1
タイトル『恋愛感冒』
なんでだろう。
いつも本当に健康の時の幸せを感じられるのは、自分が病気になったときだけだ。
どうしてだろう。
どうして人は、なくす前に、なくすものの大切さを感じることができないのだろう。
わたしは風邪を引いた。健康を失ったわたしは、いつものわたしの元気さがまったく信じられなくなるくらい、力なくベッドに横たわっていた。
熱がある。体中がだるい。昨日から止まらない咳は、コンコン、コンコンと、わたしにへたくそな狐の演技をさせる。
何もしなくても口の中に溜まるつばを飲み下すたび、喉が痛む。 喉のところに砂利道が出来て、飲み込んだものがわざわざそこを踏んづけて通る。そんな感じの不快な痛み。 わたしはそうして、いつも何気なくやっていた動作の存在を知る。
いままでの人生で引いた風邪の中でも、とりわけ重い風邪だった。頭は痛いし、吐き気だってある。食欲は昨日から全くなく、せき(・・)とたん(・・)、鼻づまりが重なって呼吸もままならない。その上、なにもしなくても体中が軋むように痛んだ。
……それでも、わたしはこの風邪が愛おしかった。
汗で濡れたシーツの上にこうして横たわりながら、せきが出るたび振動でがんがん痛む頭の中に、何回も何回も――――いろんなリュウちゃんの顔が浮かんでくる。
わたしとリュウちゃんは、小さな頃からの友達だった。リュウちゃんは怒りっぽいけどやさしかったし、いつも面白い冗談を言って、わたしを笑わせてくれた。わたしが悲しいときは、無理をしてでも励ましてくれた。友達の少なかったわたしを毎日遊びに誘っては、友達の多いリュウちゃんの仲間の輪に入れてくれた。
リュウちゃんが子どもの時は、わたしも子どもだった。リュウちゃんが小学校に通うようになって、わたしも小学校に行くことにした。リュウちゃんが中学生になると、わたしも当然中学生になった。 ずっと、同じクラスだった。似たような名字だから、席も近かった。
子どもたちが恥じらいを知って女子と男子に分かれだす頃、周りにうるさく噂されても、わたしとリュウちゃんは一緒だった。馬鹿にされたりからかわれたりすると、わたしとリュウちゃんはすごく怒った。それが面白かったみたいで、クラス中がわたし達をはやし立てた。
わたしたち二人に打ち寄せる冷やかしの波は日を追うごとにどんどんと強くなっていき、ある時ついに、一番腕白で遠慮のない男子にこう言われた。
――お前たち、付き合ってんだろう。キスはもうしたか?
その時は死ぬほど恥ずかしかったけど、わたしは、そんなことでリュウちゃんと離れるなんて考えることもできなかった。リュウちゃんのことが、とても好きだったから。
そしてわたしは、リュウちゃんも同じ気持ちだって信じていた。 わたしは開き直り、リュウちゃんの方に体ごと振り向いて、こう言った。
――リュウちゃん、わたしと付き合ってくれる?
たとえ勢いと幼さの力を借りていたとしても、よくあの場であんなことを言えたものだと思う。その時のリュウちゃんの顔の、赤いことと言ったらなかった。あとで友達から聞いたことだけれど、わたしの顔も、負けじと真っ赤だったそうだ。 そしてリュウちゃんは、そんな赤い顔をゆっくりと縦に振ってくれた。それを確認してうれしくなったその後に、わたしはその腕白な男の子に向かってこう言ってやった。
うん、わたしたち、今から付き合うことにする。でも、キスはまだだよ。――応援してね。
不思議なことにそれ以降、みんなは何も言わなくなったし、わたしたちは何を言われても大丈夫になった。 リュウちゃんとわたしは手をつなぎ、毎日一緒に歩いて帰った。休みの日には一緒に遊び、宿題が出れば一緒にやった。……やってあげたといった方が、本当はいいのかもしれないけど。
その付き合いは中学二年の冬から、高校二年生の夏まで続いた。
三年間付き合ってみて、リュウちゃんにはあまりよくない部分があることを知った。
熱中すると周りが見えなくなるところ。ゲームのし過ぎで、デートに一時間遅れるほど。
努力がぜんぜん続かないところ。ラジオ体操にも、二日目で来なくなった。
自分に甘くて、辛くなると理由をつけてなんでもすぐにやめてしまうところ。高校のサッカー部を、たったの三か月でやめたくらい。
もてるからって、すぐ調子に乗るところ。そのくせわたしがほかの男子としゃべっていると、すぐに拗ねて、子供みたいに怒った。
付き合いが続くうちわたしはそんなリュウちゃんの存在がだんだん面倒になってきて、違う大学に進学する、と言ってやった。勉強嫌いなリュウちゃんには絶対に入れない、都会にある五年制大学。リュウちゃんは悲しそうに、そうか。と、ぽつりとつぶやいた。
