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001

 日常は、あっけなく崩れる。そう言った人がいた。

 日常は、何事もなかったかのように続いていく。そう言った人がいた。

 多分、どちらも正しい。 


 遠くの方から、何かが聞こえる。わらべ唄だろうか。うすぼんやりとした感覚でよくわからない。


 …うすぼんやり?


 そこで、彼は気づく。これは夢だ、と。

 はじめて聞いたような唄ではなかった。記憶の靄の陰に隠れて、多分ずっと前に傍にいたような、そんな感覚がした。

 その次の一瞬、彼は眼を醒ましたのであると錯覚した。それくらいに突然、もやもやとした感覚から引きずり出された。

 しかしそれは、脳裏に、明確に、まるで見ているかのように想像できたビジョンだった。いや、そもそも夢の中の出来事だったのだから、単純に、場面が切り替わっただけかもしれない。

 おなかが膨らんでいる女が、奇抜ななりをした若い男になにかをされて、腹から鮮血を吹き出しているその一瞬だけが、フラッシュのように浮かび上がった。

 それでたくさんだ、とでもいった具合に彼は眼を恐怖に見開いた。


菜津芽なつめッッッ!!」


と叫んだところで、御蔵光樹は眼を覚ました。 



 絶叫して目を覚ました御蔵光樹は、敷かれた二つの敷布団の右側で、息を切らせながら身を起こしていた。その表情は、菜津芽が殺される瞬間を目撃したときのそれと等しいままで、肩を上下させているほかは、何ら変化をしていなかった。


「…もう…どうしたの…?」


隣、左側の敷布団にくるまったまま、物憂げな声がした。

申し訳なさを感じる。おなかに彼とのもう一つの命を預かっている菜津芽が辛いことを、彼は理解しているつもりだった。


「ごめん菜津芽、なんでもない、ただの悪夢…」

「なら、いいんだけど。コウくん、すごい絶叫するんだもん」

「ごめんな…今日は体調、大丈夫か」

「ぜーんぜん大丈夫ー。ビックリしただけだよー」

 よっこらせ、と上半身だけ起き上がらせた菜津芽が親指を立てておどけてみせる。

「…あんま無理すんなよ」


 あまり体調が良くないようだ、と光樹は見ていた。緊張感で、少し顔が疲れている。その疲れは光樹でなければわからないほど、些細なものではあったが。

 最近少し雑になってきてはいるものの、円を描くようなショートのボブ。くりり、と大きく開かれた目。身長こそ低いものの、スタイルも悪くない。ふくらんだおなかを差し引いても、全体的に菜津芽の印象は「ころっとしている美人」と言って差し支えがなかった。

 もう、出産も大詰めであることを、二人は知っている。二人の布団の後ろの壁には、一日一日に嬉しそうにところどころはみだした×印が記入されていて、今日の日付のひとつ下の日付には、赤いシンプルに書かれた「予定日」の文字にたくさんのハートマークが書き足されていた。

全くの余談であるが、ハートマークを描いたのは菜津芽ではなく光樹である。


「誕生日じゃなくて予定でしかないんだから、一応でいいよー」

と、チャチャッと菜津芽が文字だけ書いて、どうしても納得いかず、光樹が書き足したのである。子供か。


「今日ねぇ、一応病院行くことになってるんだよぉ」

 ぼんやりとそのカレンダーを眺めていると、いつものように、間延びした声で菜津芽が告げた。振り向けば、既に彼女は着替え終わっていた。


「本当に菜津芽は白が好きだな…」

 マタニティのゆったりとした、白いワンピースだった。

「いいじゃない。かわいいでしょ?」

 ぷくっ、と菜津芽が頬を膨らます。


…ああ。かわいいよ。

 


 モラトリアム期、という言葉がある。「責任や義務を負わない時期」を意味する言葉で、主に学生時代を謳歌することに使われる。

 御蔵光樹みくらこうきは、そのモラトリアム期を終えた、「社会人」と呼ぶべき、社会の大部分の一部である。歯車である。

 当然、彼にはほっぽり出せない責任がある。

 当然、彼には束縛がある。

 当然、彼には守るべきものがある。

 

 ゆえに今日も彼は、一日中菜津芽に付き添わせろ!と吼える己の本能を押さえつけて、スーツで薄い鞄を持って家を出た。

「あっ、コウくん待ってー」


 訂正しよう。

 今日も彼は、一日中菜津芽に付き添わせろ!と吼える己の本能を押さえつけて、スーツで薄い鞄とゴミ袋をひとつ持って家を出た。


 


ゴミ袋を集積所に置く。どさり、と転がった。

 外はまだずいぶんと暗く、朝晩の寒さに一度だけ体を震わせる。

 ちらほらと、彼と同じようにバス停へ向かう人が見えた。都心からやや離れたこの小さな街は、この時間帯は、寝ぼけ眼で歩くサラリーマンだらけだ。

 乾いた街だ、といつも光樹は思う。やけにつながりが薄くて、近所に住まうどの年代の人間も、互いに互いの存在を無視しているようにさえ思えた。

 東京とはそういうものだ、と言い聞かせようとしても、どうしても地元の朝を思い出してしまう。あの頃は…


 …ダメだ。

 この道を選んだのは僕だ。それにどのみち、戻ることなどできない。


 ひとつため息をついて、彼はバス停への歩みを急がせた。


セイクリッド★サラリーマンを見ていただいてありがとうございます。

すごく人の目を気にしてしまうので、評価、レビュー等、お待ちしております。よろしくおねがいします。

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