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「これで仕事は終わったね! どうする? 次の歩行を待ってから下る?」
マコトリが嬉しそうな顔で、背中にいるエコに言った。しかし、エコからの返答がない。
“中核”を破壊してからというもの、エコは気が抜けてしまったように、ただ煙立つ爆心地に虚ろな目を向けている。
さっきまで深い穴があった一帯は、エコの魔法によって大きなすり鉢状のクレーターへと変貌した。ごつごつとした岩肌は超高熱によって角が取れ、クレーターの表面はなめらかな粘膜の如く波打って、中心に向けて緩やかに下っている。未だ冷めやらぬ中心部からは、蒸発した“中核”の煙がもうもうと立ち上り続けていた。
煙の奥に輝きが見える。
エコの放った『フレイム・ロゼット』の光は発動から数分を経た今も輝きを失うことはなく、激しい煙と音を発生させながら“山”の奥深くに沈み、その体を溶かし続けていた。
「とりあえず上に戻るよ」
少なくとも反対はしていない。
無返答をそのように受け取ったマコトリは、踵を返して斜面を登り始めた。すると突然足元が震え、地面に亀裂が走った。マコトリが素早く振り返る。
クレーターの中心地点から亀裂が走り、固い岩盤が音を立てて崩れ始めている。支持力を失った巨大な質量が、大地に手繰られるまま崩落する瓦礫と化しつつあった。
崩落はすぐにマコトリ達の足元に及ぶ。マコトリの立つ岩盤が、地上に向かって滑り始めた。
「うわヤバッ!」
焦ってエコを抱え直し、マコトリが走る。崩壊はあっという間に斜面全体へと広がり、轟音とともに岩盤が崩れ落ちていった。怒涛の如き崩壊が疾走するマコトリに迫る。
「急げ!」
タークが叫び、マコトリに向かってロープを投げ出た。だがマコトリは足元ピタリの位置に落ちたそれを無視し、一瞬だけ体を沈めて跳躍した。同時に、マコトリの下にあった岩盤が地すべりを起こして落下していく。
落ちていく大量の瓦礫の中には、エコの放った光の種の姿も含まれていた。
「あっぶな~……あ、ロープありがとね。使わなかったけど」
「いや、助かりゃいいんだ。……エコ、ようやく壊せたんだな。よかった」
「うん」
久しぶりのエコの返事。しかし、どこか上の空だ。
様子のおかしいエコを心配して、タークが声をかける。
「どうしたんだ……?」
エコの返答はない。
「……ねえ、とりあえず安全な所まで移動しない?」
マコトリの提案にタークがうなずき、三人は移動した。
その時エコの目は、頭上高く、天を見上げていた。
三人は岩壁の影に身を寄せることにした。“山”の次の歩行が、まもなく始まる頃だ。
マコトリがエコの服をめくり上げ、怪我の状態を診る。エコの体にできた無数の擦り傷や打撲の跡に、血液が集中して赤く腫れ上がっていた。それに触れる度、エコは痛がって反射的に動いた。
骨折している数カ所は青黒く膨れているため、肋骨の折れたエコは、呼吸するのも辛そうだ。タークも顔には出さないものの、脱臼した両肩や打撲した箇所をかばって行動しているのが分かる。
応急処置的な治療が終わると、あて布や包帯を巻きつけ痛々しい装いとなったエコとタークに向かって、マコトリはこう言った。
「あんた達はよくやったよ。……さあ、次の振動が来たら、“山”を下ろう。アタシも手伝うからさ」
「ああ。すまんが俺も、自分ひとり下ろすのでやっとになりそうだ。よろしく頼む」
タークは頷いたが、エコからは反応がない。だが聞こえてはいるらしく、意識がこちらに向いている気配はある。マコトリがエコの返答を促す。
「ねっ? じゃあそういうことで、決まりでいいね? エコちゃん」
しかしエコは、下を向いて未だに何か考え続けていた。さっきまでと同じだ。マコトリの提案に反対はしないが、かと言って受け入れてくれている様子でもない。
