消える
再び2人のもとに巨大な何者かが近づいているようだった。
振動は徐々に強さを増す。
「アドラー!走るんだ!」
バルドは何が迫ってきているか確認できていなかったが、とてつもなくやばい奴が迫ってきていることを感じ取り、アドラーに指示を出した。
バルドの掛け声と共に皆一斉に走り出した。
アドラーは走りながら後ろを振り返る。
大きく揺れる木々の上から、頭を三つ持った化け物がこちらをじっと見つめる6つの瞳が見えた。
アドラーの全身の皮膚が粟立つ。
背後から恐怖がアドラーの身体に絡みついてくる。
それらを振りほどくように、アドラーは全速力で走った。
背後から一歩ずつ三つ頭のトロールがちかづいてくるのを感じる。
木が折れ、倒れる音。
一歩踏み出すごとに地震のような振動。
それに伴い、砂埃が舞い上がり、周囲の石が飛び散る。
まるで、天から大きな岩でも落ちてきているかのようだった。
雷のようなおおきな唸り声。
周囲の空気をびりびりと響かせ、心臓にも音が伝わる。
最初に森で遭遇したトロールよりも体のサイズがはるかに大きいのは間違いない。
踏み出す一歩がとてつもなく広い。
まるで、自分たちが虫けらになったみたいだ。
三つ頭のトロールが一歩踏み出すごとに衝撃が地面を伝わり、体を突き上げる。
その振動と共に、アドラーの体の芯が恐怖で凍りつく。
後ろから、いつ巨大な手につかまれるかと考えるだけでも、身がすくみそうになる。
それでもなんとか走りつつけることができたのは、傍にブルーノがいたことと、小人のトトが、この場に似つかわしくない滑稽な格好でバルドのカバンに挟まっていたからだ。
トトはバルドが走るたびにベシベシとカバンに当たる音を立てながら、カバンから飛び出した下半身が上下に揺れている。
このシュールな状況で1人だけコミカルな光景だ。
アドラーたちは全力で走った。
頬は木の枝で切れ、血が滴り、お気に入りだった上着も泥や木の枝に引っかけ、ボロボロになっている。
しかし、そんなことに構っていられない。
アドラーは一心不乱に走る。
つかまれば命はない。
命をかけた鬼ごっこだ。
狩る方と狩られる方。
普段の生活では感じることのない自然界の掟だ。
狩る方は自分の命をつなぐため、狩られる方は自分の命を守るため走る。
自分達は自分を守るため走る。
頭に血が上り、普段考えないようなことが頭をよぎる。
目の前が真っ白になって、周りの景色どころか、目の前の道すらよく見えない。
もう一度、父親や兄弟に会うまで死ぬわけにはいかない。
しかし、そんなアドラーの願いもむなしく、トロールとの距離が広がるどころか、だんだん縮まってきている。
バルドもかなり息苦しそうだ。
バルドもアドラーも体力の限界だった。
つかまるのは時間の問題だろう。
死の足音はすぐ後ろまで迫ってきた。
もうダメだ。
アドラーは足を止めようとした。
そう思った時、どこからともなく、笛の音色が聞こえてきた。
美しい旋律がアドラーたちの周りを包み込むように優しく流れた。
華やかで優雅な旋律。
躍動するリズム。
興奮と鎮静作用を同時に引き起こす麻薬のような音色。
その音色には生き物のように、生気と熱量を感じた。
この音の響き、パパの笛の音色だ。
笛の音色を聴いて、思わず立ち止まりそうになる。
パパが家で笛を吹いてくれた幸福感に浸りたかった。
笛の音を聞いたとたんアドラーの中の恐怖心がすっかり洗い流されたようだった。
恐怖に覆われいた心が晴れ上がり、くじけかけた心がシャキッとした。
アドラーは背後のトロールの存在を忘れ、ひたすら走ることに集中した。
走れ、走れ。
全身の細胞がただひたすら走ることだけのための細胞になったかのように感じた。
アドラーの足は意識せずとも動く。
足取りが軽く、踏み出す一歩が大きい。
どんどん歩幅は大きくなり、目の前の景色が流れるようにすぎていく。
まるで自分の足で走っていないかのような感覚さえした。
パパ、どこにいるの?
アドラーは目の前の闇の中を必死に目を凝らしてみるが、森の漆黒の闇があるだけだった。
アドラーは父親や兄弟の影を追うように走り続ける。
疲れも忘れて走り続けた。
「アドラー!!」
背後から名前を呼ばれ、アドラーは、ハッと我に返る。
振り返ればバルドが顔をクシャクシャにして苦悶の表情を浮かべ、立ち止まっている。
呼吸困難のような息遣いで、顔からは滝のような汗が噴き出している。
バルドさんは何故止まっているんだ!
しかし、アドラーはすぐに状況の変化に気付く。
先ほどのとてつもなく大きなトロールの姿が見えなくなっていることに気がついた。
トロールの姿どころか、足音すら聞こえてこない。
「あれ……」