002
今日がいつもと同じ日だ、と感じたのはのっけだけで、彼はこの日、普段どおりではない日を乗り越えて、大きく道を変えた。
というよりかは、踏み外した。
何人かの人間が、道中に佇んでいた。彼らは一様にてんでばらばらな防寒具を着こなしていたが、誰もが同じ、怜悧で鋭利な目つきをしている。という風に光樹は感じた。
以前も述べたように、この街は都内へと向かうサラリーマンばかりの、乾いた街だ。
人が、それも複数人もが、わざわざ突っ立っているとは、その時点で不思議な事態ではあった。
「あの!すみません!」
さも水飲み場で「センパイ、これ読んでください!」と顔を真っ赤に紅潮させながら両手でラブレターを渡すような、そんな声質で光樹に声がかかった。無論、光樹にそんな経験はないのだけれど。
とはいえ、ただでさえ急いでいる状況、こんな早朝から揃いも揃って氷みたいな目をした珍妙な連中に時間を割くわけには行かない。そう判断を下し、無視することを決める。
「…」
「警察の者ですが!」
…そして、無視することをあきらめる。
なるほど、警察なのであれば、鋭利な目つきであるのもうなずける。ただ、光樹に声をかけた女は、その傾向はかなり少ないと言ってよかった。
そのトレンチコートが奇跡的に似合っていない(袖から手を見ることは出来なかった。サイズも合っていないらしい)女は、小学生か中学生か、と見紛うほどの幼い体躯と容姿を持っていた。その見た目だけで、「お前、この仕事向いてないよ」とどこかで言われているであろう事は容易に想像できるような、そんな女だった。
「わたし、刑事の経堂てとらです!お話を伺ってもよろしいですか!?」
やや、声が大きい。朝の早い時間帯に会話を交わすのはきつい、と、光樹は顔をしかめる。それに、遅刻もしたくないし。
よろしくないです。
と、丁重にお断りしようとしたその瞬間、てとらは妙なセリフを言い放った。
「というのも、最近東京全域で切り裂き事件が発生してるんです!多発です!」
‐切り裂き事件。
今朝の妙にリアルな質感の悪夢を思い出す。ただの夢、といえば、夢。しかし、それにしては明瞭で、夢にありがちな『後から考えたら不自然』ではない、菜津芽が斬殺される悪夢。
「…しかも、被害者は妊婦さんばかりなんだそうです!」
‐被害者は妊婦。
もしや、まさか、と思う。
もしや、今朝見た夢は予知なのではないか。まさか、菜津芽の身に、命の危険が迫っているのではないか。嫌な想像はぐるぐると頭の中を増幅しながら回り、気づけば光樹は、てとらに詰め寄っている。
「ちょっと、その話詳しく聞かせてもらえませんか!?」
「ちょ、ちょ、ちょっと近い!近いですってば!落ち着いてください!」
「嫁が妊婦なんです!!落ち着いていられませんよ!!」
「顔近い!顔近いですからーっ!!!」
荒唐無稽にして侃々諤々。
「おい、経堂」
「ハヒッ!?」
刑事と繰り広げられる、そんな漫才みたいな真似を止めたのは、そのどちらかではなく。
「わざわざ余計なこと喋んな、死ぬぞ?」
足の方までカバーされた黒のコートを渋くかっこよく着こなしている、オールバックの若い男だった。
「先程は部下がご迷惑をおかけしました。刑事の柴田克波です」
一瞬前までのややワイルドな話し方はどこへやら、不意に慇懃な話し方に変わった柴田に、光樹はたじろぐ。柴田の目つきは、まさに怜悧かつ鋭利で、並み居る刑事たちのステレオタイプだと思われた。
「奥様が妊婦さんということですが、まずは身分証明書を見せていただいてもよろしいでしょうか」
そうしないと捜査が成り立ちませんので、と言う彼の目は一切変化せず冷たく光り続け、静かに光樹は免許証を出した。
「御蔵光樹さん・・・あ、出雲の方から出てきてらっしゃるんですか」
「…」
ぶつぶつと呟きながら免許証をためすすがめつしていた柴田だったが、出雲出身だ、と言う情報を得ると、一瞬安心感を一切与えない笑顔を見せる。対照的に、光樹の顔は暗く沈んだ。
出雲県。中国地方中央部に位置する。『出雲神宮』を中心に栄え、宗教上の理由だけでなく、この国が発展する上で必要不可欠な学問が生まれた地とされる。光樹も、菜津芽も、この県の中央、出雲市の出身だった。
「…なるほどね」
にやり。と言う表現が一番似合う、口角を吊り上げる笑いを見せた柴田に、光樹は警戒心を隠すこともせず、能動的に会話をしようとすることを既に放棄していた。
手を一度叩き、柴田は話を切り替えた。
「経堂が言ったことですが、あれはご心配には及びません。犯人の犯行は今まで全て、われわれ警察の手薄な所を突いています。私どもがこの辺に配置された以上、奴はここには来ないでしょう」
逆に言えば、経堂がバラしたことしか分かっていませんが、と一切申し訳なさをにじませずに柴田は言った。
「…それ、警察が翻弄されてるってことじゃないんですか」
「いえ、奴は必要以上に警察を避けているということです」
というより、人をね。と続ける。
「だから、逆にやりやすい」
「…なら、いいんですが…」
「お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした。切り裂き魔は必ず私共で捕まえますが、くれぐれも、夜道には気をつけてください」
「…どうも」
再び光樹はバス停に向けて足を動かし始める。その背中が消えるまで、柴田の目線が追っている事に気づくこともなく。柴田のその表情が、目線だけでなく表情が、一切の感情を廃していたことに気づくことも、なく。
「柴田だ。容疑者を俺らの管轄に誘導しろ」
数分前まで叱られて怯んでいたはずのてとらはすぐに調子を取り戻し、子犬のように柴田に駆け寄る。
「柴田さん柴田さん!ヤツって誰ですか!?」
直前の仕事の顔をふいっと崩し、柴田は苦笑いを浮かべる。
「…お前は首突っ込みすぎだ。殉職するぞ?それから一般人に余計な情報を与えんじゃねぇ、特に公表されてない話な、不安煽んだろが」
「す、すいません!」
てとらはころころと表情を変える。半泣きだが、すぐに明るく、うっとりとした表情に変わった。
「でも今の人、素敵でしたね!『奥様、ラヴ!!』って感じで!!私もあぁいう結婚がしたいなぁ…!」
「…そうか」
そう答える柴田の声にも、やっぱり感情はなかった。