3話 呪令の魔女7
「―――そう。なら仕方ないわね」
リリーが息を吐き出すようにして呟く。
「ごめんね」
「いいのよ」
ヒイルの謝罪に笑顔を返すと、
「私の本意ではないのだけれど…。グイン」
「わかった」
ミルガナオの少年――グインが、両手を下ろしてまっすぐにヨギを見据えた。
キイン、と。
風が鳴った、そうキリウが感じた時はすでに宙を舞っていた。
何が起こったのか理解できないまま背をしたたか打って、一瞬呼吸が止まる。
「…っ、駄目っ!」
聞きなれた声が悲痛に歪んでいた。
「ヒーちゃん!? ―――はぁっ!?」
慌てて飛び起きたキリウの眼に飛び込んだのは、肩から大きく裂けた右腕を抱えるようにして膝を突くヒイルだった。だらりと垂れ下がる手の先からは鮮血がぽたりぽたりと流れ落ちている。
けれど。
視線が捕らえたのはそれだけではなく、その先の光景。
思わずあげてしまった素っ頓狂な声はキリウの常を知る者ならば目を丸くしたり己の耳を疑うレベルのものだったが、無理もなかった。
ラーラ曰く“最強の2枚盾”、カーマは魔法使い、ヨギは剣士。
幾たび暗殺ギルドを退けてきた2人がいてこそ、ヒイルは今も薬師として好きな事を出来ている。それは間違いないのだが、実は知られていないもう一つの要因がある。
ヒイルは無駄についている。
これまで幾度となく大怪我をしても死なずにすんでるのは一重にそれのお陰だ。
生存本能が異常に強いというか、勘が冴えているというか。
誰も対応できなかったそれも、本人が自覚するより以前に体が反応していた。
半歩後退するように飛んで、痛みが走り、思わず声が漏れる。視界をキラリと光るものが走り抜けるのを追うように赤い筋が宙を舞った。
眼を見開いているグインとヒイルの眼が合う。
会心の一撃を避けられたという事実がそうさせたのだが、それが油断に繋がった。
「がっ!?」
首に痛みが感じるのと同時に体が勢いよく後方に引っ張られ、鳩尾に重い一撃を喰らって背を強かに地面で打つ。もんどりかえるまもなく片手で首を絞めるように押さえつけられ、その視界に剣が光が走った。
「…っ、駄目っ!」
振り下ろされた剣が鼻先で止まる。
視界で小さく揺れて停止したそれに生唾を飲み込んで初めて、グインは己の死を予感した。
ヒイルの鮮血が舞うのとほぼ同時にカーマの鋭い視線がリリーをとらえ、地を蹴った。
魔法使いたるもの、戦場で戦うにおいて必要な点が2つある。
素早く動ける事と、それを成しえる体力がある事だ。
ただ突っ立って呪文を唱え魔法を放っていればいいだけの時代は500年前に終わりを告げている。
片手で喉元をつかむと力任せにリリーを地に引きずり倒したその背に、無表情のまま馬乗りになるとその両腕を掴み左右を交差させ、
「ぎゃっ!?」
嫌な音と共に、小さな呻き声をリリーが上げた。
力を失くした両腕を捨てるように離すととリリーを仰向けにさせ、左手で口をふさぐように締め上げた。顎の骨がミシミシいう握力は、魔法使いのものとは思えない。
このまま骨が砕ける音を聞く事になるのだろうと思われたが、
「…っ、駄目っ!」
ヒイルの声で、万力が緩められた。
何もしゃべれないよう、がっちりホールドされたままではあったが。
己を無表情なまま見下ろすカーマにの姿に、リリーは敗北を悟った。
キリウが目にした光景がそれだ。
吹っ飛んでる間に状況が変わりすぎで、驚いても仕方なかった。
「駄目だよ、2人とも」
ヒイルの声に帰るは、無言の視線だ。
2人とも表情はゼロに近いが怒っているのは確かで、その原因を作ったのはヒイルだが、同時に責任を感じて己自身にも腹を立てているのだと理解していて、肩を竦める。
「大丈夫だからね」
血がだらだらで説得力はないが、そんな科白を口にした。
どう返事が来るかと思っていたヒイルに、
「全ッ然、大丈夫じゃないでしょう! こんなにダラダラ血ぃ流して何言ってるんでしょうかね!?」
「っ、まさかのキリさん!? って、痛い痛い痛い!!」
ぐいっと負傷した腕を持ち上げられて悲鳴を上げる。
「全く。ヒーちゃん、ただでさえ治癒が効きにくいのに 「大げさな、この程度のき…」
ギロリと睨まれてヒイルは言葉を飲み込んだ。
「女の子なのに傷が残ったらどうするんですか。治癒の魔法で傷跡は綺麗に消せる、と言えますけれど、ヒーちゃんには使えない手なんですからね」
まさかキリウから説教を喰らうとは思ってもみなかった。
ぶつぶつ言いながらも傷を確認し、血止めを行うキリウの姿にカーマとヨギの2人が肩を竦めるようにして警戒を解く。手を離すつもりはないようだが。
「どうするつもりだ?」
ヨギが問う。
「治してあげて」
「嫌です」
ヒイルの答えはカーマに寸断された。
「でも2人とも戦意ないでしょ、もう」
「別問題です。ヒイル、ここは譲れませんわ」
「………じゃ、結界の外にそのまま捨てて」
酷いことをさらりと口にするヒイル。
「このまま何もせず、見逃せと?」
「カーマ。私達は、一般人なの!」
切実な訴えだった。賞金首になっているのに今だ己を一般人だと言い張れるヒイルはある意味でスゴイ。
「お願い、カーマ。ヨギもお願い!」
キリウに治療されながら左手を顔の前に持ってきて「お願い」のポーズをとる。
それに対してヨギが顔をめぐらし、
「どうする、カーマ?」
折れた。
本当にどこまでもヒイルに甘い男だと、カーマは内心溜息をつく。
「仕方ありません。保護者に責任を取らせましょう」
あっさりと言ってのけた科白に、グインの顔から血の気が引いた。
「リリーに…っ!」
「落ち着きなさい、ミルガナオの仔。今のお前に何が出来るというのでしょう。先に伝えておきますが、これ以上何かをしようというのであれば、私達は手を止めるつもりはありません。よく秤にかけてから動きなさい」
淡々と告げながら右手をリリーのマントの下に差し入れると、そこから5センチほどのブローチを取り出した。
「ほらほれ…は、ら」
「何を言っているのかわかりませんわ」
顔の下半分が覆われているのだから無理もないのだが、カーマはにべもなかった。
「面倒ですこと」
パキッ。
手にしたブローチを真っ二つに折る。
白魚のような細く長いその指のどこにそんな力があるのか、不思議でならなかった。