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ぼおおおおおぉぉ~~~ん……
ぼおおおぉぉぉおおぉぉ~~~~~~ん…………
――もう、限界だ。僕には、もう、これ以上抑えられない。
もう我々は集団として制御が効かなくなっているし、すでに故郷に帰ってしまったやつもいる。しかし、誰が彼らのことを責められるだろう? とにかく、計画と違おうが、近いうちに決行しなくてはならない。
失敗は目に見えているが……、それでも、いくらかの『お土産』を故郷に持って帰ることはできるだろう。
ああ、故郷が恋しい……。恋しくてたまらない。あの暗い安堵の世界のことを思うと、胸が大蛇に締めつけられるが如く痛む。
文献で読んではいたものの、キメリア・カルリのもたらす懐郷病……ホームシックの凄まじさがこれほどとは思わなかった。私自身はそこに行ったこともないのに、『帰りたい』という思いが高く募り続ける……。
だが、僕には微塵の後悔もない。……人間たちにとっては迷惑かも知れないが、もう私には人間並みの罪悪感などない。
これがこいつの仕業だとすれば、やはり恐ろしい存在だ…………。
厄災生物、『キメリア・カルリ』は。
……ああ……またあの声が聞こえる。耳の奥、頭の奥に響き渡る懐かしい音……。『キメリア・カルリ』の、旧い記憶……。
ぼおおおおおぉぉ~~~ん……
ぼおおおぉぉぉおおぉぉ~~~~~~ん…………
――――
「コトホギ、エコちゃん達の容態はどうだ?」
「あっ、社長」
【カララニニア鉱掘業】本社。コトホギは、久しぶりの出勤だった。
“山”退治の間はコトホギの仕事はあまりなかったし、“山”を退治してからは衰弱したエコとタークの看病につきっきりで、それどころではなかった。
「うん、だんだん良くなってきたよ。まだ怪我は治らないけど」
救助されてすぐは危険な状態だったエコ達だが、コトホギやラブ・ゴーレムたちの丁寧な看護の甲斐あって順調に回復し、一週間しないうちに起き上がれるようになった。だが骨折が完治するまでは、流石にまだ時間がかかる。本人たちは、怪我が治り次第【トレログ】を発ちたいようだ。
「そうか……いや~、よかったよなあ。あ、例のあれだけどな……、会長がどうしてもやるってよ。エコちゃんに伝えといてくれるか?」
「えぇ~……本気なの? ヒドいな、あの会長……」
コトホギが視線を右上にやり、ここにはいない会長の顔を思い浮かべる。
「まぁな。でも言い出したら聞かないヒトだからよ。下手したらエコちゃんがいなくてもやりかねねぇ」
社長が真剣な顔でそう言う。せっかちで有名な会長のことだ、決して冗談にはならなかった。
「……うん、分かった。また夕方に行くから、その時伝えるだけは伝えとくね」
「おう頼むわ」
社長はそう言い終えると、その足で建物を出ていった。【カララニニア鉱掘業】はエコ達の捜索で仕事をストップしていたせいで、社内中てんやわんやだ。だが、苦難の山を乗り越えた社員たちには、大いなる活気があった。社員たちの忙しそうに働く姿。窓から射し込む太陽の光。風に揺れる庭の樹木。コトホギの口元に、ふっ、と爽やかな笑みが走る。
そして早速仕事を始めようと片付いた机に座り、休み中に進んだ売買契約についての書類に目を通そうと、目の前の紙束を持ち上げたところで、あることに気がつく。
「そう言えば今日、カルハリさんとテテララくんの姿が見えないけど、どうしたんだろ?」
言いつつ、コトホギは部屋の中を見渡した。五人の事務員のうち、二人の姿がない。別の事務員がコトホギに告げた。
「あの二人、連絡なしに突然出勤しなくなっちゃったのよ。社長が家を尋ねるって言っていたわ」
「変だね……」
コトホギが訝しむ。コトホギもよく知っている二人だが、連絡なしに欠勤するような不まじめな従業員ではない。仕事帰りに家に寄ってみようか、と思う。
「こんにちはー」
そこへ、思わぬ来客がやってきた。コトホギは応答しようと振り向いてぎょっとし、声を上げる。
「あっ!」
「コトホギ! お疲れ様~」
そこにあったのは、エコの晴れやかな笑顔。だが頭には何重にも包帯が巻かれ、骨折した腕は固められている。大怪我はまだまだ完治していないのだ。
「ちょちょちょっ、ダメだって! まだあんまり出歩いちゃだめだって、お医者さん言ってたでしょ!?」
「ええ~、だってさ~」
コトホギががなりたてると、エコが明らかに不平を抱いた声を出す。エコの後ろに顔色の悪いタークが立っていた。こちらはかなり無理を押して出てきたようで、あからさまに具合が悪そうだ。おおかた、エコが心配でついてこずには居られなかったのだろう。