エコの口が開かれる。
「ねえ、ターク」
二人はそちらに顔を向けた。エコの目は強い光を宿しつつ、まっすぐに二人を見る。
「わたし、このまま頭の“中核”に行きたい」
そして出される、あまりにも乱暴な提案。マコトリは、耳を疑った。
「あんた、それは……」
マコトリの右手が咄嗟に胸のあたりまで上げられ、すこしだけ宙を彷徨ったあげく、なんの動作もせずに下ろされた。胸中の動揺を抑えきれない。だが、なんと返答していいものかも分からなかった。一方タークはエコの目を見据え、静かにエコの言動を待ち続けている。
「わたし、……このまま上に行きたい」
マコトリに真剣なまなざしを向け直して、エコは念を押すように言葉を繰り返した。まるでわたしの意志はこうだ、と宣言するように。
マコトリがエコの視線から逃げるようにタークを見やる。タークの視線は躊躇いも迷いもせず、ただじっとエコに向けられていた。二人が動きを止めて、ただじっと視線を結び続けている。よくみると、目線が細かく細かく、微振動をつづけている。
まるで二匹のアリのようだ。――二人の姿を見て、マコトリはそう思った。
忙しなく動く足を止めてじっと触覚をこすり合わせる二匹のアリのように、二人は視線の細やかな動きや微妙な表情の中に様々な考えを巡らせ、コミュニケーションしあっているようだった。それは思考に秘めた純粋な思いを、言語化せずにありのまま伝える唯一の手段なのかもしれない。
何十秒かそうした時間が過ごした後、タークが口を開いた。
「よし。わかった。そういうことならしょうがないな。じゃ、俺がエコをおぶって頂上まで連れてくよ。ははは、俺が言ったとおりになったろ、エコ」
まるで春風が吹いたかと思うような、朗らかな笑い声だった。
マコトリは理解が及ばず、反射的に顔を歪めてエコに視線を移す。
「言った通りかあ。ふふふ、やっぱタークにはかなわないな~」
頭を掻きながら、照れ笑いを浮かべるエコ。その表情には、一塵の迷いもない。
「あんたたち、なにを言ってんの……」
なかば放心状態になりつつ、マコトリはようやくそれだけ言った。
「ごめん、そういうことだから。わたし達、まだ下には下りないよ。このままてっぺんまで行く。もう一つの“中核”も壊してから帰るよ」
エコがはっきりと告げる。マコトリの眉根に、力が込められた。
「あんたたち。もちろん、自分たちの状況を分かって言ってるんだろうね? 判断ミスだよ。死ぬよ、それ」
マコトリの宣告は、冷酷だが正しい。しかしエコとタークの心は、すでに決まっていた。
「そもそも俺達は、最初からそういうつもりで登ってきた。俺も流石に無理だと思ったが、今二人でこう決めた以上、やるからには最後までやってみたいと思う」
「今しかない。チャンスなんだよ」
やにわエコが腕を肩の高さまで持ち上げ、手のひらを横に差し出して声を出した。
「『ウォーターシュート』!」
その瞬間、拳大の水弾がエコの手のひらからものすごい速さで打ち出される。
水弾は一秒も経たずに遠くにある岩壁にぶつかると、音もなくそれを射抜いた。
マコトリは目を疑う。今の一瞬で遠くの岩壁に開いた穴は、型でくり抜いたように綺麗な円を描いている。エコの何倍もの年月を生きてきたマコトリも、これほどの魔法は見たことがない。
怪我をしたエコの魔法の力は、何十年と修行を重ねた上級魔導士ですらたやすく及ばない領域にある。それを与えるのが、『忌み落とし』という法則なのだ。
肝を抜かれたマコトリに、エコがにやりと笑顔を向けた。
「この状況だからこそ登るの。この力は一過性のものだから……。でも魔法が届きさえすれば――“中核”が見えるところにさえ、行ければいい。それで全部、ぜんぶ終わる」
――――
“山”の崩落は、遠く観衆の一団からもはっきりと見えるほど大規模なものだった。
