ブルーノ
小鳥のさえずりが響き渡る昼の森とは、うって変わって夕暮れ時の森は、冷気が漂い、薄暗いうえに、しんと静まり返り、かなり不気味である。
今にも闇の中から何かが飛び出してくると思うと、足がすくむ。
アドラーはバルドにしがみつきながら歩いている。
先ほどの決意もどこかに吹き飛びそうなほど、夜の森は恐怖が覆っている。
「おい、そんなにくっつくな。歩きにくいだろうが」
バルドは身をピタリとくっつけてくるアドラーに注意した。
足場も悪い森の中でアドラーにしがみつかれていては、余計に歩きにくい。
「だって、夜の森なんて僕、入ったことなくて……」
「お前は男だろ」
「男も女も関係ないさ、それにまだ、僕、子供だよ」
反論だけは1人前だ。
とにかく、アドラーが何と言おうとこれでは前に進まない。
「いいから少し離れて歩け。斧が当たったら怪我するぞ」
「こんな怖い森、みんなが通れるわけないよ。みんな怖がって通ることなんてできないよ」
バルドはアドラーの言葉を吟味した。
確かに、家で一番年上のアドラーがこれだけ怖がる森だ。
もっと小さい者はきっと動けなくて移動どころではあるまい。
しかし……。
「もし、みんな、うちに来ていたお嬢ちゃんのように、半分意識を失った状態だったら?」
バルドは考えていた可能性をアドラーに伝えた。
「……」
アドラーは反論してこない。
思い当たることがあるのだろう。
暗闇の森の中で2人は五感をフルに働かせ、あたりに危険がないか注意を払い、奥へ進んでいく。
アドラーはビクビクしながらあたりに気を払う。
しかし、気を張りつめすぎるため、風の音にすら反応してしまう。
ささいな物音に反応してしまう自分が情けなかった。
森をすこし進んだところで、近くの茂みがガサガサと音を立てて大きく動いた。
何かいる。
バルドは素早く身構え、アドラーは素早くバルドの後ろに隠れた。
森にいる獣を思い返す。
バルドはこの茂みにいるのがオオカミの群れでないことを祈った。
オオカミのような集団で狩りを行うものは、まず幼い子供や怪我人、病人のような弱者を優先的に狙う。
とすれば、狙われるのは必然的に大きな体をしたバルドよりも、仕留めやすい華奢な体つきのアドラーに違いない。
バルドはアドラーを自分の体の後ろに隠し、ゆっくりと後退しながら、茂みから出てくる動物に対して距離をとる。
「出てくるなら、出てきやがれ」
バルドは音がする方に向かって一喝した。
バルドの咆哮が、夜の静かな森に響き渡る。
木の枝で休んでいた鳥たちは、驚いて一斉に空に飛んでいった。
アドラーはバルドのすごい迫力に身をすくませた。
このバルドはどんな野生動物よりも怖いのではないか?
茂みがゆれ、隠れていた動物が出てくる。
ぬっと顔を出したのはオオカミ……ではなく犬だった。
一瞬、アドラーはギョッとしたが、犬だと分かり少し落ち着きを取り戻した。
しかし、油断は禁物だ。
飢えた野犬も人間を襲う。
大きな体を持ち、堂々とした風格を備えている。
ぴんと空に向かった耳。小麦色に輝く短い毛並。
鼻の周辺が黒い毛色。
筋肉隆々の前足。
犬種はグレート・デーンだろうか?
