魔法を体験しよう
「運転も慣れて来ましたね~」
「真夜中ですから、そこまで車がないですね」
「急な飛び出しだけは気をつけないと~、猫ちゃんが飛び出して来ることもありますから~」
路上での運転にも慣れてきて、緊張も解れてきた。
「昼間走る時はまた今度にしましょ~」
とはいえ、本番は人通りと車が込み合う、夕方~夜の間の業務だろう。この時間帯の忙しさと道路状況をすぐに慣れるのはちょっと時間が掛かるだろう。
それと、その前に美癒ぴーにやってもらいたい事がある。
「あ~、あっちで~す」
「え?」
そういえば。って感じで気付いた美癒ぴー。トーコ様がフロントガラスに手をやってまで、指し示すところには人が手を挙げている。
マジですか。
みたいな雰囲気になったけど、タクシーのランプは『空車』を出していた。
少しぎこちなかったが、美癒ぴーはお客様のところで車を止める。
「えっと……」
「ドアを開けるのはそこですよ~」
トーコ様が戸惑う美癒ぴーを優しく教える。運転ばかりだったから、このような業務まで教える時間がなかった。ぶつけ本番でやらせるトーコ様ってわりと酷い。しかし、自分がいるからという自信があるからなのかな?
「やぁ、トーコ様」
「ど~も。お仕事ご苦労様で~す」
現在の時間は深夜の2時だ。とうに電車も深夜バスも営業を終えた時間帯だ。そんな時間にタクシーを利用するこのお客様は、トーコ様のお得意様であった。
「おや?トーコ様が助手席に?」
「はい~、新人さんですよ」
「は、初めまして!」
こんなこと、タクシーの運転手さんは言わないだろうなぁ。
お客様が後部座席に座って、
「美癒ぴー、ドア~」
「あ、もう一度で良いんですか?」
そう確認してからもう押している。反射というものだ。扉は閉まった。
「どちらまでですか?」
「○○駅まで頼むよ」
お客様は気を遣って駅名から伝えたが、
「ご自宅までですよね~。安心してくださ~い」
トーコ様に安心なんて言葉を使って欲しくないなぁ。
「美癒ぴー。私が案内するから~、指示通りに運転してね~」
「は、はい!」
「お言葉に甘えて、トーコ様にルートを決めてもらうとするよ」
そういうと、お客様はカバンを横に置いて。背を伸ばしながら、リラックスをしようとしていた。
「失礼するよ~」
「きゃっ!」
説明するのはまた今度という事なんだろう。トーコ様は自分の足に乗りかかりながら、"セーフティモード"があったボタンのところに手を伸ばす。よだれが、ズボンについちゃったんですけど。
ボタンの押す順番があってか、いくつものボタンを順々に押すとだ。
ガタンッ バババババババ
後部座席全体が奥へと倒れながらスライドし、完全なる平面となった。
「ええっ!?」
バックミラーでその変動ぶりを見て、驚き。振り向いて本当に確認してしまう。なんか、タクシーの形が変わっており、トランクの部分が膨れ上がって、ワゴン車のような造りへと変貌していく。
ボボォンッ
さらには天井も高くなって、後部座席はまるで小さな個室のように様変わりした。
「さてと」
慣れているようにお客様はカバンを、いつの間にか取り付けられていたフックにかけて、ゴロンと平面になった後部座席で寝転んだ。その動きに反応して、突如として毛布が現れて、お客様を包み込む。
「な、な、なんですか!?これ!」
「これは魔法ですよ~」
魔法ですけど、なんか違ってそうな事まで起きたんですけど。車の構造が変わりましたよ。
「"睡眠時間"というモードを起動しました~」
「す、睡眠時間……?」
『VALENZ TAXI』が持つ、魔法機能の一つ。
"睡眠時間"
お客様に心地よい安眠を約束するおもてなしサービス。ご利用するお客様の多くは、長い残業や酔いしれる飲み会を終えた人達ばかり。そんな状態でも明日はやってくる。
体に残る疲労と襲い掛かる睡魔をしっかりと癒すリラックス空間。
体をしっかりと寝かし、伸ばして眠ることができる。目的地に辿り着くまでに、8時間は睡眠をとっているだけのリラックス効果が出る。
「?何か良い香りが……それに音もどこからか聴こえる……?」
「むにゃ~」
急に美癒ぴーに来る、睡魔。まだ発進すらしていない状況だからいいのかな。
「良くない!なんですか、これ!」
自分の頬を2度叩いて、感じる睡魔を弾き飛ばす。さらに説明を求めるべく、トーコ様の頬も何度も叩きまくる美癒ぴー。
「むにゃ~」
「寝ないでください!トーコ様!なんですか、これは!?」
必死にやる。トーコ様の胸倉を掴んで、首がガクンガクンと揺らして、起きてもらうよう実力行使に出る。