突如として起こったほとばしる火柱。急ぎすぎる“山”の歩行。強烈な光。そしてそれに次ぐ、“山”の体の大崩落。
それぞれ数分ごとに起きたこれら劇的な出来事ののち、【胸部“中核”】の存在する部分が岩盤ごと剥がれ落ちる事態。
破壊不可能と思われた“中核”をエコとタークが壊しただろうことは、誰の目にも明らかだった。
観衆から大歓声が上がっている。喜び沸き立つ群衆の中、社長が拳に力を込めた。
「っしゃあ! あとは、無事に帰ってくるだけだぞ……!」
社長が呟く。大崩落に伴って辺りに砂埃の嵐が巻き起こり、“山”の体は半分以上が煙に巻かれて隠れ、状況をうかがい知ることは出来ない。だがタークとエコはロープを使って降りてくればいいだけだ。ならば、視界は数レーンもあれば十分だろう。その点については、ほとんど心配はいらないはずだった。
だがその後何分経っても、二人が“山”を降りてくる気配がない。
群衆は次第にどよめき始め、社長の額に冷や汗が流れる。砂埃は晴れるどころかどこからか吹き出した強風によって激しく吹きすさび、濃霧のように“山”を覆い隠していた。
トレログ外市に広がる平野は、徐々に暗くなり始めている。そのせいか、気温が下がり始めている。しかし時刻は正午、まだ日の沈む時間帯ではない。ふと見ると、“山”の背後に暗雲が立ち込めていた……。
――――
「グッ、ぬ、ううぅお」
苦悶の表情を浮かべるタークの腕に、ありったけの力が込められる。筋肉は膨れ上がり、骨が二人分の重みを支えて軋み上がる。
「ターク、そっちにホールドがあるよ。あと10センチ」
タークの背中に、エコが紐でくくり付けられていた。二人は荷物を捨てた。どうせ必要なものは残っていないし、エコとタークはくっついているので、ロープなどを持ち歩く意味もない。どうせ落ちたら、それっきりだ。
マコトリの反対意見を蹴って“山”の頂上を目指す二人は、ゆっくりではあるが着実に【頭部“中核”】に近づきつつあった。しかし、頭部には“ポケット(身を隠せるほどの窪み)”がなく、マーカーの手が行き届いていない為にホールドの数もこれまでと比べて極端に少ない。故に胸部から頂上へのルートは数本しかなく、退避する場所もほとんど無かった。しかし、今のエコの力をもってすれば……。
「もうすぐ歩行だ。エコ、頼んだ」
「『ウォーターシュート』!」
エコが叫ぶと、タークの背中から手のひらが伸び、水弾が連続で射出された。無数の水弾が“山”の体をえぐり、あっという間にタークとエコが収まる程度の大穴が開く。タークはエコをおぶったままそこへ入り、体を固定した。それから“山”の歩行までに、十秒と間は空かなかった。
「エコ、タイミングがつかめてきたぞ。“山”の気分が分かるようになってきた」
「はは、――さすがターク」
タークがそう言い、エコが軽い笑い声を立てる。タークは“山”に対しての理解が深まるにつれ、いつの間にか歩行間隔をほぼ正確に予測出来るようになっていた。
エコの魔力と、タークの予測力。このふたつが合わされば、一見“山”頭部へたどり着くのも時間の問題かと思われた……。しかし、限界の先にある真の限界点は、もうすぐそこに見え始めていた。
その兆候はすでに、隠すことが出来ないほど顕在化している――。つまり、タークの筋肉は痙攣し、エコの息は乱れている。
エコは会話を打ち切り、激しい呼吸を懸命に整えようとしていた。その忙しない息遣いを背中で聞きながら、タークは必死に腓をもみほぐし、なんとか立ち上がろうとしていた。
「もうひと歩き、待つ――?」
「いや、次の歩行の間は多分長い。ここで一気に上がらんと、これからまたピッチが上がる気がする」
言いながら、タークは懸命に体を起こそうとした。だが膝が引きつけを起こしたように震え、まともに地面を踏ん張れることが出来ない。浅黒い額から次々と汗が溢れ、全身を耐え難い虚脱感が襲う。水分を失いすぎたタークの意識は、世界そのものが揺れているかのような錯覚を起こし始めていた。
