10石の街トレログ
その後、エコとタークの旅は極めて順調だった。
森を抜けて街道に出て以降は道に迷うことも、食事に困ることも、命を危険にさらされることもなかった。それというのも、街道筋へ抜けてすぐ、大きな隊商に出会い、【トレログ】の近くまで同行できたからだ。
隊商の商人たちはエコが魔導士だと知ると、気前よく物資を分けてくれた。魔導士の印象を良くしておくことがどれほど重要かを身をもって知っているのが、商人という人々なのだ。
「魔導士様」と呼ばれ歓待されることにエコは戸惑っていたが、タークが『都合がいいから言わせておけ』と言ったので、されるままにしていた。
そうして数日間隊商について歩くと、【石の街トレログ】の広大な領域内に入った。そこで隊商と別れる。
「私どもはここで……、またいずれ」
とはいえ、【トレログ】の領域に入ってからも、まだまだ歩かなくてはならない。
【トレログ市】は人口8万を超える大都市だが、ほとんどの人は街の中心に暮らしており、郊外は主に主食である栗やクルミを育てるための広大な農地になっている。農地を守るためにいくらかの人は住んでいるが、その範囲はまばらで、数も少ない。
人の多い【トレログ市】の中心街にたどり着くためには、領域に入ってから、さらに一日かかる。二人は街道沿いにある宿場で宿をとった。
そして、二日目。二人はようやく街の中心部分に入った。
「すっごい人の数!」
「賑やかだねえ」
エコにとっては、はじめて訪れる大きな街だった。見たことのないほど多くの人が目まぐるしく行き来している様子を、真剣に目で追う。だが追っても追っても、次々と知らない人が目の前に現れ、きりがない。
「ほえぇ……」
「目が回るか? まずは飯食って宿探しだな」
タークはエコを連れて、宿を探すことにした。だがこれが一筋縄ではいかない。
歩いていると、エコがすぐにどこかへ行ってしまうからだ。
繁華街をちょっと歩けば、珍しいものを見つけてエコが消える。
商店街をちょっと歩けば、珍しい店を見つけてエコが消える。
でもまたちょっと歩くとエコが消える……。その繰り返しだ。
「いたなぁ……おい。エコ、はぐれるな。こんどは何を見つけた?」
「あっ、ターク! みてほら、お魚が泳いでる」
エコは商店街の店先にある、水槽を指さした。フナ系の食用魚を買っている生け簀だ。
「すげーな、生きてるよ……」
タークが感心して見入る。
「見てホラ、下もお魚なんだよ」
「ええ?」
タークが下に目を落とすと、足元の石畳に魚の文様が彫られていた。
「ねえ、似てない? これとこれ」
「ん? うーん、言われてみれば」
【トレログ】市内では区画ごとに模様が違う真四角のモザイクタイルが歩道を埋め尽くしており、歩いている最中、これに目がいってしまうことも、エコがはぐれる一因になっていた。
ある程度中心部に入ったところで、二人は宿屋を併営している食堂を見つけた。値段も手ごろなのでタークはそこで宿をとることにし、二人分の食事を頼んだ。
「どっこいせ。エコ、これからの話だが……。師匠を探すにもあてがないから、情報収集しながら街の中見て回ろう。エコも色々見たいだろ?」
「うん。すごい変なところだね。人ばっかりいるのに、他の生き物はあんまりいないね。鳥はいるけど、木もあまり生えてないし」
「ああ、そうだな。エコは家一軒しか見たことないから、こんな風景は珍しいだろう」
「うん! 石畳の模様がおもしろいね! あっちでご飯、作ってるの? 手伝わなくてだいじょうぶ?」
エコが、厨房の方に首を出してタークに尋ねる。
「ああ、昨日と同じだよ。宿屋ではああやって食事を作ってくれるんだ」
エコは、モノを買う、売るということを知らなかった。タークが説明しても、腑に落ちていない。生まれてこのかた、エコは一度も社会生活を営んだことがないのだ。
食事をとって部屋に荷物を置いてから、正午の街を散策する。
「これだけ人がいるのに、師匠がどこにも居ないね……」
