少年のある日(1)
物語の進行上、序盤は不明瞭な表現がところどころにありますが徐々に回収していきます。そこらも楽しみながら読んでいただけるとありがたいです。お付き合いよろしく。
や……大和タケル。は人なのか?まあいいか。
る……る……るー?……あっ、あの作曲家の人……超有名な……ファーストネームが出てこない……ん?外国の人たちは先につくのが名前でファーストネーム、じゃ日本人の苗字はどういう扱いなんだ?最初のラストネーム?うん。どうでもいいな。……えーと……るー、るーどお……。
そうだ、ルードヴィッヒバンベートベン。あ。
全く悔しくない失敗に、形だけの舌打ちを軽く入れる。顔を上げると、予想以上に時間がたっていることに驚いた。
6時限目も残り5分となり、周りの生徒は担当の阪木が提示した問題を必死になって取り組んでいる。
かく言う俺も生徒のうちの1人なのだがその手は止まり、無駄に働いているのは人名縛りしりとりを行う脳内だけだった。理由は単純に解けないから。そもそも携帯電話やパソコンの普及したこのご時世にノートでカリカリと計算しろという方がおかしいと思う。こうやって文句を垂らしながらも最終的に試験で平均点を取る俺はむしろ褒められるべきではないだろうか。そんなわけが無い。
頬杖をついて周りを眺めていく。運動部の者達だろうか、何人かの男子生徒が机に向かって伏しているのが見受けられる。高校2年の6月、この時期は後輩の存在にも慣れ始め、いよいよ部活真っ盛りといったところなのだろう。感想が客観的なのは俺が運動部に入っていないからだ。
こうして見ると起きている俺は幾分かマシなのではと錯覚してしまう。なるほど、さぼる人間を会社に入れると母集団の意識向上に繋がるというのは聞いたことがあったが、つまりは下の連中を見て心の平和を保とうということか。こうして切られていく社員は別に頑張りもしないけど安心しきってへらへらしている俺みたいな奴というわけね。未来設計がダークマター。
しかたない。俺の未来のためにも1問くらいは片づけようか。そう意気込んでゆっくりとシャ-ペンに手を伸ばし、掴む。
終業の鐘が鳴った。
俺は掴んだペンをそのまま筆箱に入れ、大きくあくびをした。はい、お疲れさまでしたー。
「おお、時間か。じゃあ明日解答してもらうから……瀬戸、準備しとけよ。そのままホームルーム入るからなー席立つなよー」
口を開けたまま固まっていると、数学教師兼担任の阪木と視線がぶつかる。ちなみに瀬戸とは俺のラストネームだ。どうやら俺がぼんやりとしていたのを見られていたらしい。にこりともしないぞあいつ。
最低限の用件だけ伝えた阪木は学級委員に号令を促す。つまり、これから放課後だということ。怠慢で縛られた学校生活から少しだけ自分の自由が戻ってくるという、小さな小さな幸福感を噛みしめる時。
しかし、俺の顔は明日の数学解答者指名を受けたとき同様、むしろそれ以上に白けた表情になっていただろう。実際はこれから会うあいつの前でどう振る舞うべきかを考えて、途方に暮れているだけなのだが。ここ2週間、毎日この感覚が沸き上がってくる。全く自分が女々しいったらありゃしない。
「れーんー君っ!」
「いでえッ」
ほとんどのクラスメイトが席を立ち部活なり帰宅なりと流れていくのを、座って眺めていた俺の後頭部がぼごっという音とともに何かに殴られた。
油断していると殴られるとか、慰安悪すぎだろこの教室。誰だ、こんな意味のないことしてくる奴は。心当たりなんて一人しかいないぞ。
「……なんだよ千夏」
振り向けば案の定、千夏が眉を吊り上げながら笑みを浮かべるというなかなかテクニカルな表情で仁王立ちしていた。凶器と化した学生かばんをぶんぶんと回すたびに、短い黒髪のサイドテールが合わせて跳ねる。
「私、怒ってるよ!」