「あんた達……!」
「あ……ん? ……マコトリか……?」
輪郭のぼやけた画像から紫という色だけを読み取り、タークが眼前の影の名を呼ぶ。
名を呼ばれたマコトリは呆れ、鼻息をひとつついて、タークに手を差し出した。
「だから言ったでしょ。ほら、手を出せよ」
マコトリの言うとおり、タークは目の前に手を差し伸べた。マコトリが強く腕を引き、二人を穴から引っ張り出す。
「だからあんたたちじゃ無理だって言ったじゃない。アタシの言った通りでしょ。ほら、荷物も持ってきたから」
「マコトリ……」
エコが泣きそうな顔になって、マコトリを見た。
「そんな顔すんな。アタシもね、もう諦めたんだよ。アンタたちを諦めさせるのは諦めた」
マコトリはタークの体を立たせると、体の数カ所を揉みほぐして、痙攣を止めてやった。
「もうしばらく辛抱しな、ターク。アタシが上からアンタたちの体を引っ張ってやるから、とっとと“中核”を壊して、帰るよ!」
「……ありがたい」
タークは目を閉じて、率直に感謝を述べた。
――――
その頃。コトホギの兄ギギル・シュターンは風のように駆ける馬車に乗って、トレログ外市の“山”に向かっていた。
「マコトリのヤツ、マコトリのヤツ」
かみ合わせの悪い前歯で中指の爪をかじりつつ、苛立ちを隠さずに呟く。厚ぼったいまぶたは半分閉じられ、正面の壁を睨みつけている。
「マコトリめ、マコトリ、マコトリ――」
ギギル・シュターンにとって、マコトリは姉であり、母であり、手の届き得ぬ恋人であった。
ギギルがマコトリに対して恋心を抱いたのは、いつごろのことだっただろう……。マコトリに対する淡い恋慕の情は少年期から長い時間をかけて募り続け、青年となったギギルに、幾つもの甘美で眠れぬ夜を与えていた。マコトリに恋焦がれる気持ちは日に日に高まり、青年は脳裏に浮かぶ理想の女性に、やがてある種の信仰すら抱くようになった。
しかし父を純粋に尊敬していたギギル青年には、父からその所有物であるマコトリを奪おうなどと言う意志は一切なかった。父と同じ一流ゴーレム魔導士を目指して勉学に励んできたギギルにとって、『所有』という概念は侵すことの出来ない聖域のようなものだ。その聖域を踏みにじるような発想など、ギギルの頭には浮かばない。
その点に関して、ギギルは自らの戒めを守り続けられる芯の強い人間だと言っていいだろう。
だが二十数年というあまりにも長い時間ギギルの胸の内に秘められていたその強い感情は、ギギルの湿った心の中で発酵して天井知らずに膨れ上がり……やがて不気味で醜く、巨大で得体のしれないものに変貌していった。
長い時間をかけて歪に作り上げられたギギルの妄想上にあるマコトリ像は、もはやギギル本人にすら理解出来ないまでに肥大化していた。その感情は、まるで基礎を作らず無計画に建て増しを続けた巨大な城のように、心の中に聳え立っている。妄想の城を築き上げたギギル本人にすら、その城の中を迷わずに歩くことは出来ないほどだ。
『自分がマコトリに対して持っている感情は恋などといううすらちっぽけなものではない』……ギギルはそう思っていた。
下心などはなく、純粋にマコトリを愛し尊敬し尊重し、マコトリに全青春、人生を投じて尽くす。
それが尊敬する父にマコトリのマスター権限を譲り渡された自分の使命だと信じていた。
『父より引き継いだ母でもあるマコトリを、自分はどう扱うべきなのか?』
ギギルにとってマコトリは全青春をかけた唯一の存在であると同時に、ギギルが管理すべき所有物でもある。父からマコトリを受け継ぎ、そのマスターとなった自分には、それを管理する義務と重い責任がある。
マコトリへの恋慕の情。
