9:過去のトラウマは剥がれない!
それからも、菖蒲の家の中での生活は続いた。
菖蒲が用意してくれる着物も、徐々に一人で着替えられるようになってきている。
ところで、私は菖蒲が働くところを見たことがない。いつも彼は家にいるのだ。
本を読んでいるか、昼寝しているか、私を構っていて……隠居後の年寄りのような生活をしている。たまに邸の外へ出て行っても、すぐに戻ってくるし。
私の方も引き蘢り生活を続けていた。
家からは出られないし、することもない。引き蘢り場所が自宅から菖蒲の家に移っただけである。
退屈な時は、菖蒲から借りた本を読んでいる。菖蒲は沢山の書物を持っていた。彼も暇なのだろう。
今日は満月だ。風呂場の窓から大きな月が見えた。
早いもので、私が菖蒲に出会ってから半月が経過している。つまり、自殺実行期間が半月も延長になっているということだ。
けれど……
菖蒲といるようになって、私は不思議と自分の中の死にたいという願望が薄くなってきているのに気が付いた。
菖蒲は私の苦手なイケメンだけれど、私を無視しないし、拒絶もしないのだ。それどころか、一日に何度も理由をつけては私に構ってくる。
勝手な話だが、彼と接していると自分が必要とされているような気になってしまうのだ。
「私は、ここにいても良いのかな。必要とされているのかな……いや、おめでたい錯覚だよね」
風呂から上がった私は、菖蒲を呼びに行く。
彼は部屋にいて、開け放たれた窓から満月を眺めていた。金色の目が月の光を反射して妖しく光っている。
「菖蒲さん、お風呂空きました……」
「薊、おいで?」
呼ばれて手招きされるままに、私は彼の隣に腰を下ろした。
「……ねえ、薊。まだ、私のお嫁さんになるのは嫌?」
「また、その話ですか? 私は菖蒲さんのことをよく知りませんし……」
「知ったら結婚してくれるの?」
「どうして、そんなに私を嫁にしたいのですか? 雨が降ったからって……私で妥協をするのはやめましょうよ」
こんなにイケメンなのに。家もお金持ちそうなのに。彼が私を選ぶ理由がない。
※
私にはイケメンに対するトラウマがある。それは、高校での出来事が未だに尾を引いているからだ。
かつて、高校のクラスで孤立している私に対して優しく接してくれる一人の男子生徒がいた。
同じクラスの、椎という名前のイケメン男子。
椎はイケメンの例に漏れずクラスの中心的な存在で、同じくイケメンで発言力の強い男子生徒達とつるんでいた。
そして、彼は私のご近所さんでもある。母親同士はとても仲が良かった。
「ねえ、放課後話があるんだけど。ちょっと校舎裏の体育倉庫まで来てくれない?」
ある日、不意に告げられた彼の言葉に素顔に従ったあの頃の自分を殴ってやりたい。
悩み事の相談か、あわよくば告白されるかもしれないと思って私は舞い上がっていた。もっと自分の身の程を知るべきだったのに。
高校の校舎裏は薄暗く、人通りが少ない。その場所にある体育倉庫もほぼ使われていない状態だった。
普段は閉まっている倉庫がその日は空いてたので、私は約束通りに中に入り椎を探す。体育倉庫の中の積み上げられたマットレスの上に、椎はいた。
「あはは、マジで来たんだ。ちょっと優しく接しただけでノコノコと一人でこんな場所まで来るなんて、馬鹿な女」
「え……?」
突然、椎の口から放たれた言葉に私は硬直する。言われている意味が分からなかった。
「俺に告白されるとでも思った? んな訳ねーだろ、お前みたいなブスで嫌われ者の女に惚れる奴なんていねえよ!」
親切なはずの彼の言葉が信じられなくて、私は呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。
気が付けば、私のすぐ近くに椎が立っていた。
「身の程知らずのブスでも使い道はあるからな。有効活用してやろうと思って呼び出したんだ」