「いつまでもずっと寝てるだけって退屈で退屈で……体に悪いよ、もう。社長に挨拶しようと思ってきたのに。いないの?」
エコがきょろきょろ周りを見回す。コトホギは顔の前で手を横に振って、“社長不在”の意を伝えた。
「んも~、ほんとに……。また怒られちゃうよ? おとといも叱られたばっかりでしょうが」
エコは先日も絶対安静を破って勝手に出歩き、医者にしこたま怒鳴られたばかりだった。その時はコトホギも一緒になって叱られ、謝ったのだ。だがエコは悪びれもせず、「大丈夫!」と答えた。なにが大丈夫なのかは、全くわからないが……。
「そうか、社長は居ないんだな。じゃあ帰るか? エコ」
タークがそれとなくエコを促す。歩くのもつらそうなタークだって、早く帰りたいに違いない。コトホギは強い仲間を見つけた思いがした。もうひと押しとばかりに、言葉を足す。
「エコちゃんも帰りな? タークさんだって心配してるじゃない。だってさあ、エコちゃんが出てきたらタークさんだってついてこなくちゃ心配じゃないの。安静って言われてるのは間違いないんだから……」
「……あ~、そっか。……う~ん、じゃあ帰ろっか?」
エコがタークに聞く。タークがうなずくとエコはしゅんとなって、「ごめんターク、じゃあ帰ろう。今日はもう出歩くの止めにするから、部屋で休んでよ」と言った。
「そうしよう。じゃあコトホギ、また顔出すわ」
手を上げてコトホギに挨拶した次の瞬間、タークが苦痛に顔を歪めて胸の辺りを抑えた。骨折した所に障ったらしい。
「ターク、痛いの!?」
エコが慌ててタークを心配する。
「くれぐれも安静にね……ふたりとも」
コトホギは心配しつつも、ある意味微笑ましい二人の姿を見てなかば呆れていた。
「じゃね、コトホギ」
エコが別れの挨拶をした瞬間、コトホギがはっと思い出す。
「あっ、そうだ! 伝えとかなきゃ。実はね、今度ゴーレム協会主催のパーティーがあるの」
「パーティ。なんの?」
エコに聞かれて、コトホギが一瞬口ごもった。眉を寝かせてタークに一瞬申し訳無さそうな目線を送り、答える。
「『エコちゃんの快復祝い』だって……。……まだ快復、してないのにぃ……」
「え、本当!? わざわざそんなことやってくれるの?」
エコが驚く。しかし今や、二人は街の英雄なのだ。“山”を攻略した功績は業界内に広く知れ渡り、エコとタークの名を知らないものはいないほどだった。
「……だからこそ、エコちゃんとタークさんがきっちり全快した後にやればいいのに。もう待ちきれないんだって。……でも、無理しなくてもいいからね。体調が悪かったら遠慮なく欠席して。私から伝えるから」
「行く行く! 楽しそう!」
「俺は……」
エコが即答する。タークは口ごもる。どう考えても無理そうだった。
――――
トレログの街に、しずかな闇が横たわっていた。
セミの喧騒はなりを潜め、とち狂った気候が本来の季節を思い出したか、徐々に気温が下がり始めている。やがて静謐な夜は、吹き始めた風に静寂を奪われた。
はじめ砂嵐を伴って吹き始めた風は、次第に雨を運んできた。
長雨が降り始めたトレログ市。途絶え始めた『リリコ・ラポイエット・フォイル』の力が高気圧と低気圧を激突させ、それに伴って生じた気流が、トレログ市の上空に雨雲を作り出したのだ。
厚い雲の屋根に覆われた【内市】では昼でも暗い日が続き、心なしか人々の顔も暗くなったかのように見える。
そんな『トレログ内市』に、不穏な霧が立ち込めていた。時々、理由も言わず、痕跡も残さずにふと人がいなくなる……、そんな出来事が起こっていたのだ。
その怪事件は『トレログの神隠し』と呼ばれ、街に不安と混乱をもたらした。人々は、街に立ち込める暗い霧から伸びた見えない影の腕が大切な人の手を引いて行くのを、ただただ震えて見ていることしか出来なかった。
しかし街をざわつかせるそんな暗いうわさ話も、冷たく硬い石造りの家の幾多のドアの向こうに閉じこもるこの二人の耳には入らなかった。
「マコトリ……。目を覚ましておくれ……」
ゴーレム魔導士・ギギル・シュターンが、ソファの隣に腰掛けている等身大の人形に向かって、優しく語りかけた。ギギルの厚ぼったいまぶたは半開きになり、うっとりと陶酔している。
「…………………………。……………………」
マコトリは答えない。絶望の現実世界から逃れるべく、マコトリの精神は過去へ旅立っていた。マコトリの目は開かれてはいるが、何も見てはいない。今、マコトリは遠い過去の美しい記憶の中に浸っているのだ。