所有物に関する管理責任。
それらの圧力を全身に痛く感じながらギギルが導き出した答えは、『マコトリを理想の状態で永久に保存する』というものだった。
ギギルの理想のマコトリ……。すなわち純粋で気高く、なによりも強く、そして誰にも汚されることのない永久の女神――『マコトリ』。そして彼女をその姿のままで保存し続けること。
ギギルはそれが父から与えられた自分の使命と固く信じ込んだ。
マコトリの『パファティア』に魔導貞操帯“スフラギス”を貼りつけてゴーレム宿での仕事を禁じたのも、マコトリの高潔さと処女性を保つためにほかならない。またマコトリの外出を実質的に禁じ、温度変化が少なく気密性の高い地下牢で過ごすことを強いるのも、マコトリの皮膚の劣化や傷つきを防ぐための当然の処置だった。
『マコトリ』は、潔癖であるべきだった。見ず知らずの男性の欲の発散のために、やすやすと使われるべきものではなかった。それがラブ・ゴーレムの生きがいだということは百も承知だが、『マコトリ』は、唯一の例外であるはずだった。
クシガリ、ヒキウス、ウブスナ、カムラル。
マコトリ以外に、ラブ・ゴーレムの仕事をするゴーレムはいくらでもいる。マコトリがその仕事をする必要は全くないのだ。そしてその考えは当然、今回の仕事『ゴーレム狩り』においても同じく適用された。
「マコトリ……!! なぜお前が凡百のゴーレムでも出来ることをする必要があるんだ……! 誰も分かっちゃいない、マコトリは他のゴーレムとはモノが違うんだ! お前は芸術として、その姿を保ち続けなくてはならない……! そのための完璧な環境が、オレの家には整えられているというのに!!」
ギギルは気づこうとしない。
マコトリに対する歪んだ愛情と責任の重圧の結果、自分がマコトリに対して講じている処置が、そのへんの道端にでも転がっているような、独占欲にまみれた束縛行為となっていることに。自らが崇高だと思い込んでいる感情が、ほぼ誰の胸にも一度は抱かれる、自分勝手な感情の暴走だということに。
しかし今更、無理なのだ。もしギギルがそれに気づいたとして、もはや彼自身にその感情を裏切ることなど出来なかった。なぜなら、それは自らの人生を自ら全否定するに等しい行為だからだ。
ギギルは理解しようとしない。
自分の望むマコトリ像が、実際のマコトリと剥離していることを。マコトリがそこから強いストレスを感じていることを。良かれと思ってやっている自らの行為全てが、マコトリを最悪の状態に置いていることを。
あるいは……マコトリの死によってしか、理想の姿『マコトリ』に出会う方法が残されていないかもしれない……ということを。
マスターである自分が無理な要求を押し付け続ければ、マコトリは間違いなく死ぬだろう。しかし、ゴーレムは死んでも、抜け殻の肉体は滅びず……永久に残るのだ。
マコトリの死骸にこそ、ギギルの求める永遠性が秘められているのだ。
迷い苦しむギギル・シュターン。彼は、本能的に開放を望んでいるのかもしれない。
動かない人形となったマコトリを手にすれば、おそらくギギルはあらゆる束縛と重圧から開放されるだろう。その時彼はきっと、今度こそ彼の望みを叶えるのだろう。まず悲しんで泣き、やがて動かないマコトリを地下牢に置いて、時に愛し、時に愛で、時に語りかけ、甲斐甲斐しく世話をするのだろう。
無論、マコトリを殺そうなどという考えが、あくまでも純心なギギルの頭に浮かぶはずがない。しかし彼は本能的に、その世界を思い描いていた。マコトリの死を望むギギルの姿が、無意識の海の底深くに、確かにあるのだ。ギギルのわだかまりを解消するためには、もうほかに手段は残されていなかった。
「マコトリ、マコトリ、マコトリ……!! 見えた!! あれか、“山”は!!」
