五十話『ふるさとの音』
重低音に導かれてエコ達がたどり着いたのは、草の茂る崖に開いた、地底洞穴の入り口だった。朝買ったパンをかじりながら、エコが洞穴の中を窺う。入って数レーンのところから先は暗黒が立ち込め、なにも見通せない。洞穴の手前に沢が存在することや内部の湿度が高いことから、中には水脈でもありそうな予感だ。
「入ってみようか?」
「やめとけ」
エコが提案すると、タークが即座に反対する。さすがのエコも、この中に潜ってみたいとは思わない。まだ日は高いとは言え、新たな冒険を始めるには遅い時間だ。それに、きちんとした装備もなくこんな洞穴に入っていくのは自殺行為に近い。
「ゥ……ボオオォォォ~~~ンンンンンンン………………」
裂け目の奥から、生物のものとも自然現象とも思えるような、唸り声に似た重低音が聞こえてくる。エコが頭をひねった。
「ん~~、やっぱり、風の音なのかな~」
「……でも、だったら中から風が吹き上げてきてもいいんじゃないのか?」
「ほんとだね。じゃあやっぱり生き物? なんなのかなあ。すごく気になるけど……」
エコとタークが考え込む。突然二人の背後から、何かが藪を掻き分ける葉擦れの音が聞こえてきた。野生動物でも近づいてきたのかと、二人がそちらに注意を向ける。だんだんと音が近づき、ついにすぐ前の藪が揺れた。緊張が走る。
そして藪影から現れたのは――――フィズンの師匠、ハルナだった。
「あれっ? どうしてエコちゃん達がここにいるの? あっ。そこは危ないから入らないほうがいいわよ」
「ハルナさん! ……あはは、ターク! あべこべに会えちゃったよ」
エコが笑った。もともとはハルナに会うためにギザヴェーの元を訪れようとしていたのだ。手段は失敗したが、目的は遂行できたというわけだ。
「なんか生き物の声がしたから、気になって……」
「生き物の声? あれ、どうやら風の音みたいよ」
ハルナが微笑する。
「やっぱりそうなの?」
エコがハルナに歩み寄りつつ、少し残念そうに言った。せっかく来たと言うのに、やはり正体はそんなものか。
「私も気になったから、地元の人に聞いてみたのよ。そうしたら、風の音だって。昔から有名みたい。ちょっとがっかりしない?」
ハルナが細い肩をすくめる。
「ところで……」
エコはそう前置きすると、ハルナは話題が変わることを読み取って、エコの言葉に耳を傾けた。
「わたし驚いてることがあるの。このあいだハルナさんと初めてここに来た時には、森の様子がもっとおかしかったよね? 入り口の方は前見たみたいに枯れてたけど、奥の方に来てみるとさ……」
エコが頭上を指差し、ハルナもその先を見つめる。
「なんか、まるで何もなかったみたいに……」
エコが樹冠に視線を移しながら呟いた。頭上では奔放に伸びる枝々が、まるで本当の夏のように生い茂っている。
「そうなのよね、私も驚いたわ。あの時から毎日森の調査をしてるのだけど……。最初見積もったより被害が少ないみたい」
「なんで? いや、いいことだけど、だってこんなに気温が上がってるのに……」
「そう。でも、エコちゃん分かる? 森の中と外とで全然気温が違うでしょう」
「言われてみれば、森の中は暑くないね、風も吹いてるし。……でもどうして?」
「森のシールド作用とでも言えばいいのかな。……すごい速さだったんだよ。冬だから、大抵の木は葉を落として休眠に入ってたの。そこにいきなり強い日が射したら、根本の植生まで一気に死んでしまうと私は思ったの。でもそうはならなかった。なんでか分かる? エコちゃん」
「……わかんない、――いや、もしかしてつる植物のマント群落……? すごい発達してるよね」
エコが疑問に思いながらそう返すと、ハルナが驚いて手を叩いた。
「わあ、すごいすごい! ……よくわかったね~、すごい。そうなの、マント植物がまるで用意してあったみたいに急成長して、たったの数日で森全体を覆ったのよ。それから落葉樹の葉もすぐ芽吹いて、あっという間に夏の森になっちゃった。自然の力ってすごいわ~」
ハルナがひとしきり関心した。そして、その後少し沈んだ表情を見せる。
「フィズンなんか、マント群落という名前すら知らなかったわよ……。は~あ」
ハルナがそう言って落ち込む。
「ハルナさん。フィズンは、いま何をしてるの?」
