斧鬼~魍魎の棲む家~①
西暦2018年7月15日……都内某所。
この街では以前から、奇妙な失踪事件が頻発していた。
私のお姉ちゃんは雑誌記者で、失踪事件を熱心に追っていた。
――そして、あの日……、私のお姉ちゃんが突然姿を消した……。
嫌な予感がした私は、街中お姉ちゃんを探し回っていた――。
高層ビルの合間に浮かぶ夕日が、ゆっくりと地平線に沈み始める頃。空は果てしなく大きな虹のように、山吹色から辰砂色、真紅から濃紺へと緩やかなグラデーションを描いて、全天を覆い尽くしていた。
夏雲は夕日に照らされて金箔を貼ったように輝き、反対側には漆のような影を落としていた。
最も劇的で美しいこの時間帯。それでも往来をゆく人々は、その夕焼けを見上げることなく、自分の目の前だけを見てせわしなく動いていた。
大都会の街には、確かに人が沢山いる。けれど、それが却って私を孤独にしていた。思わずこんなことを呟いていたのは、それでかもしれない。
「おねえちゃん……、どこにいるの……?」
木々がざわめき、人々が談笑しながら脇を通り過ぎる。私はたった一人の家族であるお姉ちゃんを見失い、ふるえていた。親とはぐれた仔ヤギのように。
スカートのポケットの中で、スマホが振動する。
(お姉ちゃんが通知に気づいて、折り返してくれたのかもしれない!)
一瞬そう期待したが、画面を見て落胆した。そこには、『智子』と表示されている。
「なに?」
『ユイ? いまどこ?』
電話越しでもあけすけで明るい、おさななじみの智子。
「今? 公園を探してるの……」
私はそれと対照的に、薄暗い声を返した。
『公園って、新宿のあの広い公園? 探してるって?』
言葉の全てに疑問符を貼り付けて、智子が尋ねる。
「うん…… お姉ちゃんがいなくなったから……」
『いや、お姉ちゃんが居なくなったって……ユイ、心配しすぎー! 大人なんだから、たまに連絡よこさないことくらいあるってば! それより、これから店に来ない? みんないるよ。あたしのアニキも来いって言ってる」
親友からの遊びの誘い。でもこの時の私は、とても遊ぶ気分ではなかった。
「ごめん、これからは無理かも……。もう少し、お姉ちゃんを探したいから……」
そう言って断る。短い会話の間に、私は木立の中に入っていた。街灯もない、薄暗い林の木陰。
くらがりの奥に、一本の小道を見つけた。
「こんな道、あったかな……?」
『ん~?』
薄暗い林の中、その小道はまるで何かを待ち伏せするようにぽっかりと口を開いていた。私はなんとなく、その先に何があるか気にかかる。
暗い気持ちの時、人は闇に紛れるとなんとなく落ち着くのかも知れない。
心の闇は、同じ暗闇を好むのかも知れない。
きっと夏の夕方は、そんな暗闇を生む時間なのだ。
「ごめんごめん、独り言……」
智子にそう返しながら、私はなんとなく、その小道へと足を向けていた。
でも今思うと、道の脇にあったくたびれた看板には、こう書いてあったのだ。
――『立入禁止』と。
小道は長くもなく、また短くもなかった。智子と会話しながら、私はいつのまにか開けた空間に出ていた。
少し先に、古びた鉄柵が見える。その奥には庭があるらしい。
鉄柵は伸びっぱなしのツバキの生け垣に半分以上隠れており、そのさらに奥にはなにか建物が建っているらしかったが、薄暗さも手伝って柵の奥はよく見えない。
暗くなるとともに雲の増えてきた朱い空をバックに、林の上で真っ黒なカラスが数羽、鳴きながら飛んでいた。
私は柵の向こうが気になり、ツバキの木が視界から切れるところまで歩いた。そして、垣根越しに向こうへ目を凝らす。
……そこにあったのは、巨大な洋館だった。
「なんだろう、この建物」
建物の随所に目を走らせる。まるで前世紀から持ってきた様な、古風な建築物。なにか公営の博物館か記念館、と思ったが、人の気配はどこにもない。
巨大な赤い屋根は風雪の侵食によっていくつもの穴が空き、もはや風雨のなすがままにその身を晒していた。