ギギルのほとばしる嫉妬心が、“山”にへばりつくマコトリの肉体に、追いすがろうとしていた。――望みの叶う日は近い。ギギルの本能が、密かにほくそ笑んでいた。
――――
マコトリとタークが協同して、タークが背負ったエコを“山”頭部頂上へと運んでいた。
その登攀は、城壁を這い上がるカタツムリのように遅い。タークの体にはもう“山”頭部の反り返った崖面を登る力は残っておらず、エコと自分の体重を支えて登頂補助器具にへばりつく事で精一杯だ。そのため登頂はタークに結びつけたロープをマコトリが引き上げる形で行われている。
このやり方は、マコトリがバランスを崩して落ちないように神経を使いながらタークを引き上げるある程度平らな場所を辿る必要があり、速度を出すことが出来なかった。
しかし三人は、確実に距離を詰めている。頭部“中核”はもうすぐそこ……直線距離にして、10レーンを切っていた。
「もうすこし行ってから引き上げるよ、ターク」
「ああ…………」
タークは声を出すのがやっとで、マコトリの方に顔を向けない。エコは先程から、“中核”を破壊するための力を溜め込むように眠っていた。
マコトリはタークの体越しに、眼下の様子を眺める。
高度は約80レーン。濃密な砂煙が雲海のように立ち込め、麓の様子はマコトリの目でも窺えない。胸部“中核”を破壊してから一時間ほど時間が経つが、まだ崩落は続いているらしい。
マコトリが岩面に目を戻す。すると少し先に、異状を認めた。頂上付近の“山”の表面が少しえぐられたように凹んでおり、そこで登頂補助器具が途切れているのだ。それは数日前、採掘兵器・『大弩』によってつけられた傷跡だった。
マコトリなら登頂補助器具がなくても余裕だが、疲労困憊の二人にはそうはいかない。
「ターク! 頂上付近で登頂補助器具が切れてるよ! あんた、普通の崖に掴まってられる!?」
「……わからん」
マコトリが叫んだのち三拍ほど置いて、消え入りそうなタークの返答。
(まずい……。今のタークの握力じゃ、多分登頂補助器具がないとこには体を保持できないな)
マコトリは考えたが、かといって彼らが登頂をやめないのは分かっていた。ひとまず少し上り、タークの体を登頂補助器具二つ分、引き上げる。
(幸いあそこは頂上が近い。タークを登頂補助器具に掴まらせといて、アタシが一気に頂上に上り、平坦なとこから一気に引き上げるしかない!)
「ターク!!!! ………………」
今の考えをタークに伝えようと、マコトリが叫んだ。……が、その叫びは何故か唐突に切れ、続きの言葉が出てこない。
「…………マコトリ? ――!!」
タークが不安げに顔を上げて、マコトリの方を見る。すると、上から長いものが降ってきた。それはとぐろを巻いてタークの顔面にぶつかり、タークの意識を飛ばしかける。
歯を食いしばって衝撃に耐え、タークは下を見やった。そして、今落ちてきたものの正体を知る。……それは、自分の腰に巻きついているロープだった。
その先端は、マコトリが持っていたはずだ。タークがもう一度上を見る。マコトリの体が強張り、わなわなと震えていた。
ギ、ギ、ギ、ギギ…………
固いものが軋み上がるような異音がタークの耳につく。マコトリの歯が、軋み声を立てる音だった。
ぎぎぎぎぎぎぎっ
異音は僅かに湿った音に変わり、マコトリの震えは次第に大きくなる。タークには聞こえないほどの声で、マコトリが呟く。
「ギギル…………っ、よくも………………!!」
「あああああああぁぁーーーッッ!!!!!!!」
マコトリが絶叫し、同時に体を変えて壁面を蹴った。蹴り出された体がその先の何もない空間へと凄まじい勢いで撃ち出される。
マコトリの体は顔面を数十レーンほど離れ、やがて落下していった。そして、すぐに吹き流れる砂埃に巻き込まれて見えなくなる。
「マコトリ……」
マコトリを見送ったあと、タークが小さく呟いた。