「ふみゃ」
「トーコ様!起きてください!いつも寝てるじゃないですか!」
「あ~~、ほぉですね~」
トーコ様がとっても大きな欠伸をすると、
「!」
自分の中にあった疲れや緊張、怒り、睡魔、
「ふみゃ~~~~」
可愛い猫の鳴き声みたいな声で吸い込まれていく物は、美癒ぴーだけじゃなく、お客様のものまで。
「あっ……ああああ」
いつも眠っていた顔をしていたトーコ様が、起きる表情へと変わった。閉じていた瞼が開き、瞳は大きくて藍色の輝きを放っていた。
そして、垂れ流していたよだれが引っ込み、本当に。その格好らしい大人の、
「じゃ、お客様を案内しようか」
「と、と、トーコ様……?」
大人の社会人に相応しい威風が溢れていた。非常に真面目な表情を出し、前を向いていた。
「仕事よ。ほら、ウィンカー出して、車が来てないか確認して発進」
「は、はい!」
随分な変化に戸惑いながら、言われた通りに美癒ぴーは車を発進させる。トーコ様はカーナビを弄り、お客様の自宅までのルートを速やかに表示させる。
「カーナビは見ないで良いから、前をしっかり見なさい」
「はい!」
なんだろう、このトーコ様の変貌。"あだ名"に相応しい言葉遣い。
それとさっき感じた睡魔がなくなったし、むしろ、気持ち良く仕事に向き合えるんだけど。
一体何が起こったんだろ?トーコ様が何かしたよね?
「そこを左よ」
「はい!」
あとで聞いて良いのかな?トーコ様自身、癖のある人だって言っていたし。アッシ社長の言葉もあるから。
考えながらも、タクシーは順調に進んでいく。眠っているお客様を安心かつ安全にしている運転だった。寝ている人がいるのだから、お喋りをするわけにもいかない。
真剣に、お客様を目的地に連れて行く。
「その路地に入って」
「路地なんか初めて行きます」
「ゆっくりでいいのよ、真ん中走ってもここは大丈夫」
公道から夜に相応しい暗い路地に入り、アドバイス通り、道路の中央をゆっくりと走っていく。交差点では一時停止し、左右確認をしてから、ゆっくりと行く。ライトの光に映る猫を見るとビックリする。
路地の中でまた曲がり、辿り着いたのは4階建てのオートロックマンションがあるところであった。
「ここがお客様のご自宅よ」
「はい」
トーコ様は精算を始める。
「お客様。着きましたよ」
"睡眠時間"を起動させたように、ボタンをいくつも押しながら、お客様を起こそうと声をかけたが、ぐっすり眠っているのだろう。返事が無い。
「私、後部座席に行って、起こして来ますね」
「ありがと」
外に出て、本当に確認してみる。錯覚じゃない。タクシーの形がやっぱり変わっている。さらによく見れば、後部座席への扉がスライド方式に変わっている。これって魔法で片付く事なのかな?
なんら突っかかりを発生させずに開くドア。眠るお客様を揺すりながら、毛布を回収。そういえば、"睡眠時間"を起動させた時に流れていた音と、良い香りがパッタリと終わっている。
「お客様」
「ん……んんっー!着いているんだね」
ドンッとお客様の両手が天上に当たる。お客様の顔は、乗って来た時よりも凄くスッキリとした表情であり、動きも慣れだけじゃなく、元気が満ち溢れていた。
「いやぁ、良い運転だったね」
「あ、ありがとうございます」
なんであれ、誰かに感謝されると嬉しいことだね。
そして、トーコ様の言葉で
「お会計です。3万7000円です」
驚愕する。
「えええぇっ!?20分ぐらいしか走ってませんよ!?」
どんな計算を出しているのか、疑わしい金額であったが、お客様はなんら躊躇を見せず、それどころか感謝して財布を取り出した。
「はいはい。すぐ出すよー」
「え!?」
「美癒ぴー。このタクシー会社は魔法ばっかりなのよ。ただのタクシーとは違うの。邪魔になるから下がって」
お客様は福沢諭吉4枚を躊躇せず、トーコ様に出す。そして、野口英世を3枚渡される。
「また、お願いするよ」
「こちらこそ」
「あ、ありがとうございました!またご利用をお願いします!」
一礼して、お客様と別れる美癒ぴーとトーコ様であった。
そして、タクシーに乗りこんで聞いてみる。運転しているトーコ様にちょっと怒られそうな気もしたが、
「性格が変わってませんか、トーコ様」
「性格ってレベルじゃないわよ」
その質問をバッサリと切っちゃうトーコ様。その表情はビックリさせてやったという、してやったり感。ホントにこの人はなんなんだろう?
そんな疑問や秘密を、トーコ様は訊かれるまでもなく、ほんの少しだけ教えてくれる。
「私は誰かの夢の中で生きてられるの」