そう言って、椎は私をマットレスの方に突き飛ばした。白いチョークの残りかすと、積もった埃が同時に舞う。
「鈍臭えなあ」
いつもの彼とは違う、まるでガラクタでも見るような目で椎は私を見た。私は恐怖のあまり、声も出せない。
椎は乱暴に私をマットの上に押さえつけ、制服の中に手を入れる。
「……っ! やめて!」
「黙れよ、ブス」
そう言って椎は私の腹を強く殴った。鳩尾を強打された私は、その衝撃で気分が悪くなる。言葉以上に物理攻撃は効くのだ。私は恐怖で声が出なくなった。
けれど、それと同時に、このままではいけないと強く思った。
確かに、私はブスで身の程知らずだけれど、だからといってして良いことと悪いことがある。
押さえつけられた手を必死に動かして、捲られたスカートから出る足で椎を蹴り付けて、私は体育倉庫から逃げ出した。
泣きながら近くの女子トイレで服をなおして、家に走った。事が事だけに、教師に相談ができなかったのだ。
この学校には、事なかれ主義の頼りない教師しかおらず、私は彼等を信用していない。帰って両親に相談するつもりだった。
「お父さん、お母さん!」
家に入って、開口一番に私は両親を呼んだ。
「どうした、今日は遅かったんだな。部活動もしていないのに、どこで遊んできたんだ」
「今日は、菜々子がバレーボールの中学選抜に選ばれたからお祝いをするって言っていたでしょう」
家はお祝いムード一色だった……
そこに水を差すのは悪いと思ったけれど、自分の身に起こったことを両親に知ってもらいたくて、私は放課後に椎にされた事を彼等に話した。
「あの、実は」
「後にしてくれる? ご飯の準備があるから。あ、冷蔵庫からケーキ出してきて」
妹のお祝いパーティーという名の夕食の間中、出る話題は妹がいかにすごいかということだけだった。
ようやく家族に話ができたのは、お祝いパーティーの後片付けが済んだ後だ。
しかし、現実は私が思っていたよりも厳しかった。
「椎君がそんなことするわけないじゃない。あそこのお母さんはちゃんとした人だし……どうせ、あなたが勝手に転んだんでしょう? また変な事を言って」
「部活もせずに、フラフラしているからだ。大体、椎君みたいなイケメンなら相手に困らないだろう。何も、お前を選ばなくても……」
「そうそう、明日は土曜だけど菜々子の練習について行くから、昼ご飯は勝手に作って食べてね。もうそんな話をしちゃ駄目よ、変な子だって思われちゃうし、椎君にも悪いわ」
両親共に私の話を信用せず、全く相手にしてくれない。
味方だと思っていた家族に信じてもらえなかった私は、空虚な気持ちになった。
翌週、教室に行ったらいつもとは違う異様な雰囲気がした。
「あいつ、椎に告白したんだって?」
「しかも体育倉庫で脱いで誘惑だとよ。何考えてんだ?」
「マジか、キモイな! 目つきの悪いブスのくせによくやるよな。てか、椎は同情してあいつに話しかけてやっていただけなのに、何勘違いしているんだか」
椎は自分の周囲に嘘を振りまいていた。彼が勝手に流した噂が一人歩きする。
私はその場にいることができず、学校を飛び出した。
そこからは、不登校の引き蘢り生活だ。両親に叱られても、妹に蔑まれても高校に通う事はできなかった。私が自殺を決意する三ヶ月前の出来事である。
だから、私はイケメンの告白が怖い。また自分が傷つくのが分かっているから。
しかも、今度の相手は小さい時から親同士の交流があった相手ではなく、迷い込んだ不思議な場所の住人だ。
「椎よりもイケメンだし……」
今の菖蒲は、天狐の風習で私を嫁として受け入れようとしているのかもしれない。
けれど、きっといつか嫌になって後悔するはずだ。私みたいな根暗ブスを娶った事を。
だから、菖蒲の言葉を鵜呑みにしてはいけない。私は身の程を弁えなければいけない。
椎の言葉が、楔のように私の心の奥底に突き刺さっているうちは。