「は?なんで?」
素で驚いてしまった。ここは俺が怒る場面だろ。混乱するから提供したポジションを横領していかないでくれ。
「私たちは花の高校生だよ!ぼーっとして無駄に過ごす時間なんてないの!」
どうやらホームルームの様子を見られていたらしい。背後からのバックアタックも、もしかして彼女なりの励ましなのだろうか。……こいつはそんなこと考えていない。経験則。
「笑いながら怒ってるとか言われてもな……」
「いやいや。ただでさえ顔のパーツがつまんない蓮君がつまんない表情してるんだよ?こっちが笑顔じゃないと雰囲気までつまんなくなっちゃうよ!」
おうおう。容赦なくえぐってくるなあ。ちょっぴり泣きそう。
ニコニコと言葉のデットボールをかましてくるこの少女は定禅寺 千夏。俺の幼馴染で、ほとんど家族同然の存在だ。こんな身勝手なこじつけを許せるのも、長年築いた関係の賜物だろう。……嘘です。今すぐぶっ飛ばしてぇ。
「しけた面してる蓮麻が悪いぜ。なんかあったのか?」
俺の肩を叩く長身茶髪の男は矢渕 譲司。成績は中の上と言ったところだが、運動競技に関しては右に出る者のいない体育会系野郎。走ればトップ、跳べば記録更新。高校から始めたバスケットもすでにレギュラー入りを果たしている超人ぶり。これで性格が悪ければ来世にわたって呪ってやるのに、残念ながら手出しができない。つまり良いやつってことだ。
そして譲司の後ろで無表情に突っ立っている女生徒は矢渕 葵。黒髪のボブカットで小柄な体躯は正直なところ小学生でも通用すると思う。それでいて感情を表に出さないから距離感の掴みづらい奴だ。
葵は俺と目が合うと、ふらりふらりと近づいてきて無気力な口調で言葉を紡いだ。
「何か困ってるなら言って。力になるから」
……本当に良い奴なんだよな。こいつも。少しでも口角上げれば周りの印象が変わると思うが。
それにしても過剰に心配されている気がする。
「なあ。俺ってそんな陰気臭かったか?」
「私は何も感じないけど、千夏ちゃんが様子おかしいって」
「あおちー!それは言わない約束だぜー!」
葵に飛びつく千夏のテンションの高さに呆れつつ、俺はゆっくりと立ち上がる。呆れていたはずなのに、不思議と笑顔になっていた。
「心配ねえよ。いつも通りだ」
ちなみに外見は全く似ていないが苗字から察せる通り、譲司と葵は双子である。
この4人でいるようになった経緯としては1年の時に俺と譲司、千夏と葵がそれぞれ同じクラスで意気投合し、そこから俺と千夏の絡み経由より4人で行動するようになった感じだ。
2年に進級した今年度は偶然にも4人とも同じクラスとなり、より一層行動を共にするようになっている。
廊下に出ると、生徒が俺たちの道を開けている気がして少し居心地が悪い。しかし彼らが注目してしまうのは無理もないと思う。
なんせ俺はともかく、学年でも噂になる高ギャップ双子と若干変人扱いされている少女が一緒にいるのだから。良くも悪くも目立つ存在だろう。
こんなグループに進んで絡んでくる人物なんてせいぜい………
「あら奇遇ね。こんにちは」
……話に挙げれば現れる。油断も隙もあったものじゃない。
ニコニコと近づいてくる女生徒を一瞥して、俺は露骨に苦い顔をする。そんなことをしてもこの人は喜ぶだけだけど。
「うっす」
「こんにちは」
「……むぅ」
他のメンツの言葉を軽い会釈で流していく。千夏のあからさまな睨みにも無反応という徹底ぶりだ。
そして標的である俺の元まで来ると妖艶な笑みで見下ろしてきた。スレンダーな体つきの彼女は同世代の男子平均身長を優に超えている。俺は、その、頑張る。
「あら。挨拶されたらきちんと返しましょうって習わなかった?」
「怪しい人に話しかけられたら反応しちゃいけないと習いました」
