1:そうだ、樹海へ行こう!
樹海に、足を踏み入れる——
鬱蒼と茂る深海は、驚くほど静かだ。
風にそよぐ木々の音、木々の隙間に身を隠す鳥達の声以外は何も聞こえない。
手に持った方位磁石を見ると、東の方角を指し示している。
「……まだ、正常に動くみたいだね。もっと奥に進まなきゃ」
私は、近所の大型量販店で買ったナップザックを背負い、森の奥を目指した。
人の通らない森の中は、予想以上に歩きにくい。買ったばかりのスニーカーの紐はすぐに解けるし、地面から顔を出す木の根に何度も足を取られた。
もっと、もっと奥へ——最奥へ
二度と戻れないくらい、誰にも見つからないくらい遠くへ——
ナイロン素材の上着のポケットから、買ったばかりのスマホを取り出すが電波がない。
「もう、使い物にならないな……それにしても、まさか誰からも連絡が来ないとは」
無断で家を出てから半日以上が経過しているはずだが、メッセージの件数は未だゼロのままだ。
誰一人として、私には電話も、メールもくれなかったらしい。
「——お似合いの最後だな」
私は、ずっと一人だった。
住む家はあった。家族と呼べる人間もいた。けれど、それだけだ。
学校という集団生活の場に、私は上手く馴染むことができなかった。
保身から適当な仲間と適当な会話をしていたが、私は彼女達が大好きなアイドルにもお笑い芸人にも興味はない。
心の中はいつも空虚で……何も考えずに会話に相づちを打つのみだった。
きっと、そんな内面が周囲に透けて見えていたのだろう。
そのうち、私は孤立した——
他にも色々なことが重なり……私が、不登校になるのに時間は掛からなかった。
けれど……家の中でも私の居場所はなかった。
要領の悪い私とは似ても似つかない、愛される妹が家族の中心だったからだ。
「菜々子は、姉の薊と違って、明るいからいい」
「薊は、何を考えているのか分からない。折角合格した高校も休んで……」
妹は、私とは違って社交的で友人も沢山いた。
姉妹だというのに……妹は私より顔も可愛いし、スタイルもいい。不良遺伝子の塊である私とは、大違いなのだ。
両親は、そんな妹を可愛がった。妹もそれを分かっていた。
そこに、私の居場所なんてなかった——
だから、私は消えるのだ。この幸せな家族という絵の中に私は不釣り合いだと思うし、そんな場所に空気として一緒にいるのは辛かった。
私は潔く荷物をまとめ、全財産を持って自殺名所として有名な樹海に向かう。
近所で死ぬのはちょっと嫌だったのだ。できれば、なるべく誰にも迷惑の掛からない形で、ひっそりと消え去りたい。
その場所のことは、ネットのホラーサイトで知った。
電車を乗り継ぎ、タクシーで移動し、そこからは歩いて歩いて歩いて——
ついに、樹海の入口へと辿り着く。
「もっと早く来れば良かったんだ」
樹海は思ったよりも美しい場所だった。それに、とても静かだ。
徐々に日が射さなくなる木の根道をザクザクと進み、斜面の上り下りを繰り返しているうちに方位磁石がくるくると回り出す。ついに、地場が狂ったのだ。
どうせなら、このまま行くところまで行ってやろう。
私は樹海の最奥を目指すことにする。
※
どれだけ森の中を進んだのだろう。日が暮れて、樹海の闇が深まった。虫の鳴き声が聞こえる。
私は近くにあった大きな木の幹に寄りかかった。だいぶ、遠くまで来たようだ。
「誰か、メールくれたかな……もう届かないけど。いいよね、私がいなくなっても誰も困らないし」
今夜はここで眠ろうと決めた私は、大きく伸びをする。
「ん?」
伸ばした手に、なにか柔らかい物が引っかかった。気になって引っ張ってみると、ビリリと音を立ててそれが千切れる。なんだろう。
ナップザックの中から懐中電灯を取り出す。樹海歩きに必要な荷物一式は用意していた。自分の納得のいく最後を飾るためには、準備も必要なのだ。
懐中電灯のスイッチをオンにして照らしてみると、白い布切れが見えた。
「誰か、ここを通った人がいるのかな?」
何の気なしに木の上を照らしてみた私は、その瞬間後悔した。
枝に、白いロープが結んであったのだ。ロープは朽ちて変色していた。
「ひっ……!!」
慌てて立ち上がり、懐中電灯で周囲を照らすが死体らしきものはない。
自殺失敗……もしくは既に土に帰ってしまったのだろう。
自分だって同じ道をたどるつもりだったのに、なんだか気味が悪くなった私は、寝る場所を変えることにする。
さっきまでの遠足気分とは一変して、森は私にとって不気味な場所になった。
「人骨があったら嫌だな……」
トボトボと先へ進む。夜の樹海は、暗くて懐中電灯の灯りだけでは心許ない。足下に注意しながらゆっくりと進む。あまり距離は稼げなさそうだ。
闇の中をしばらく歩いていると、開けた斜面に出てしまった。
上を見上げると、都会の空では見られない満点の星が輝いていた。
今日は星を見ながら眠ろう。開けた場所なら、きっと怖くない。
ナップザックを取り出して最後の晩餐を食べると、私は引きずられるようにして眠りに落ちた。
※
目が覚めたのは昼だった。
再び森に入り、樹海の更に奥を目指す。とはいえ、方角はもう分からない。
ひたすら足を進めるのみだ。
歩き続けていると、私は森の奥深くに不思議な景色を見つけた。規則的に並ぶ尖った形の石碑だ。
