す。私は、人生の主な困難は自分自身が作り出すものじゃないかと思っている。

 仕方なく、私はアンジーの思い出を、出会いから順に反芻していこうとした。

 アンジーが亡くなる前の数日間、私は看病に追われ、何も考えらずにいた。いまここで振り帰っておくことは無駄ではないかもしれない。

 しかし、その作業はまるで溝が傷ついたレコードのように、何度も何度も同じ時点で行き詰まってしまった。

 空崖がいたあの日の応接室……。

 私には積み残していた問題があったことを思い出した。

 そうだあのとき、薄れかけた意識の中で何かを確かめなければならないと私は焦っていた……。

 それは何だったのか。

 いくら水を掻いても水面に届かない、そんなもどかしい思いにかられた。 仕方なく体を動かし、あのときと同じ動作をしようとした。他人が見たらさぞかし滑稽だろうなと思いながら、畳の上で、あたかもソファーに座っているかのように、肘かけに手置いた姿勢をとろうとして、凍りついた。

 そうだ! そうだったのだ!

 今、ようやくわかった。

 あれはカリフォルニアの火事の場面だった。

 あのとき自分が観ているものが、画面に映る画像なのか、夢なのかが判断がつかなかったのだ。それで、それを確かめようと首を回してアンジーの様子を確かめようとしたのだ。しかし、それはできなかった。

 つまり……。すべては夢だったのだ!


 なおも私は考えつづけたが、どうしても答が見つからずに苦しんだ。


 止むなくバッグから携帯を取り出した。

「どうした?」と電話の向こうで黒棹は尋ねた。

「空崖さんに会って確かめたいことがあるの」

「無理をいうな。相手は忙しいんだ。いくら取られると思う?」

「私の働きからすれば、それぐらいしてくれても罰は当たらないと思うけど」

 黒棹はしばらく無言のままでいたが、観念したのか通話が切れた。

 10分後、どこからともなく昔なつかしい自動車のCMのメロディーが流れてきた。友達が少なく、ほとんど電話がかかってこない私は、それが自分の携帯電話の着信音だと気づくのに時間がかかった。

「早く出ろ。何様のつもりだ。金曜午前10時、国立の事務所へ行け。会ってくれるそうだ。30分だけだぞ」

 黒棹はそれだけを言うと、こちらが礼を言う間も与えず電話を切った。


 国立市の住宅街にある空崖の自宅兼事務所は小さな平屋建てだった。

 ドアを開けると、内部は20畳ほどの1部屋だけで、周囲の壁にそって流しやトイレが配置されていた。

 中央に長机3脚をコの字型に配置し、空いた1辺にはイーゼルが立ててあった。その真ん中に、空崖がキャスター付きの事務イスに座っていた。いやに短い丈のジーンズを履き、よれよれの黄色いTシャツを着ていた。空崖は、筆をとってイーゼルに立てかけたキャンバスに色を入れると筆を置き、90度右に回り、長机の上に置かれたパソコン上のチェスの駒を動かした。そしれまた90度右に回るともう一つの長机の上のノートを開き、万年筆を取ると何やら文章を書いた。そしてまた90度右に回ると、最後の長机の上に置かれたジオラマ模型をピンセットでいじった。

 空崖は私の姿に気づいているはずだったので、しばらくは黙っていた。しかし、空崖がいつまでも作業を続けていているので、堪らず口を開いた。

「それは、どんな効果があるんですか?」

「ひっかかりましたね。遊んでいるだけですよ」

 空崖は悪戯っぽく笑ったが、私は少し不機嫌になった。だれもひっかかってなどいない。お前がいつまで延々とくだらないことを続けるからそれを止めさせるために声をかけただけだ。それもわからないくらいなら、この男の能力は大したことはない。私はそう思った。

「どうしてもうかがいたいことがあるんです」

「ほう。何です? おっしゃってみてください」

「あなたは思考のタイムマシンでアンジーの過去をたどると言ったけど、私が見たのはアンジーの過去じゃない。あれは私の見た夢だった」

「自分でみた夢を、他人の責任にするんですか?」

「いえ。あれは普通の夢とは少し違う夢だったんじゃないかと思います。夢にしては不思議なことがありすぎます。私が見聞きしたこともない情報がいろいろと出てくること。織長さんや黒棹さんも同じ内容の夢を見たらしいこと。そこで私が考えついたのは、あのアロマキャンドル。あの中には催眠を促す物質かまたは何か幻覚を誘発するような物質がほんの少量含まれていたのではないのですか? それを使って私たちを半覚醒状態に置いた。3D画像はアロマから注意をそらし、効果が表れるまでの時間稼ぎをする道具だった」

「それで?」

 空崖はまるで表情も変えず、私に説明を促した。

「半覚醒状態に陥った私たちに、あなたは自分が予めつくっておいた物語を語って聞かせた。物語は細部までつくりこまれていたので、まるで実際にアンジーの過去の世界にいるように、私たちは頭の中にイメージを描くことができた。その意味では、あれはあなたの作品の観賞会だったともいえるかもしれない。ただ……」

 そこまで来て、私の声のトーンが少し下がってしまった。

「どうしたんです?」

「ただ、そうだとしても説明のつかないことが……。アンジーの涙よ。あのとき確かにアンジーは涙を流していた。それでてっきり私はあれがアンジーの過去だと思い込んでしまった」

「思考のタイムマシンだとなぜいけないんです。それでみんな丸くおさまるじゃないですか」

「私はあなたを告発しようというのではないんです。ただ事実を知りたいんです」

「事実? それに何の意味がありますか?」

「えっ」

「考えてみてください。織長さんは何を求めていましたか? 黒棹さんは何を求めていましたか? 私はそれに応えただけです」

「だったら、アンジーはどうなるの? アンジーは何を求めていたの? アンジーの求めには応えられたの?」

「さて、それはどうでしょうか」

 空崖はお茶を濁した。

 彼の居直りは、彼の思考タイムマシン説が事実でないと認めたも同じだった。しかし、空崖はそれをはっきり自分の言葉では認めなかった。私は自分の推測がかなり真相に近いことを感じ、それからしばらくは問答を続け、なおも食い下がってみたが成果はなかった。

 私は、空崖の元を辞し、家路についた。


 それにしても、なぜ空崖は、織長という老境の男に、とても似つかわしくない別宇宙という途方もない話を持ち出したのだろうか。権勢をほしいままにしてきた織長にさえ、とどかない深い絶望が、人にはあることを諭そうとでもしたのだろうか。


 アンジーの涙の謎は、依然として謎として残った。私はその謎を彼女の思い出として大切にしながら生きていこうと誓った。


                              (了)


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