「つまり、身の潔白を証明すれば良いのかしら。瀬戸君なら私の全てをさらけ出していいわよ?」
「ほかの生徒がいる前で堂々と口説いてくんなよ。生徒会長だろアンタ」
「珍しく積極的じゃない。その言葉、2人きりなら構わないってことよね」
学校の代表とは思えない台詞を次々と吐き出すこの女子生徒は現生徒会長の鶴沢 美雪。ポジティブな変態ほど手に余る者はいない。その典型的な例だ。
俺がだんまりを決め込むと、鶴沢がごく自然な調子で俺の頬に手を添えようとしてきた。
「!?」
意外な行動をされて、俺の体は反応できない。
しかし頬に触れる直前の手は、割り込んできた千夏に遮られた。
「……ちょっと、やめてもらえますかー」
「ふふっ、何を?」
「そーゆーのって不純異性交遊だとおもいますっ」
「レディの誘いに乗らないヘタレ君の方が紳士としてはよほど不正だと思うのよね。そう思わない、瀬戸君?」
「俺に振るな」
「そーゆーこと言ってるんじゃないですっ!」
こんなふうに千夏と鶴沢は会うたび衝突している。犬猿の仲といった感じなのだろうが、客観視すると千夏が一方的にあしらわれているようにしか見えない。
鶴沢は今にも跳びかかろうとする千夏に対して、満足そうに微笑んだ。
「あなたたちは本当にからかい甲斐があるわね。それじゃあ今日はこれくらいでお暇しましょうか。矢渕さん、本日の生徒会は会議室で行いますから。ついてきなさい」
「はい」
颯爽と去っていく鶴沢の後を葵が追う。いつの間にか生徒会長の脇にはがっちりとした肉体の男子生徒が音もなく現れていた。忍者かよ。
葵があんな奴らと一緒にいることに不安を覚えている間に、廊下の喧騒が息を吹き返した。逆に先ほどまで周りが静かになるほどに注目されていたのかと今更ながら気付く。
譲司は千夏が鶴沢の背中に向けてシャーッと威嚇する様子をおかしそうに笑っていた。
「以前にも増して絡まれるようになったな蓮麻。なんかあったのか?」
「お前はなんで楽しそうなんだよ……」
「おいおい、学校のマドンナに話しかけられるなんて全校生徒憧れのシチュエーションだぜ。生意気な野郎だなコイツは!」
「っ!……苦しぃ!ヘッドロックやめろ!!」
「お。軽くやったつもりだったが。悪りい悪りい」
譲司は自身の肉体成長度と真剣に向き合うべきだと本気で思う。こいつがじゃれてくると、時々冗談抜きで命の危険を感じてドキドキが止まらない。………え?もしかして、これが、コイ?ふざけんな。故意だったら裁判沙汰だぞ。
「けどよ、真面目な話。あんな毛嫌いすることないんじゃないか?押しが強いとはいえ相手は女子だろ」
「知らねえからそんなこと言えるんだよ。あの人の裏の顔見たら絶対引くぞ」
「俺しか知らない鶴沢先輩の一面ってか。ちっ、結局のろけかよ」
「言ってろ。それよりもう部活だろ。行かなくていいのか?」
「おう、そうだな。じゃっまた明日な、モテ男くん」
「嫌味にしか聞こえねーよ。じゃあな」
譲司を見送った俺は、生徒会長の軌跡に向けて威嚇を続けている幼馴染の頭をはたく。
「いつまでやってんだお前は」
首が取れんばかりの勢いで振り向く千夏はジトッとした目でこちらを睨んできた。
「むー、蓮君も鼻の下伸ばしてないでよ!最近の蓮君はロリとかお姉さん属性とかオールラウンドすぎる!」
「伸ばしてないし、そんなにさかってもいねえよ。俺はもう部活行くぞ」
「あっ、私も新聞部に顔出さなきゃいけないんだった!またね蓮君!」
「ああ、またな」
毎度のことだがコロコロと表情の変わる奴だ。実を言えば俺は千夏のそんなところが結構気に入っているし、時々羨ましくもなる。
少し見習ってみた。
よりクールで冷静な自分をイメージして体現する………。
……よし、何も変わってないな。どうも練習が必要らしい。せめてあいつの前では理想の自分でありたいものだ。今更だが。
「……行くか」