アドラーが身構える中、突如バルドが大声を出した。
「なんだ、ブルーノじゃないか。今日の昼間から見ないと思っていたら、こんなところにいたのか」
さっきの迫力が嘘のように無邪気に喜んでいた。
身構えた斧を下ろし、両手を開いて大型犬に近づく。
犬の方も尻尾を激しく振り、喜びを表現している。
バルドの愛犬なのだろうか?とアドラーは推測した。
どうやら、この犬に襲われることはないはずだ。……たぶん。
バルドは出てきたブルーノと呼んだ犬にがっちりと抱擁したのち、わしゃわしゃと体中をなでまわす。
数時間ぶりなのに、まるで数年ぶりの再会を祝うかのような喜びようだ。
バルドは意外に情に厚い人間なのかもしれない。
「バ、バルドおじさん。その犬は?」
アドラーは恐る恐るバルドと犬に近づく。
「もちろん、俺の犬だ。見たことなかったか?名前はブルーノだ。かわいいだろ?」
かわいいかどうかと言われれば……かわいくない。
厳つい。
それが第一印象だ。
「すごい……大きいですね」
アドラーはとりあえず、ブルーノの見たままの印象を言った。
「けどな、こいつったら、生まれたときはこんなに小さかったんだぜ~」
バルドはデレデレしながら、両手の手のひらでお椀のような形を作った。
おそらく、両手に乗るくらいと表現したかったんだろう。
見た目が恐ろしく、気難しいと子供たちの間では有名だったバルドが、こんなに自分の愛犬にデレデレしている様子はアドラーにとっては意外で、なにか見てはいけないような物を見た気もした。
「……ところで、なんでこの森にバルドおじさんの犬がいるんですか?」
「うむ、それは俺も少し不思議な感じもするのだ。普段は一緒にしか森には入ることはないのに……何か興味がある獲物を追いかけたのだろうか?」
バルドはブルーノに話しかけるが、返答は帰ってこない。
「……そうですか。ところでそのブルーノはどうします?家に帰しますか?家に帰しましょう!」
「今から家に帰していたら、完全にお前の家族の後を追うのに後れをとってしまう。そうなったら困るのはお前さんだろ?ブルーノはこのまま連れていく。それにこいつは猟犬でもあるんだぜ」
出来れば、こんなに大きな体のブルーノはおっかないから自力で家に帰っていただきたかったが、仕方ない。ブルーノに襲われることは……たぶん……ないだろう。
アドラーは大型犬のブルーノに怯えながらも、バルドの傍を離れないようにした。
ブルーノを引き連れ、2人は夜の森を突き進む。
遠くでオオカミのような遠吠えが聞こえ、アドラーはすくみあがる。
恐怖に襲われたのと同時に、疑問も浮かぶ。
はたしてこんな森を129人の子供をつれ、のこのこ歩くだろうか?
いくらなんでも無謀ではないか?
暗く、足場の悪いこの森を。
森のオオカミに食料を提供しに行っているのと同じだ。
そこまで考えたとき、アドラーの脳裏にふっと悪い想像が浮かび上がった。
“パパは子供たちを森に捨てるつもりじゃないか?”
だとしたら何故だ?
僕たちがいい子にしていなかったせいだろうか?
それでパパは世話するのにうんざりしてしまって、子供たちを捨てに行ったのではないだろうか?
それとも、ほかに何か事情があるのだろうか?
その他の理由……。
アドラーはアンネが言っていたことを思い出していた。
アドラーは胸のうちの不安を聞いてもらいたくて、バルドおじさんに問いかけた。
「ねえ、バルドおじさん。どうしてパパはみんなを連れてこの森に入っていったのかな?」
「それは……あれだ。……引っ越し……だろ?」
バルドの返事はどこか歯に物が詰まったような、はっきりとしないものだった。
バルド自身、なにか別の可能性を考えているのだろうか。
「もし、引っ越しじゃないとしたら……どんなことだろう……?」
アドラーは一応、バルドの意見を聞いてみる。
「……馬鹿野郎。そんなもの、会ってから親父に直接教えてもらえ。そんなくだらないこと考えないで、どうやったらお前のパパと兄弟に会えるか考えやがれ」
バルドはアドラーが余計なことを考えていることに気づき、一喝した。
バルドは“大人の事情”を考えていただけあって、アドラーの質問に答えなかった。
アドラーはしゅんと身を縮め、変なことを考えてしまったことを反省する。
きっと大丈夫。きっと何事もなかったかのように、みんなと再会できる。
そう信じ、アドラーは歩を進めた。