「森の奉仕活動よ。あの子、体が弱っちょろいでしょ? 魔導士ってみんなそうだからね。魔力のためにとか言って、体力を全然磨かないで。しかもフィズンったら勉強もしなかったらしくて、知識も常識も身についてないのよ」
「は~~……。大変そうだ。だけど、頑張ってんだね、フィズン」
「頑張ってないわよ。……でもね、フィズンは武器とか兵器にやたらと詳しいの。採掘兵器って知ってる? あの子はもう、あれに興味津々で。いつの間にか、今度見学させてもらう約束をしたので、一日休みくださいって言いに来たの。ふふ、偏りのある男の子なのよ、極端過ぎるほどに」
その後エコとハルナは世間話をしつつ森を戻り、入り口付近で別れた。聞けばハルナが泊まっているギザヴェーの施設は、すぐ近くにあったらしい。
「なんだいっ、あっちにあったのかぁ~」
エコがかっくりとうなだれた。
「ふふふ。来る?」
ハルナが楽しそうに軽く笑う。エコも微笑みを返した。
「いや、いーよ。わたし達もー帰らなきゃ。じゃね、ハルナさん」
「ふふ。じゃあね~~、エコちゃん。また会えるといいね」
石造りの街は温度が下がりにくく、夜になってもなお暑い。そして相変わらず、蝉たちが鳴き続けている。蝉時雨というより蝉嵐とでも呼びたくなるような忙しないうるささの中を、タークとエコが帰途につく。
「……だからねー、『マント群落』っていうのは、森の縁部分に出来るつる植物の群落のことで、森林の脇を固めて、林内に風が吹き込むのを妨げる働きをするの」
寝床に帰る道すがら、エコがさきほどのハルナとの話をタークに噛み砕いて説明する。話が難しいので、タークは眉を寄せつつ懸命にエコの話を聞いていた。エコの説明は、お世辞にも上手くはない。
「ふーん。風が吹き込むのを防いで、それでどうなる?」
「林床が乾かないとか、湿度と温度が一定に保たれるとか……。あのね、ターク。土の湿り気、栄養、風通し、日当りなんかの条件がちゃんと整ってる環境じゃなくちゃ、森は育たないの。森に生えてる木々は、温度を保ったり日光を遮ったりして、中の環境が狂わないように調節してるわけ。そこに動物たちが加わって栄養を運んだり古い森を掃除したり花粉やタネを運搬したりして、森のなかで命が廻るの。そういうのを生態系っていうんだよ」
「へえ~。エコはいつそんな勉強を? 師匠にか」
「もちろん。師匠が読んでた本は訳がわからなかったけど、なぜだか師匠が話してくれると、わたしはよく覚えられた」
「師匠ね……。ここんとこ忙しくて忘れてたな。この街にも居ないかもなあ……」
師匠の話題に移ると、二人の顔は自然と真剣味を帯びてくる。【ハロン湖】でも【トレログ】でも、師匠についての手がかりは何も得られていない。タークの故郷【エレア・クレイ】にたどり着くまでになんとなく師匠が見つかるものだと思っていたエコは、その事実に多少うんざりしていた。
「あーあ、わたし、もっと簡単なことかと思ってた。こんなに街が広いなんて思わなかったし、旅に出ようってタークに言われた時には、世界ってもっともっと狭いものだと思ってたもん」
エコが珍しく弱音を吐く。旅の途上は出来事に対応することに必死で考えもしなかったが、こうしてひとつところに腰を落ち着けると、エコもただ楽観的なままでは居られなくなる。目の前に現実的な問題がない状況では、ずっと先の未来に不安材料を探してしまうのだ。
タークは、そんなエコを慰めたいと思って、こんなことを言った。
「なに、手がかりの一つも見つかれば、訳ないことに変わりないさ。師匠の名前、顔、人間関係……、魔導士なら研究内容について調べられれば、論文とか見つかるんじゃないか?」
その閃きはエコを安心させるための、でまかせに近いものだった。だが、名案だ。エコがぱっとタークを見上げる。夕焼け空を瞳に写して、オレンジ色の虹彩が赤く燃え上がった。
「師匠の論文かぁ……!」
「ああ。研究は、植物に関してのものかな。研究内容についてとか、エコはなにか知らないか? 研究者の世間は狭いって、ミモザが言っていた。論文が見つかれば、意外とあっさり見つかるかもな」
「なるほど! 頭いい……。そうか……!」
タークの発想はこうだ。