「……こんな奥まで、人が来たことがあるのか」
何の気なしに石碑に触れてみる。
すると——
周囲の景色が一変した。
※
「なに、ここ!?」
ものすごい数の真っ赤な鳥居が、山の斜面に沿ってまっすぐに並んでいる。
その周囲を、金色の葉をつけたイチョウの木々が取り囲んでいた。
空を見上げれば、恐ろしいほど濃い夕焼け色に染まっている。
「どうなっているの? ……ここは、どこ!?」
まだ何もしていないのに、天国に来てしまったのだろうか。いや、自殺だから地獄行きなのだろうか。
禍々しい雰囲気はないけれど、不思議な場所だ。
私は、何かに引き寄せられるかのように、恐る恐る鳥居の奥へと足を進める。
周囲は無音だった。異世界へ迷い込んだかのようだ。
見たことのない真っ白な蝶が目の前を横切り、私を案内するかのように鳥居の中を舞う。
「ここまで来たら、進むしかないよね」
意を決した私は、蝶の後を追うように鳥居の中を進んだ。
真っ赤な世界をひたすら歩いていると、ポツポツと雨が降ってくる。鳥居の隙間から見える空は赤いのに、雨は止まなくて……
それは異様な光景だった——
目を離した隙に、蝶はいなくなっていた。雨に濡れない場所へ避難したのだろう。
「……どうしよう」
私はガサゴソとナップザックを開けて、レインコートを取り出す。最後まで、この道を進むことにしたのだ。
傾斜を登っている間に、日が落ちて周囲が暗くなった。鳥居の間に設置されていたのであろう、灯籠に灯りが点く。
しばらく山道を登り続けていると、正面の方からシャン……と鈴の音が聞こえてきた。この先に、誰かいるのだろうか。
少し気になったけれど、私はまっすぐにそちらへ進むことにする。なんだか、呼ばれているような気がしたのだ。
どれくらい坂道を登ったのだろうか……
私は、ようやく全ての鳥居をくぐり抜けて斜面の頂上に出た。正面には、砂利を敷き詰めた地面が広がっている。
辺りはすっかり夜になっているが、雨はまだ降り続けていた。
目の前には、歴史を感じさせる大きなお社が見える。綺麗に手入れされている美しい建物だった。
鳥居が沢山あったので予想はしていたが、ここは神社のようだ。灯籠の灯りだけが、ゆらりと光っている。お社の奥は森になっているみたいで、黒い木の影が闇に蠢いている。
シャリ、と横から砂利を踏む音が聞こえた。やはり、誰かいたのだ。音のする方を見ると……
藍色の着物を着た男の人が立っていた。年は二十代前半くらいだろうか、まだ若そうな黒髪のイケメンだ。私はイケメンが苦手なので、だからといって何も感じはしないけれど。
持っている闇色の唐傘といい、彼は少し古めかしい格好をしている。それが、この場の雰囲気に非常に合っていた。
「へぇ、こんな場所で人に会うのは珍しい」
透き通った美しい声音でそう呟いた男の人は、金色の瞳でまじまじと私を見つめる。変わった色のカラーコンタクトだ。
「すみません、山で迷っていたらこの場所に出ちゃって」
「ああ、知らず隙間に入り込んだんだね……たまにあるんだよ。元の場所に返そうか?」
元の場所まで、連れて戻ってくれるという意味だろうか。
だったら不要だ。どうせ、私はこの世から消えに来たのだから。
「いいえ、結構です。このまま進んだら、どこに行き着くのか見てみたいので」
「……この先には、君が望むようなものは何もないと思うけど?」
「それでもいいんです。ここは、どこですか?」
私の質問に、男の人は困ったように目尻を下げた。
「ここは、君のいるべきところではないよ」
「……え?」
どういうことだろうか。
立ち入り禁止の場所なのかと私はキョロキョロ辺りを観察するが、そのような標識は見当たらない。
やっぱり分からないと再度聞いてみても、男の人からは曖昧な返答しか返ってこなかった。
仕方がないので、私は彼と別れて更に奥を目指すことにする。
「ねえ、君はどこへ行くの?」
歩き出そうとする私の気配を察知して、男の人が話しかけてきた。
「この奥へ……」
「奥は危ないよ?」
「……道が、ということですよね? 大丈夫です。懐中電灯で照らして行きますから」
さすがに神社内では自殺をする気にはならなかったから、神社を抜けて人のいない場所で実行するつもでいる。
「ありがとうございました」
男の人にお礼を言って、私はその場を後にした。
ああ、お腹が空いた。昨日の晩ご飯以来、何も口にしていないからなぁ……飢える前に当初の目的を果たしたいものだ。
ナップザックの中のロープを使おうか、崖から飛び降りようか。いずれにしても、人目につかないのがいい。
「待って!」
不意に後ろから掛けられた声に振り返ると、先程の男の人が追いかけてくる。
「もう夜だし、一人でこの先に行くのは危ない。だから……」
「私なら、大丈夫ですよ」
死にに行くだけなので……とは、さすがに言えない。絶対に止められそうである。
「何が大丈夫なの? この先はまた山道になっていて……」
「助かります。ちょうど、そういう場所を探していたので」
「助かるって……一体、何を考えているの。女の子が一人で」
顔を顰めた男の人が、私の腕を掴んだ。男性に似つかわしくない、細く美しい手だった。
「だから大丈夫ですってば。私のことは、放っておいてくださ……」
そう言いかけたとき、腹の虫が盛大に音を立てた……それは勿論、私の出した音である。