しきりに人の顔を見ていると思えば、エコがそんな話をする。街に住む人の数が、これほど多いと思っていなかったらしい。あるいは、人間がこんなにたくさんいることを知らなかったのかもしれない。
「そりゃあな。この街だけで何万人暮らしているか。人を尋ねる所があるから、そこへ行って探してもらおうか。……ここに師匠がいれば見つかるはず……。あっ」
タークがハッとする。
「なに?」
「師匠って……名前はなんていうんだ!?」
タークの問いかけに、エコは答えられなかった。
――――
――その夜。日が暮れるまで街のあちこちを見て回った二人だったが、師匠が見つかるわけはなかった。
名前が分からない人を探す方法は非常に限られる。名前が分からないとなれば、手掛かりは顔くらいしかない。
しかし師匠の顔はエコの記憶の中にしかなく、記憶をそのまま取り出して見せるわけにもいかない以上、探しようがない。すでに八方ふさがりだ。
宿で夕食をとっていると、だんだん席が込み合ってきた。エコの隣に、プラチナブロンドの髪をなめらかにカールさせたきれいな女性が腰掛ける。
「お隣、失礼します」
「こんばんは! わたし、エコ」
エコが満面の笑顔で答えた。予想外の返答に面食らいながらも、女性が微笑んで挨拶を返す。シルバーブラウンの柔らかそうなまつげが、ほんのまばたきも大きく見せる。
「ふふ。こんばんは。私は、コトホギって言うのよ」
コトホギと名乗った女性は、くりっとした栗色の瞳をエコに向けて言った。
エコは笑顔のままタークを指さし、タークを紹介した。
「こっちはタークだよ」
「こんばんは」
エコに乗せられ、タークも挨拶した。
「初めまして。コトホギと申します」
コトホギが恭しく頭を下げる。
やがて夕食が運ばれてきた。
主食である、茹でた栗をつぶして水と数種のつなぎで混ぜて焼いた『プレッタ』と呼ばれる薄焼きパン。トレログでよく食べる、豚肉と脂と内臓の煮込み。豆と昆虫と芋のつぶし和え。そして、エコの家にもあった『ベーナ・クリーム』。そして、鶏がらのスープ。
トレログ料理の特徴は、基本的にどの料理も原型をとどめないほど潰すか煮てあるところだ。栄養が凝縮されているためか、味が濃く、量が少ない。
これら数種類のどろどろの料理を好きな割合で混ぜ、『プレッタ』にスプーンで塗ったくって食べるのが、トレログ流だ。
エコとタークと相席のコトホギが食卓を共にし、すぐに打ち解ける。コトホギは美人なわりに気さくで、よく笑った。
「へえ、あなたたち今日ここに着いたの?」
「うん。今日着いたところなの。ねえ、わたしたち人を探してるんだけど、知らない?」
「人を? どんな方かしら?」
「『師匠』っていって、わたしに魔法を教えてくれた人なの」
エコは即答する。タークが眉をしかめる。コトホギは少し驚いたふうに、口に手を当てた。
「ごめんなさい、分からないわ。……エコちゃん、魔法が使えるの? 魔導士ってこと……?」
「うん」
タークはまずい、と思う。
エコが魔導士なのは間違いないが、【魔導士】という身分かと問われれば、違う。
【魔導士】になるためにはきちんとした専用の教育を受け、各街にある【魔導学院】を卒業する必要がある。だが、エコは【マナ板】と呼ばれる学院の修了証書を持っていない。
しかし、普通は【魔導学院】に通わない限り魔法は使えない。そのため、魔法が使える=【魔導学院】を卒業した【魔導士】という図式が成り立つ。エコのような存在はまれだ。
タークも詳しくないが、これが魔導士にバレたら多分面倒ごとになるはずだ。後でエコに、いろいろと口止めをしておかなければ……、タークは心の手帳にそう書き留めた。
「そうか……。あ、ちゃんと自己紹介をしてませんでしたね。私はコトホギ・シュターン。魔導薬士をしてるの」
「魔導薬士? 薬を作る人?」
コトホギはこっくりとうなずいた。つややかなプラチナブロンドの髪が、頭の動きに付き添って波うった。
「ええ。……魔法はあまり得意じゃないんだけど、医術と、薬の研究と精製が専門なの。その方も魔導士なのよね? 私、この街の魔導士なら大体知ってると思うわ。その方のお名前は?」