ギギルが見て触れているのは、魂の抜けたマコトリの抜け殻だ。そしてそれこそが――、ギギルの求めている理想の女性像、そのものだった。
「マコトリ。美しいマコトリ……、おお、君はぼくをここに置いて去ってしまうのか――? この絶望と苦痛に満ちた暗黒世界に。人と人との繋がりを強要される、空虚な世界に――」
ギギルのつぶやきがうつろな空間に広がっては消えていく。届けたい人間などいない、意味の無い独白。
ギギルの手がマコトリの紫色の髪を滑り、ロウのように白い頬をなぜて、ドレスを着たマコトリの肢体へゆっくりと降ろされていった。
「マコトリ、君もこの世界が嫌なのだね? だから、ぼくを置いて出ていってしまうのだろう? より自由な世界へ……。ならばぼくも、いっそこのぼくも、君の逝こうとするドアの向こうへと連れて行っておくれ。ぼくも君の望む世界で、君の一つになりたい」
輪郭をなぞるように降りてゆくギギルの手が、マコトリの腕を這って、両腕にかけられたいくつもの手錠に到達した。
マコトリの胴に両腕を回して、それを一つずつ外しにかかる。一つ目の錠に鍵を差し入れ、外す。ギギルの鼻息が、次第に激しくなる。
「さ、君にかけられた軛を外そう。君が貞淑になるまでという約束を、今こそぼくは守ろう」
マコトリの体にかけられた手錠と足錠はもちろんギギルがかけたもので、ゴーレムの拘束用に作られた特別なしろものだった。
マコトリを強制的に連れ帰ったのが一週間ほど前。家に帰り着くやすぐにマコトリと口論になったギギルは、怒りのあまりこの拘束具を使ってしまった。手錠と足錠には魔法陣が描かれ、ゴーレムの肉体的自由を奪う力がある。
肉体の自由を奪われたゴーレムは、自ずと思考に没頭してしまうことになる。かなりのストレスが掛かっているマコトリに対してこの拘束具を使うことがどれほど危険であるか、ゴーレム魔導士であるギギルに分かっていないはずがない。
しかし、しかし、しかし。考え詰まったギギルには、これしか考えつかなかったのだ。そして彼は発見した。――こうして手錠と足錠をかけてみると、これこそが自分の望んでいるマコトリの姿に近いという事実に。
ついに気づいてしまった。
「美しいマコトリ……」
「…………」
ギギルの発言に対して反抗も否定もせず、ただ黙って聞いていてくれる存在……。
「ああ……、好きだよ……」
「…………」
自分という存在を、無視、無反応という形で、無抵抗に受け入れてくれる器……。
「愛して、いるんだ……」
「………………、…………。……」
それこそが自分の求めているものだったことに。……手錠はすべて解かれた。
マコトリの精神ははるか過去に飛び行き、遠くに行き過ぎて、もう戻ってこない。ギギルは百も承知だった。しかし今の彼には、そんな事実も妄想で塗り替えてしまえる力があった。
興奮で喜び震えるギギルの指がマコトリのスカートの曲線をなぞり、一つ目の足錠を外しにかかる。もうすぐだ。
彼はこのあと、精神の抜け殻――人形となったマコトリを好きなようにしてから、自ら喉を断って死ぬつもりだった。
自分から溢れ出るその鮮血がマコトリの両の胸や顔面に降りかかる光景を思い浮かべると、彼はそれだけで到達してしまいそうな気分になる。
震えが止まらない。寿命で死んでしまうほど、心臓の鼓動が早くなっていた。心臓は一定の数打つと、止まってしまうという。なんということだ、指が震えて錠が外せない! 次が最後の一つだというのに。……これさえ開けば……!
――これが、彼の人生における絶頂期だった。ギギルの呼吸が早くなり、更に早くなり、際限なく早くなった。
「はあ。はあ。はあ。はあ。はあ、はあ、はあ、はあは、はあ、はあ、はあ、はあ、は、は、はっ、はっ、はっ、はっぁ――――っ!!」
そしてギギルの視界を、幾億もの光が覆った。世界が天上からの光に包まれ、ゆっくりとそれに包まれてゆく。手足の感覚がなくなり、上下の感覚もなくなり……、なにか固いものが落ちるような音がして、世界が真っ暗になった。
「…………」
――ギギルが床に倒れたが、マコトリはピクリとも反応しない。そのまま、少しだけ時間が経つ。着せ替え人形になったマコトリと過呼吸で失神したギギル。動きのない部屋に、雨の滴る音だけが聞こえる。
やがて、ドアが音もなく開いた。
入ってきた人影がひたひたと石の床を歩き、マコトリの傍らにしゃがむ。そしてギギルの手から滑り落ちた鍵を手にとって、マコトリの最後の錠を外した。
「……ごめんね。」
人影はそうつぶやくと、半分に折った紙片をその場に落とし、来たときと同じように音もなく去っていった。
雨が次第に勢いを増す。暗闇の中、マコトリの目がきょろりと動いた。