それから一年。わたしは無事第一志望の大学に入り、リュウちゃんのことは思い出にしようと思って、勉強に励んでいた。実際、忙しく勉強してもついていけないほど、大学の講義は奥が深かった。相変わらず友達を作るのが下手なわたしだったけど、講義をしっかりと聞く姿勢が、教授には好かれていると思う。
そんなある冬の日のこと、思わぬ報せが来た。リュウちゃんが死んだと。
直接の死因は事故死だった。高校卒業時点で志望校に受かるレベルに達していなかったリュウちゃんは、浪人して予備校に通い、必死に勉強していたらしい。その時聞いた毎日の勉強時間は、わたしの三倍以上だった。
そのうちに、無理が祟ってリュウちゃんは風邪を引いた。でも、予備校は休まなかったらしい。風邪は悪化して、それでもリュウちゃんは勉強を止めなかった。理解できなかったことが理解できるのが楽しいからと、勉強をし続けた。
その挙句の事故死だった。模試の当日だったらしい。遺品の中に成績があったと、母親が教えてくれた。リュウちゃんは自己採点で、志望校のレベルに到達していた。 わたしはそれを聞いて泣いた。よく覚えのある校名。わたしの通っている大学の、わたしと同じ学部。
――わたしは、電車に飛び乗った。
リュウちゃんは白いベッドの上に力なく横たわっていた。
リュウちゃんがわたしと同じ大学を目指していたなんて知らなかった。
ベッドに横たわったリュウちゃんがもう二度と動かないことを、わたしは知っていた。
リュウちゃんのご両親が医師に呼ばれ、最後のお別れをしてね、と言い残して、霊安室を出た。
わたしはリュウちゃんにかかっていた布をめくって、リュウちゃんの顔をみた。
リュウちゃんはまるで、眠っているだけみたいだった。
一年前と人相が違う。当たり前だ。あんなに勉強嫌いだったリュウちゃんが、勉強好きになるほど勉強したのだ。あれほど努力が長続きしなかった、自分に甘かったリュウちゃんが、歯を食いしばって机にかじりついたのだ。これはきっとその結果なのだろう。 リュウちゃんの顔は無表情だ。怒ったり、笑ったり、あんなによく動いた表情が、今では凍り付いたように動かない。
死んだリュウちゃんの顔が記憶を映すスクリーンになって、わたしの中にあるリュウちゃんの多彩な表情が次々に投影されていく。
楽しい時の顔。リュウちゃんは、歌うことが好きだった。
うれしい時の顔。お菓子をあげた時が一番うれしそうだった。
怒った顔。あまりわたしに向けられたことはない。
泣いた顔、泣くとすぐに顔を背けるから、ちゃんと見たことは一度もない。
恥ずかしがってる顔。あの時みた赤い顔。
笑った顔。一番回数が多くて、一番好きな顔。
記憶の投影機が映写を止めると、そこに今まで見たこともない無表情のリュウちゃんが現れた。そうか。リュウちゃんの顔から表情が絶えたことなんてない。無表情のリュウちゃん。
沸き起こった衝動に無邪気に従い、わたしはそんなリュウちゃんに最後のキスをしてみた。唇の感触は思った以上に冷たく、固く乾いていて、これは死体なんだな、と、否応なくわたしを納得させる。
リュウちゃんの死を受け入れないなんてことは嫌だ。別れは辛いけど、必ず必要なことだ。これで、わたしはリュウちゃんを持っていける。そのまま、一人暮らしの部屋に帰った。母親から電話がかかってきていたけど、電源を切って全部無視した。
リュウちゃんが風邪を引いていたことを、わたしは知っていた。
熱は高いけど、頭ははっきりしている。咳は出るけど、息はしている。喉の痛みも、わたしは生きているんだって、つばを飲むたび教えてくれている気がした。
これはリュウちゃんがくれた風邪だ。リュウちゃんが勉強してやっと手に入れた風邪だ。わたしもこの風邪にかかれば、きっとこれからもっと頑張れる気がする。
今は辛くてもいい。今は悲しくてもいい。 今わたしは生きている。こうして風邪を引くこともできる。
でも、風邪はいつか治るだろう。リュウちゃんを失った悲しみも、いつか丸く柔らかくなって、わたしの大事な思い出になる。
なんでだろう。 なんで大事なもののことを、普段は忘れているんだろう。風邪を引いて初めて、普段の健康が大事だって思い出す。リュウちゃんを失って初めて、わたしの中でリュウちゃんがどんなに大きな存在だったか気づかされる。
どうしてだろう。 どうして人は、好きだという気持ちを、ほかのどうでもいいもので覆い隠してしまうのだろう。
わたしはまだリュウちゃんが好きだった。そんな気持ちに、リュウちゃんがいなくなってから気が付くなんて。
わたしの頭が枕に沈む。体は重く、熱はまだ高いままだ。でももうしばらくこのままでいたい。健康と愛の大切さを、身に染みて分からせてやりたいから。
わたしは風邪にもう少しだけ治らないで、と自分勝手なお願いをしてから、寝返りを打って眠りに入った。