「……いや~、それが……」
タークが頭を掻く。
「師匠は師匠だよ。名前なんてないんじゃない?」
エコがあっけらかんと言う。
「いやそんな馬鹿な。師匠だって、魔導士なら名前も苗字もあるだろ」
「名前なんて教えてくれなかったよ。師匠は師匠だもん、そう呼べって」
「師匠ってのはな、ものを教えてくれる人に対して使う言葉だぞ。そんなこと言ったら、俺にだって師匠がいるよ。剣術の師匠、椅子づくりの師匠、狩りの師匠……」
「えっ、タークにも師匠がいるの!?」
エコが驚いて叫んだ。そのやり取りをみて、コトホギから太陽のような微笑がこぼれる。
「ふふふ、エコちゃん、私にも師匠がいてね、いろんな魔導士に詳しいから話してみたらそのひとの行方が分かるかもしれないよ。明日って時間ある?」
「本当!? ターク、明日って時間ある?」
エコが、質問内容をタークに受け流す。
「あるよ」
タークが即答した。
「じゃあ、明日一緒に行きましょう」
そうコトホギが請け負う。
その翌日。約束した通りの時間に、コトホギがエコたちの部屋を訪ねてくる。
「おはようございまーす」
コトホギがドアをノックすると、どうぞ、とタークの声。ドアが開かれる。
「あれっ、エコちゃんは?」
「すみませんが、エコが出かけたまま帰ってこないのです。いや、そろそろ帰ってくると思うのですが。まあ座ってください」
そうは言ったものの、実はエコはまだ『時間』という概念をよく理解していない。エコの暮らしていた環境では、都会のような細かい時間の分割は必要ないからだ。
今まで使っていた一日の時刻は、朝、昼、夕方、夜のよっつだけで、それも季節によって変わる。
「じゃあ待ちますわ。ところで、タークさん……」
タークがすすめた椅子にうなずきながら腰掛け、コトホギがすこし神妙な面持ちで言う。
「なんです?」
「あの、エコちゃんって子。少し変わってますね。妹さんと言ってました?」
「ええ、まあ。腹違いの妹です」
タークは、とりあえずそう答えることにしている。コトホギに他意はなさそうだったが、面倒臭いことはごめんだった。エコの出自や成り立ちは、タークにすら常識外れだと思う。他人に打ち明けるには、すこしばかり込み入った話だ。
「……差し出がましいかもしれませんけど」
コトホギは膝に手を置いて、タークをまっすぐ見つめた。肩にかけたふんわりとしたケープが、窓から吹き抜ける風に踊る。
「エコちゃんには」
タークは身構えた。なにか怪しまれるようなことがあったか? と自問する。落ち度は、数えきれないほどあったと思う。
だがコトホギの口から繰り出された言葉は、タークの予想をあっさりと裏切った。
「行動に礼節が欠けていますわ。ええ、それも著しく!」
「はあ……」
タークの口から、ため息と返事の混血児のような、歯切れの悪いものが漏れた。コトホギは長いまつげを伏せ、ぐっと身を乗り出してくる。
「エコちゃんは【魔導士】でしょう? それがですね、昨日のお食事の仕方、立ち居振る舞いを見るに、まるでなっていません。小さな仕草や抑揚も、あの年になれば当然身についているはずのものを。お兄様のお立場からは、どうお考えなのでしょう?」
「はあ」
「タークさん、まじめに聞いてらっしゃいます? 魔導士の子女は、スプーンを握りこぶしで使ったり、手拭きナプキンで直接口を拭いたり、お化粧直しをする度に大声で宣言するような行動は控える必要があるのです。私エコちゃんのお行儀のことを考えていたら、昨晩夜が更けるまで眠れませんでした。近頃の学校では何を教えているのでしょう? 魔法だけを教えればいいというものではないというのに」
「ぶっ、……」
タークが噴き出す。
「ははははは!」
そして笑い出した。あまりにもおかしかったのだ。確かにエコは食器をきれいには使わないし、手拭きナプキンは初めて使っただろうし、トイレに行くときは周りにお構いなく伝えてから行く。
だが、そんな程度のことをこうまで大げさに語る奴がいるとは!