「ン……どうかした……?」目を覚ましたエコが、心配そうにタークに尋ねた。
「エコ、起きたか? 何でもない。頂上見えるか? もうすぐだぞ……」
正直なところタークにはなにも分からなかった。実を言えば、マコトリがどういう存在なのかもタークにはよく分からないのだ。
その身体能力から人間ではないことくらいは流石に分かるし、途中であったラブ・ゴーレムの仲間だと言うことは想像がつく。しかし積極的に協力してくれていたマコトリが突然“山”飛び降りた理由は、見当がつかない。しかし、今更そんなことはどうでも良くなっていた。
タークはただただ、事実だけを見つめる。
この極限状態で、最大の助けであったマコトリがいなくなった。あるのはただ、思うとおりには動かない、自らの疲れきった体のみ。マコトリがいなくては進退ともにままならない状況だが、しかしタークの眼は、あくまで上に向けられた。
「……いくか…………」
タークは焦点の定まらない目を絞り、すぐに痙攣を起こす筋肉を慎重に緊張させて、ゆっくりと登頂補助器具から右手を離し、次の登頂補助器具を掴んだ。続いで左脚に力を込め、エコと二人分の体重を持ち上げる。二人分の体重が、腕と脚に重くのしかかってきた。
それでやっとだ。登頂補助器具があってくれて、なんとか登れる。もはやタークに残されているの力は気力だけだった。……この先数レーンを登ると、登頂補助器具が途切れると言う。タークのぼやけた視界にはよく像を結ばないが、それでもタークの目には、頂上しか見えていなかった。
――――
それから――、
登頂補助器具一つ登るのに数分ずつの時間をかけながら、タークは“山”を這い登った。少し体を動かす度、動くことに絶望した筋肉が反抗して痙攣を起こそうとする。それを鎮めるため、動かす時間の十倍ほども休憩をとらなくてはならなくなっていた。
“山”はなぜか、先程からずっと静かだ。歩行を止めてしまったかのように、動きを止めている。
しかし、タークにはなんとなく分かっていた。
――これから、“何か”が起こる。
“山”はそれを待っている。もしかしたら、その“何か”でターク達が落ちることを確信しているのかもしれない。マコトリがいなくなり、どっちにしろ二人が登るのは無理だと思っているのかもしれない。空が曇り、風が強くなってきていた。
しかし、タークはそんなことどうでもよくなってきていた。頂上を目指す。頭の中は真っ白になり、そのことだけがタークの全てになっていた。エコの重みと寝息を感じながら、なにも考えずに一つ一つ登る。――やがて、件の登頂補助器具のない所にたどり着いた。だからといって、タークはなにも考えなかった。
自然と、どこに手足をもっていけばいいか分かった。まったく力の入らない体を、どうやって動かしていけばいいかがすんなりと理解できた。タークはゆっくりと、体を運んでいった。“何か”が起こったのは、頂上まで4レーンの距離にまでたどり着いた時だ。
それは、空から降ってきた。
「つっ!!」
タークの額に固いものがぶつかる。タークは最初、頂上から石が転がり落ちてきたのだと思った。だが、すぐに違うと気づいた。
かつん、かつん、かつん
かつんかつんかつんかつかつかつかつ…………
辺りから、何かが“山”の体にぶつかる音が連続して聞こえてくる。
小さく軽い、白いかたまり――――雹。
「これか……ぐっ!」
無数の雹が、空中から勢いよく降り注ぐ。それはタークの頭に、腕に、岩壁をつかむ指に、容赦なく叩きつけられた。
「痛っ! ターク……」
雹がぶつかり、エコも目覚める。額から血が流れていた。しかし、タークにもどうしようもない。掴まることがやっとの状況では、身を挺してエコを庇うことすら出来ない。
「耐えろエコ…………“山”の歩行が来る」
「えっ……!」
タークが言った数秒後に、今までで一番大きな“山”の震えが起こった。