魔導士の研究を世間に公表する目的で作られる学術論文には、著した者の名前や身分、共同研究者や出典などといった情報が必ず載る。師匠については顔も名前も分からないが、マンドラゴラの巨大化、そしてそれを魔法生物として教育するという奇抜な研究をしていたなら、それに関連する論文が何処かに存在するはずだ。
なぜなら普通そこまでの研究をするなら、ある程度その前段階の研究をしているはずだからだ。ハルナが言っていた、マンドラゴラの栽培実験……。よくよく考えてみれば、師匠という人物はすでにそれに成功している人物ということになる。とすれば、論文を見つけるのは簡単かもしれない。
少なくとも、マンドラゴラ栽培や植物の魔法生物に関しての研究内容を漁れば、師匠の手がかりを得ることが出来る可能性は高い。
「そうか。と、いうことは……、いや、でもそれはまだわからないか……うーん……」
エコがぐっと考え込む。タークがエコの肩を叩いた。
「もちろん、それは探し方の一つだよ。並行して、記憶陣術を使える魔導士も探すとしよう。――よし! 方針は固まったな。これできっと見つかるさ、師匠も」
「ターク……! ありがとう!」
エコがタークの左手を取り、瞳を輝かせて礼を言う。タークは笑い、それをぎゅっと握り返した。二人は路地に立ち止まり、訳もなく空を見上げる。
山陰に入る直前の太陽が赤く潰れている。その光が紫色の雲の縁を朱に彩る一方、天は星の舞台になり始めている。熱風が夜風に変化しつつある時間帯。飛翔する蝉を、コウモリたちが盛んに捕らえていた。
「でもその前に、まずは“山”だね! よーーし、やるぞーーーーっ!!!」
エコが唐突に叫んだ。
――――
【トレログ】市内某所。うす暗い室内に、何人かが存在していた。
「あああ。『彼女』が、『彼女』が、『彼女』が、呼んでいる……」
室内は、にわかにざわついている。このところ聞こえるようになった呼び声に、皆がざわめきを抑えきれなくなってきたのだ。
「おさえろ、気持ちはわかるが、まだ我慢するんだ」
細身の男が、周りの男達を懸命に鎮めようとしている。彼には、こうなることが予め分かっていた。しかし、防ぐことは思いの外難しい。想像したよりも、兄弟たちの抑制が効いていない。計画の発動が待てないのだ。
「いても、たっても、いられない」
「でも、今行っては元も子もない。元も子もないんだよ」
「だが、だが、懐かしい故郷の音が、音が、音がするんだ……」
「お土産を沢山もって帰るんだと、そう言ったじゃないか……。気持ちを抑えてくれたまえ……。ほら、金をやるからゴーレム宿にでも行って、はやる気持ちを静めてきなさい」
「じゃじゃじゃじゃ、じゃあ、そうすることにするよ……」
一人の男が部屋を出ていった。別の男が、男の肩を掴み、そして問う。
「アルクンセラン・クレディンゴモン氏。それは、いつだと言ったかな? ……大勢集まるところでなら、【十一年祭】でも良かったじゃないか……」
「より確実に、より沢山の兄弟たちを作るには、ああいうまとまりの無い会ではだめだ……。計画通りに待ちたまえ。『彼女』も、おなかを空かせてきたようだが……まだ……我慢できる」
「わたしとてそう待てなさそうでね……正直、保障は出来ないほど切羽詰まっている。今すぐにでも、行って良ければ走っていきたい」
「お前もゴーレム宿へ行ってきたまえ。性欲を捨てることで、ある程度その渇望を我慢することが出来る」
「では、私も行ってくるよ……あと二週間だな……?」
そうしてまた一人、部屋を出ていく。後に残った数人は、何をするでもなく、ただ時を過ごしている。細身の男は部屋を出て、同じ建物内の自室兼仕事部屋に戻った。
部屋の中には無数の試験管やガラスのびんが置いてある。びんの中には、何かの生物の死体と、それが腐らないようにするための薄黄色の液体が詰められていた。
細身の男、アルクンセラン・クレディンゴモンは無言でそれらを眺め回すと、ため息をついてしゃがみこんだ。同時に、自らの腹と頭を手で抑える。
そして自分の中の何者かに問いかけるように、「まだだ……まだ待ってくれ。まだ早すぎるんだ」とささやきかけた。
窓も扉も締め切った部屋は、まるでオーブンの中のように暑い。なのにアルクンセラン・クレディンゴモンという男は、ひとしずくの汗もかくことがなかった。