4:不可思議な牢獄!
ロープを没収した菖蒲は、代わりに女物の着替えと小物類を用意してくれた。
手渡されたのは、団栗色のシンプルな着物だが、しっかりとした生地で重量もあるものだ。
昨日の旅館用浴衣とは違って本格的な着物だけれど……誰のものなのだろうか? まあいいか、菖蒲がそれを着ろと言っているのだから。
しかし、受け取った着物を着るに当たり、重要な問題が浮上した。
「すみません、菖蒲さん。私、着物を着たことがないので、着方を教えていただけますか?」
着物の国である日本に生まれながら、お恥ずかしいことだけれど……私はただの高校生。今まで、こんな風に着物にお目にかかる機会がなかったし、着る機会もなかった。普段着は、主にシャツとデニムである。
そんな私を見た菖蒲が、口元に妖艶な笑みを浮かべた。見ているとぞわりと鳥肌の立つような、恐ろしい中にも色気を含んだ笑みだった。
「手伝うよ、着せてあげる」
「え……!?」
断る間もなく、着物を手にした菖蒲に、私はあれよあれよという間に着替えさせられる。気が付けば、綺麗な着物を身に纏った中身の冴えない女が、部屋の鏡に映っていた。
菖蒲の手伝いもあって、なんとか着ることができた着物の帯には、可愛らしい真っ赤な紅葉が描かれている。菖蒲は肩下まである私の黒髪を器用に結い上げ、小さな紅葉の簪まで刺してくれた。
「……ありがとうございます」
「よく似合っているよ。着替えはいつでも手伝うから言って」
「はい……」
とは言うものの、男の人に着付けを手伝ってもらうのはかなり気恥ずかしい。早く、一人で着物を着られるようにならなければと思う。
洋服があれば楽なのだが、菖蒲も着物を着ていることから、ここでは和服が普通なのかもしれない。
※
自殺計画を諦めた訳ではないが、現状、実行は不可能そうである。
あの後も家からの脱走を試みたのだが、抜け出そうとすると何故かぐるぐると邸の中を彷徨う羽目になり、不機嫌な表情の菖蒲と遭遇してしまうのだ。
イケメンの不機嫌な顔は、それだけで脅威である。
「菖蒲さん……」
廊下で出会った菖蒲に、私は気になっていたことを申し出てみた。
彼の不機嫌を逸らすのと、しばらくこの場所に滞在するにあたり、引き換えになるものを提案するのが目的である。
「どうかしたの、薊? あの縄は、返さないよ?」
「そうじゃなくて……何か、お手伝いすることはありませんか? 湯沸かしも、食事を作るのも一人だと大変でしょう?」
「……え?」
菖蒲は、何故か戸惑ったような表情を見せる。自殺に関係のない話が、意外だったのだろうか。それとも、単に完璧主義で、他人に余計な手伝いをされたくないタイプなのだろうか。
「勿論、無理にとは言いません。私、家事は人並みにしかできないですし……」
よく考えると、私にあんな完璧な料理は作れない。余計な口を挟むべきではないだろう。ああ、なんて気が効かない……だから、私は駄目なのだ、妹と違って。
自己嫌悪に陥り、思わずその場で俯いてしまう。
「なら、薊には、私の話し相手になってもらおうかな」
菖蒲は、少し屈んで私に目線を合わせると、にっこりと笑って言った。艶やかで、屈託のない笑みだった。
私なんかに向けるには、勿体ない笑顔——
そう思いながらも、私は取り繕うように会話を進めた。
「……それは、お手伝いとは言いませんよ」
「昨日も言ったけれど、この邸には私以外、誰も住んでいないから暇なんだ」
仕事は? と聞きかけて、私は慌てて口を噤んだ。
世の中には複雑な事情を持つ人もいる。もし、菖蒲が失業者だったら、余計な傷を抉ってしまう恐れもある。今度は、口に出す前に気が付いて良かった。
「分かりました」
私は余計なことは言わずに、その一言だけを菖蒲に返す。
「それじゃあ、朝食を食べたら私の部屋へ行こう」
「はい」
とても不思議なことに、私達が座敷に着くと朝食は既にできていた。
焼き魚に野菜の煮物、お漬け物……お味噌汁の入ったお椀の蓋を開けると、湯気が立ちのぼっている。御櫃に入ったご飯も同様だ。
「菖蒲さん……さっきまで私の部屋にいました、よね?」
「そうだね」
彼は、いつの間に朝食を作ったのだろうか。やはり、お手伝いさんがいる説が強そうである。だから、菖蒲は私の「お手伝い」を断ったのだろう……
朝食は、文句のつけようがないほど美味しかった。黙って黙々と食事をしていると、金色の目を細めた菖蒲がじっと私を見つめてくる。
「……何ですか?」
「ふふ……美味しそうに食べるなあと思って」
食い意地が、張っているということだろうか……
菖蒲の言葉に、徐々に顔が熱くなっていくのが分かる。余所のお宅で、行儀の悪い真似をしてしまった。
とりあえず、一旦箸を置いた私は、真っ赤な顔を誤摩化そうと菖蒲に質問を投げかける。
「ここは何県なのですか? このお家には、通いのお手伝いさんがいるのですか? 一度、この家の外に出たいのですが…………そんな目で見ないでください」
外の話をした途端、菖蒲の目に剣呑な光が宿る。
この話題は、彼にとっての鬼門のようだ。
「私の方も、薊に質問したいことがある。君はどこから来たの? 何歳? 未婚だよね?」
ワザとなのか気にしていないのか。菖蒲は、またこの場所のことを答えてくれない。それどころか、逆に質問仕返してくる始末だ。
最後の「未婚」という質問の意味が分からない。見れば分かるだろうに……
「出身地は伏せたいのですが……樹海でピクニックをしていたら、菖蒲さんに出会いました。年は十六歳。未婚です」
「ああ、あそこから来たんだ。ああいう不安定な場所って、こっちと繋がりやすいんだよね……急に雨が降ったから何事かと思ったけれど、行ってみて正解だった」
「菖蒲さん?」
ぶつぶつと呟く菖蒲の言葉の意味がよく分からず、私は彼に聞き返してみた。
しかし、彼がそれに答えてくれそうな気配はない。
「……こっちの話だから、薊は気にしないで。十六歳、未婚、探し人なし……か。年よりも幼く見えるね」
「……童顔は、気にしているんです」
「ああ、ごめん。でも、薊の顔は可愛いよ」
出た。イケメンのすぐに「可愛い」と連呼する攻撃。彼等の「可愛い」に意味はない。きっと呼吸のようなものなのだ。
菖蒲は悪い人ではなさそうだけれど、私はイケメン全般が苦手である。よって、彼の言う「可愛い」も、真に受けない。
自分の身の程は、自分が一番良く知っている——
「それで、菖蒲さん。ここは一体どこですか?」
強引に話を元に戻し、私は彼を問いつめる。
「……そうそう、私の部屋は庭に面しているから、外の景色が見られるよ?」
ワザとか、ワザとなのか!? 菖蒲には、この場所の詳細を答える気が全くなさそうに見える。
「……もういいです。どうせ、私は引き蘢りの自殺志願者ですからね。菖蒲さんが、しばらくここに滞在させてくれると言うのなら……お世話になります」
結局、のらりくらりと質問を躱し続けた菖蒲の所為で、「狭間」という地名以外の情報は何一つ分からないままだった。