「いやあ、コトホギさん。面白い話でした」
ひとしきり笑った後、タークは頬を膨らましたコトホギに悪びれもせずこう言った。
「私、冗談を申したつもりはありません。心外ですほんとに」
「ははは、礼儀とやらがそんなに大事ですか? 確かにエコの礼儀がなっていないのは認めますが」
タークの人を馬鹿にしたような態度が気に障ったのか、コトホギはさらに身を乗り出し、顔を真っ赤にしてまくし立てる。
「大事ですとも! 人間には『品位』というものがございます。『品位』こそ、人間を人間たらしめる印。文化人と野蛮人とを分かつ大きな境界ですわ!」
ここまで語ってようやく自分が熱くなりすぎたことに気づいたのか、コトホギはぱっと顔をふせて椅子に体重を戻した。
「し、失礼。私のほうこそ礼節に欠けておりました」
「いやあ、しかしありがたい話かもしれない。俺はそういうことに無頓着でね、気にしたことがなかった。これから、エコには必要な能力なのかもしれない……」
タークは遠い目をして言った。
馬鹿な話だとは思うが、それが魔導士社会の常識なら、タークの持つ価値観こそ、エコにとって必要のないものだろう。エコには、魔導士の社会で生きていくという道だってあるはずだ。師匠にも、その方が再会しやすいかもしれない……。
ふと、そう考えた。
コトホギはちょっと意外そうな顔をしたが、すぐ笑顔になった。
「そうですか。それでは、以上を踏まえてのご提案なのですが……エコちゃんを私の師匠に預けてくださいませんか? もちろん、魔導士としてのマナーを教えるためにです」
「はっ?」
またも意外な言葉。タークは即答できない。
「ただいまー!」
そこにエコが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
コトホギとタークが、同時に振り返って答えた。
「仲いいね!」
「たった今、仲良くなったんですよ」
エコの含みのない言葉に、コトホギがにこっと笑って答えた。
――――
正午。
エコの前に積まれた大量の本の山の上に、更に本が積まれた。
そして本の向こうにいる、透き通った桜色の髪を持つ女性――すらっとした長身に細やかな輪郭を持ち、雪解け水のように澄んだ水色の瞳を持った女性が、鋭い微笑をエコに向ける。
「さあ、お勉強しましょう。エコちゃん。この私、テンクラ・ハルナが、あなたをあっという間に一流の魔導士に仕上げて差し上げます」
女性は澄み渡る湖のような美声で、エコに言う。
「お勉強……?」
エコはぽかんとしてオウム返しする。
「そう。エコちゃんには、問題がありすぎます。でも安心しなさい、私が付いたからには一週間で基礎を。二週間で応用を、一か月で全てを叩き込んであげるから……ふふ、ふふふふふふ」
女性の目がきらりと光る。エコはちょっとたじろいだ。後ろでコトホギがにこにこと笑っている。
コトホギがタークにした提案……エコに礼儀を教えるという提案は、タークが想像したような内容とは、少し異なっていた。
コトホギの言う【マナー】とは、【魔導士】としての『基礎教養』そのもののことだったのだ。
【魔導学院】の定める『標準魔導士過程』は十五年間――。
その学習範囲は、魔法やマナについての学識に加えて、食事のマナーや言動のマナーといった礼節にまで及ぶ。
コトホギの師匠『テンクラ・ハルナ』は、王立魔導学院で教鞭をとったこともあるという、高位の魔導士だった。
エコとテンクラ・ハルナはつい先ほど出会い、いくつかの質問を経て、ものの三十分でさっそく授業という運びになった。まるですべてがあらかじめ決まっていたかのように、準備は完璧に整っていた。
ハルナは、その凛とした外見と鋭い眼差しだけ見れば、ともすれば冷酷な印象を与えかねない、冬のように美しい女性だ。
しかしエコに対してヒアリングした後いくつかの魔法を試させた辺りで、だんだん目の色が変わりだした。
一般的な視点に立てば、エコの魔導士としての能力は極めていびつだった。
エコの魔法はとても強力で出が速い。殊に『焚き付けの魔法』や『油とりの魔法』などの生活魔法の熟練に関しては舌を巻くほどであり、エコが息をするように何気なく魔法を使う姿は、老練の魔導士をほうふつとさせた。
どんな些細な魔法でも、魔法を使うには高い集中力を必要とする。ここまでの速度と正確さで魔法を使える人間など、魔導士の世界でも一握りしかいない。
しかし、その能力に比べると、エコの無教養と子供っぽさを表現するには『悲惨』という言葉がぴったりだった。そのあまりの落差が、ハルナの心に火を点けた。
無教養な魔導士を、教養ある【魔導士】に変える……それは無造作に伸びた植木を、完璧に剪定するのに似た快感だ。それを味わえるかもしれないと思うと、ハルナの華奢な胸が喜びにふるえる。
「さあああ、エコちゃん! さっそく行きますよ! まずはこれっ! 『マナ読本』の内容から授業を始めましょう――しっかりついてきなさい!!」
――とどのつまりハルナという人は、教育と指導の快楽に囚われた、ものすごく奇特な人間……。
一言で言えば『変な人』だった。雪のように冷たかったはずの瞳が、いつの間にか真夏の太陽のようにギラギラと輝いている。
エコは自分の知らないところで話が次々進んでいくのに戸惑いを覚えたが、コトホギもハルナもみんないい人っぽかったので、流されてみることにした。