漆喰の剥げた壁にはびっしりとツタが張り付き、窓ガラスにはところどころヒビ割れが走っている。
やけに大きく作られた玄関扉は、黒ずんで見るからに古そうだった。
電話越しの智子に尋ねてみる。
「あのさ、公園の奥に建物があるの知ってた?」
返答がない。私は耳に当てていたスマホを、顔の前に持ってきた。画面を見る。
「あれ、圏外になってる。おかしいな、電波障害……?」
公園から少し入った程度で、圏外になるものだろうか? 多少疑問に思ったものの、私の意識はすぐに視界の端に映った“あるもの”に引っ張られた。
「あれは……!」
鉄柵の向こうのテーブルの上に置いてある、白いバッグ。
私は閉まった門柱の脇にあった錆びた鉄柵の隙間を抜け、玄関脇にあるテーブルへと走り寄った。
バッグを調べる。見覚えのあるキーチェーンがぶら下がっていた。この間、私がお姉ちゃんに贈ったものだ。
「やっぱり……! これ、お姉ちゃんのだ! じゃ、まさかこの建物の中に……?」
改めて、眼前に迫った建物を見上げる。
お姉ちゃんとこの場所を結びつける要素がひとつも見当たらず、私は戸惑った。ひとまず建物を調べようと、近くの窓ガラスに近づいた……その瞬間。
「きゃぁぁ…………。……」
中から悲鳴のような声が聞こえた。ひどく、嫌な予感がする。
「今の声、中から……?」
窓に近づき、ほとんどガラスに頬をつけるようにして中を覗き込む。外より建物の中のほうが暗いので、屋内の様子はよく見えない。
ガラス窓から離れ、恐る恐る玄関のドアノブを回してみる。鍵がかかっていて開かなかった。
「どこか他の入り口は……」
調べれば、きっとどこか中に入れるところがあるはずだ。
どうしても中が気になった私は、他の入り口を探すことにした。そして先程の鉄柵を再び通り抜けようとした、その時だった。
背後から、入り口のドアが開く鈍い音。
同時に、何か大きな生き物の気配を感じる。
背筋に凄まじい悪寒が走る。
本能的に、息を止めた。
衣擦れの音さえも発しないように、ゆっくりと、背後を振り返る。さっき私が不用意に回してしまったドアの方を見る。そこに居たのは……
白く巨大な“巨人”だった。
肥満男性を思わせる、丸みを帯びた白い巨体。
全身を覆う白い皮膚はところどころが裂け、やけに赤い筋肉が露出している。
解体途中の豚のごとく、腹部から股にかけて正中線から真っ二つに破れており、そこから巨大な内臓のような赤黒い肉が溢れ出していた。
暗くてよく見えなかったが、大きな口には大小の歯が乱雑に生えており、ウシのように太く長い舌をしきりに動かしつつ、荒々しく呼吸していた。
そして何より私の目を引いたのは――両腕に携えた、血の滴る巨大な“斧”の存在だった。
私は口から飛び出しそうになった悲鳴を必死に噛み殺し、生唾とともにゆっくり飲み下すと、――静かにその場にしゃがみこんだ。
“気づかれたら――死ぬ!!”
私の中の声が、そう囁いていた。
心臓が胸を破りそうなくらい激しく鼓動している。呼吸は乱れ、頭は冷たい。
斧を持った巨人は辺りをきょろきょろ見回すと、首を大げさにかしげてひと唸りする。そして、こちらへ向かってゆっくりと歩き出した。
(近づいてくる……!)
手前に草が生い茂っているから、向こうからこちらは見えていないはずだ。でも確実に、私との距離が縮まっていく。その巨体ゆえに、ゆっくりとした動作であっても移動速度は早かった。
遠くの方で雷鳴が聞こえる。急に風が吹き始め、空が一気に暗くなる。
私は“それ”から離れる為、身をかがめたまま柵沿いを移動した。風が吹き始めたのは幸運だった。草木がざわめき、私の移動する音を消してくれるからだ。
“それ”は周囲を見回しつつ、閉まっていた鉄柵の扉を開けて、私が通ってきた小道の方へと歩いてゆく。やがて鉄柵にかかるツバキの巨木の影に、白い巨体が隠れた。
(今だ……!)
