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003

 いつになったら、僕の負い目は消えるのか。


 光樹は、バスの一人がけの席で、長いため息をついた。

『それを選んだのはコウ君じゃなくて、わたしだよ?…わたしはね』

 このことで悩んでいることが菜津芽にバレると、決まって菜津芽は諭すようにこう言うのだった。

『あの時、人生で最高の選択をしたと思ってるし、それは今でも変わらないんだ…要するに』

 そこで、菜津芽は頬をわずかに赤らめる。そして、それを隠すように、いつもの笑顔でこういうのだ。

『ずっと一緒だよってことさ!』

 勝手に耳が熱い。熱いが、それでも。


 僕は僕を、菜津芽を裏切り者にした僕自身を、許すことは出来ない。


 もう一度長いため息をついたあと、光樹はゆっくりと目を閉じる。

 終点まで、少し眠ろうと決める。意識は混濁し、そして消える。


 眠ってしまってから、しまった、と気付く。

 少し考えれば分かるはずだった。そうでなければ光樹の言動は、病的で、妄信的すぎた。大切な人が殺される夢は、逆に吉夢と言われるほど、ポピュラーなはずだ。それなのに。

  

 ただの悪夢で、見ず知らずの女性に詰め寄るほど狼狽した理由も。

 予知夢なのではないか、とまで予測を巡らせてしまった理由も。

 今もこうして、どのようにすれば菜津芽を守れるか、ずっと考えている理由も。


 光樹は夢を見ていた。

『おなかが膨らんでいる女が、奇抜ななりをした若い男になにかをされて、腹から鮮血を吹き出しているその一瞬だけが、フラッシュのように浮かび上がる』、夢だった。

 今朝見た夢と、まったく同じ夢。菜津芽が殺される、悪夢。

 しかし、夢はそこで終わることはなく、光樹は、その凶器がナイフであることを認めた。


 ずっと、ずっと。

 眠るたびにこの夢を、寸分違わないこの夢を見ていたことに、今更気づく。

 異常事態だ。

 超常現象だ。

 仮に、ただの夢であったとしても何らかのカウンセリングは受けるべきな、ただならぬ事態であった。


 そして夢であったとしても。

 伴侶が殺害されようとするシーンは決して、まともを保っていられるような状況ではない。

 まして、今までの悪夢とは違う。夢の中の意識は、これ以上ないくらいはっきりとしていた。

 一撃をくらい、崩れかかる菜津芽。その側の刃物男は、もう一太刀を浴びせようと小さなナイフを振り上げる。その照準は頚動脈に合わされている。

「やめろおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!!」

 絶叫しながら拳を握り、男を引き離そうと光樹は駆け寄った。

 きっと間違いなく、光樹の行動は無駄であったろう。それで菜津芽の傷が治るわけではない。しかし、そうする以外の行動を彼は思いつかなかった。


 意外なことに、とどめを刺そうとするナイフの手は止まり、男は光樹を見た。

 その顔を見る。

 細長い顔に、切れ長の糸目。わずかにのぞく眼光は白く光る。一度も見たことのない顔つきである。

 それが、にまりと笑った。悪魔を思わせる、狂気のこもった笑顔だった。

 光樹の足は、恐怖によってその場に縫い付けられた。切り裂き魔が笑ったから、ではない。


 切り裂き魔の顔が、自分の顔に変化したからである。


 動けない光樹を光樹の顔で嘲笑い、再び切り裂き魔は顔を変化させる。

 今度は、菜津芽の顔に。

「う…うわああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 呪縛が解かれたかのように足が動いて、光樹は男に駆け寄る。

 その間にも男は『顔』を変化させる。

 生後数ヶ月くらいの赤ん坊としか思えないような顔が、決して見せるはずもない邪悪な表情で光樹を見て、笑っていた。

 

 限界だ。


 悲鳴のように、咆哮のように、情けなく声を裏返し絶叫しながら、光樹は拳を振りかぶった。

「…えっ…!?」

 ガゴンッ!!!

 切り裂き魔を殴った自分の体、その周辺が強く輝いていたことに気づいたのは、バスが事故を起こし、その揺れで目を覚ました後だった。




 「妙な話だな」

 開口一番、上司である藤村蕾ふじむらつぼみ部長の口調は疑念がたっぷりこもっていて、うひぃ、と光樹は身を竦めた。

 刑事の職質、バスの遅延のダブルパンチで遅刻する旨を伝え、15分遅れで出社した直後である。

「君の普段の勤務態度が悪かったら、サボタージュだと断定している所だぞ?」

 そういって、藤村はハラスメントにならない程度の強さ(当社比)で光樹にデコピンした。

 背が高く、眼鏡の奥の表情がいつでも無表情の藤村のデコピンは、このオフィスの名物の一つだ。

「ぐッ…!」

 光樹はそこで無言でうずくまり、見た目通りの強さに社員たちは目を剝いた。

「部長…殺す気ですか…」

 何とか回復した光樹が、蚊の鳴くような声で不満を訴える。

「そんなにか?私のデコピンの攻撃力は」

「普通にパワハラですよこれ…」

「スキンシップの範疇だ」

 藤村はしれっと答えて、「そんなことより」と強引に話題を引き戻した。

「奥さんは大丈夫なのか?私はてっきりそっちで遅刻したのかと思ったぞ」

「今日はもう病院に行ってると思います。予定日までまだあと一週間ありますし」

「予定日なんかアテにならんぞ?私が産んだ時は予定日より五日は早かったしな…まぁ、そういう場合は、早退も遅刻も認めるから、あまり私たちに気を使わないように。いいな?」

「…ありがとうございます」

 本当にいい上司に恵まれた、―デコピンをのぞけばだが―と光樹は改めて思う。あるいは、会社に恵まれたのか。

 株式会社軽間(かるま)、既に全国に支部を持つ上場企業である。よく「何をしている会社なの?」と聞かれるが、社長から平社員に至るまでその返答は一致している。

「…まあ、いろいろです」

 その時ちょっとニヒルに笑う感じも、社長から平社員に至るまで一致している。


「なら今日はバリバリに働けよ三年目」

「はいっ」

 光樹は早速、積まれた書類をやっつけにかかった。




 

 

 

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