逃亡
トロールも太く長い腕を大きく振り上げ、バルドの頭上に振り落とす。
ブンという風を切る音を立てながら振り下ろされる腕をバルドは紙一重でかわす。
空振りした腕は倒木を砕き、ズシンという音を立てて地面にめり込む。
振り下ろした風圧で、周りの木々の木の葉が舞い上がる。
バルドがよけずにまともに受け止めていたら、間違いなくペシャンコになっていただろう。
強力な一撃を放ったトロールは体のバランスを崩し、隙ができている。
強力な一撃だが、モーションが大きいのがバルドにとっては幸いだった。
頭ががら空きだ。
バルドはすかさず、持っている斧を2つ頭のトロールの1つに振り下ろした。
バルドの斧は勢いよく、まっすぐにトロールの頭に振り下ろされる。
決まった。
バルドは確実に致命的なダメージを与えたことを確信した。
しかし……。
ガン!
バルドの斧の刃はトロールの固い頭の表面で止まった
どうやら、頭の皮膚と骨が想像以上に頑丈のようだ。
トロールの頭は岩のように固い。
斧は、表面の皮膚を切り裂いただけで、分厚い頭蓋骨に阻まれ、脳に達しなかったようだ。
傷口からは大量の血が噴き出しているが、致命傷ではないようだ。
トロールは恐ろしい声で吠える。
血が流れ落ちる頭からギョロとした瞳がバルドとアドラーをにらみつけた。
その目は怒りに燃えていた。
「やばいな。アドラー早く逃げるぞ」
このまま戦っても勝ち目は薄いと悟ったバルドは素早く斧を納め、逃げる体勢をとった。
トロールは両手を広げ、怒りの咆哮を上げる。
トロールが発した咆哮がビリビリと空気を振動させ、アドラーの皮膚と心臓に響く。
その叫び声は、おそらく数キロ先まで響き渡っただろう。
暗く静かな森の中にトロールの怒り狂った咆哮が響き渡る。
怒り狂ったトロールの前で恐怖のせいで丸太のように硬直し、身動きができないアドラーをバルドは右肩に担ぎ、手でアドラーの足を持ち、全力で走る。
アドラーの頭はトロールのほうを向いている。
血だらけのトロールの形相が、この世の者とは思えないほど恐ろしい。
森の木をなぎ倒し、爆走するトロールとの距離はもうすぐそばまで迫っていた。
アドラーはもはや目を開けることができないほど、恐怖に襲われる。
もはやつかまった方がこの恐怖から逃れられ、楽になるんじゃないかと、馬鹿な考えが頭をよぎる。
あっという間にトロールの息づかいも聞こえるほどまで距離が縮まる。
トロールは、岩を蹴とばし、木々をなぎ倒し、倒木を砕きながら、まっすぐバルドとアドラーを捕まえようと爆走する。
アドラーの顔にも木の破片が飛んでくる。
トロールが謎の咆哮を叫びながら、手を伸ばし、アドラーをつかもうとする。
「ワン!ウ~。ワン!」
するとトロールがアドラーに手を伸ばすのと同時に、アドラーの右側から犬の咆哮が聞こえた。
ブルーノだ。
トロールはアドラーへ伸ばしながら、二つの顔をブルーノがいる方向に向けた。
ちょうど、よそ見した形だ。
トロールの指先がアドラーの前髪にかすめる。
目の前でバカでかい手が上から下へと通り過ぎた。
薄暗くとも傷だらけで、いぼがたくさんトロールの手が見えるほど、アドラーとの距離は近かった。
すれすれのところで、トロールの手が視界の上から下へと落ちていく。
トロールの強烈な体臭と血生臭いにおいが風圧と共に鼻に流れ込む。
空を切った太く長い腕は、そのまま地面へと音を立てめり込んだ。
バルドはアドラーを抱え、苦しそうに全力で走る。
もともと走るのは得意ではなさそうだ。
しかし、それはすぐ後ろにいたトロールも同じだった。
アドラーをぎりぎりでつかみ損ねたトロールは、急に戦意をなくしたのか、立ち止まる。
トロールがそれ以上、アドラーやバルドを追うことはなかった。
しかし、バルドはアドラーを抱え、苦しそうに走り続けた。
しばらく走り続けた後、バルドはふらふらし歩き、やがて立ち止まった。
「ゼイゼイ、もう、ゼイ、この辺で、ゼイ、いいだろう、ふ~」
バルドおじさんはアドラーを肩から降ろしながら、なんとか言葉を発した。
顔は真っ赤になり、額からはおびただしいほどの汗が噴き出る。
今にも呼吸困難で倒れそうなくらい、激しく呼吸を繰り返している。
「……ありがとう。バルドおじさん」
アドラーは呟くようにバルドに礼を言った。
体の芯はいまだに恐怖で固まったままだ。
バルドは中腰で顔を伏せたまま、膝についた右手をあげ、無言でそれにこたえる。
アドラーはバルドが苦しそうだったので、それ以上言葉はかけずにバルドが息を整えるのを待った。