私がその瞬間を狙って草陰を離れ、一気に建物の横に走り込もうとした……その時だった。
『きゃあぁ……あ……っ!!』
建物の中、私が向かおうとしていた方向から別の悲鳴が聞こえる。
(まずい……!!!)
私は衝動的に振り向いた。
同じ瞬間、その声を聞きつけたのか、白い巨人もこちらに振り返っていた。
そして……私の目と白い巨人の視線が、ピタリと合ってしまう。
――見つかった!!
全身が熱くなる。
“こいつから逃げなきゃ……!!”
その時、私の全細胞がそう叫んだ。
私は走り出した。背後に、“あいつ”の気配がする。
“捕まったら、殺される!!”
「ごあああああああああっっっ!!!」
背後で“あいつ”がおたけびをを上げた! 高圧のガスが岩の割れ目から吹き上がるような、鈍く太い声。巨体が私めがけて走り出したことが、背後から聞こえる音と、足に伝わる振動で分かった。
手足の感覚がなくなり、息をする余裕もないまま、私は全力で走った。
明かりのない薄闇の中――目の前に、一点の光が見えた。
私はすがるように、その光を目指す。
その敷地内にはもう一軒、さきほど巨体が出てきたのとは別の家が建っていた。光はそこで揺らめいていた。
私はその家の玄関にたどり着くと、一瞬後ろの様子を見てから反射的にドアを開き、家の中に入っていた。そして、目を瞠るほどの俊敏さで鍵を掛ける。
白い巨人との距離はまだ十数メートルはあったが、その数秒後に、巨大なものが扉にぶつかる凄まじい衝撃が走った。
「きゃぁああ!!」
建物全体が、地震のような揺れに襲われた。凄まじい衝撃。私は、思わず悲鳴を上げてうずくまった。
続く二度目の衝撃で玄関先にかけてあった光……油の入ったランプが床に落ち、激しく燃え上がる。
炎の光が照らしだしたその光景に、私は言葉を失った。
とうの昔に人が住まなくなったらしい、古い作りの家。積もった埃、崩れた家財道具。その光景のそこここに……、
人の死体がある。
「う……っ!!」
私は、手で思わず鼻と口を抑える。死体に気づくと同時に、辺りに漂う異常な臭気にも気づいたからだ。
炎天下に放置した生ゴミより数倍も激しい、鼻を千切りとられるような臭気。それが、辺りに充満している。
「なんなの、あれ……、なんなの、この館……!! ――お姉ちゃん、助けて……!!」
私は恐怖のあまりついそう口走り、同時に、気づいた。
――記者のお姉ちゃんは、恐らく仕事でこの館を調べていたのだ。そしてここを探索している途中、なにかが起こった。
連絡が途絶えた数日前、お姉ちゃんはここを訪れたに違いない。私の携帯が使えなくなったのと同じように、ここには電波を妨害するなにかが存在するのかもしれない。
とにかくお姉ちゃんはここにいる可能性が高い。そして、自分の意思ではここから出られない事情があるに違いない。
だとしたら、私がお姉ちゃんに助けてもらうのではない。私が、お姉ちゃんを助けなくてはいけないんだ……!
そう考えついた途端、恐怖で凍りついていた私の体が急に動くようになる。
衝撃はまだ続いていた。巨人が体当たりしているのだ。だが、建物はかなり頑丈な作りらしい。柱や扉は激しく軋むものの、しばらくは破壊を免れそうだ。
私は立ち上がり、恐怖を振り切るように体を震わせると、暗がりの中へと足を踏み入れた。建物の奥へ。お姉ちゃんを探すために……。
こうして私は、この“館”の中に入った――まるで、見えないなにかに導かれるように。
そこで経験した数々の出来事――いままで感じたことのないほどの恐怖――は、今でも私の中に消せない記憶として残っている。
でも何よりも怖いのは、自分が殺されるかもしれないという単純な恐怖などではない。
私は知った。死よりも、もっと深い恐怖の形を。そしてそれが、人をどのように変えてしまうのかを。