あ、いかん。拾ってもーた。
――ぴちょん。
部屋に水音が響いた。
ここ数日、どこかで水漏れでもしているのか、時々こうして水の跳ねる音が聞こえるのだ。
遊びに来ていた友人の秋山が額を押さえる。
「……笹木。おまえ、今度は何を拾ってきた?」
真面目な顔で問う秋山の顔を見つめる。
きょとんとしてから、笹木は首をかしげた。
「これ、もしかして、あれか?」
「もしかしなくても、あれだ」
笹木はへらりとした笑みを浮かべみせた。
秋山の顔が険しくなる。
「どこにいる?」
さらに追求する秋山に「ただの犬に見えたんやけどなあ」と言いながら笹木は、ベランダに通じるガラス戸を開けた。
へっへっと荒い息が聞こえる。
ぺちゃんこにつぶれた鼻先。小さく垂れた耳。大きく丸い、黒曜石のような瞳が、じっとこちらを見つめている。くるりと巻いた尻尾が、パタパタと小さく揺れていた。
「犬だな」
秋山は、ベランダにちょこんと座るそれを見下ろして言った。
「犬やろ」
笹木はしゃがみ込むと、そこだけ黒い顔をのぞきこむ。
「……濡れているな」
秋山の言葉とともに、淡い小麦色の毛並みから、ぽたり、と雫が落ちた。
それの足元に、小さな水たまりができている。
「拾ったときから、びしょ濡れなんや」
笹木は、パグ犬に見えるその生き物の頭を撫でた。
「川にでも落ちたんかと思ってな。タオルで拭いたんやけど、すぐこうなるんや」
ぽたり。
また一滴、ベランダの床に水滴が落ちる。
秋山は無言のまま、ベランダの外へ目を向けた。
真っ青な夏空が広がっている。
雲はひとつもない。朝から一滴も雨なんか降っていない。
「……晴れてるな」
「だよなあ」
笹木はのんびりとうなずいた。
「不思議な犬もいるんやなあ」
秋山は、ふたたび額を押さえた。
「笹木」
「ん?」
「それが、本当に犬だと思うのか?」
笹木はまた首をかしげ、びっしょりと濡れた生き物としばし見つめ合う。
「……犬やなかったら、何なんや?」
その瞬間。
――ぴちょん。
どこからともなく、水滴の落ちる音が部屋に響いた。
それはゆっくりと顔を上げる。
黒曜石のように黒い片目がどろりと溶けるようにこぼれ落ち、すぐにひゅっと元に戻った。
秋山が「ほれみろ」という顔をする。
「あ。うん」
どうやら、拾ったら、あかんやつだったらしい。
笹木は、大学の進学のために都会に出てくるまでは、祖母の家にいた。
そのときも、何かと拾って帰っては祖母に怒られていた。
「まあ、拾ってもうたものは、仕方ないわ」
そう呟くと笹木は、またびしょ濡れの頭を撫でる。秋山が少し呆れた顔をした。
「なあ、秋山」
「なんだ?」
「こいつ、何食うと思う?」
「知るか。本人に聞け」
笹木は「んー」と唸ると頭をひねる。
「拾ってからなんも食ってないんだよなあ」
「犬用の餌を買ってきたら、いいんじゃないか?」
「んー。なんか違う気がして」
魚でも買うてくるか、と言いながら、笹木は立ち上がる。小さな尻尾がぱたぱたと揺れていた。
◇◇◇
笹木の「陽が落ちたら、中に入れたげて」との言葉どおり、犬にしかみえない生き物を、秋山は部屋に招き入れる。
ベランダへ出るガラス戸の前に、大きめの水切りのカゴが置いてある。カゴにはバスタオルが敷かれていた。笹木のことだから、わざわざ買って用意したのだろう。
笹木はアルバイトに出かけて、部屋にはいない。
二時間も前に、秋山は笹木を玄関で見送った。
泊まっていくというと、笹木は疑いもせずに「ほな、よろしく」とあっさり出ていった。
笹木は、苦学生なのだ。両親はもうすでに他界したと聞いている。田舎に残った祖母が毎月送金してくれているらしいが、それだけではとてもではないがやっていけない。
東京で暮らすには、なかなか金がかかるのだ。
その少ない蓄えから買ってこられた魚は、骨すら残らず綺麗に犬のような何かの腹におさまった。黒曜石のような目を細めて、水切りカゴの中で、それはどこか満足げだ。
秋山は腕を組んで、それを見下ろす。
「結局、おまえは何なんだ? 喋れるのか?」
「%&$#*#*$」
「ああ、いい。聞いた俺が馬鹿だった」
理解不能の音の羅列でしかないものが返ってきて、秋山は諦めた。だが、こちらの言葉は理解しているようで、ずっと気になっていたことを尋ねる。
「どうして犬なんだ。濡れた姿がいいなら、両生類でいいだろう?」
「#$”=¥@*@@!!!」
「わかった。喋るな」
よくわからないが、こだわりがあるらしい。
「で?」
――ぴちょん。
水滴の落ちる音が響く。
「あれはおまえの敵か、味方か。どっちだ」
犬に似た生き物のそこだけ黒い顔が、水飴のようにぐにゃりと曲がった。
全く意味のわからない反応に「どういう表現なんだ。それは」と秋山は呆れてから、後ろポケットに手を伸ばす。
「じゃあ、とりあえず。――敵ということでいいな?」
そう言うと呪符を取り出し、指の間にはさんで構えた。
辺りが明るくなった頃、笹木がようやく帰宅した。眠そうに目をしぱしぱ瞬いている。
「お帰り。遅かったな」
「なんやまだ起きてたんか。寝ててくれてよかったのに」
「ちょっとやることがあってな」
「宿題かなんか?」
「まあ、似たようなものだ」
水音を立てていたモノを暗闇から引きずり出し、呪符で縛った。さらに、呪を唱えて滅しようとしたときだった。
犬のような何かが大きく口を開けた。どう考えても物理的に無理な大きさだった。それはソレにパクリと噛みつくと、でろんと飲み込んだ。なかなかシュールな光景だった。
水切りカゴの中でへっへと息をあげ、尻尾を振っているそれを見ると、笹木はやわらかく目を細める。手を伸ばして頭を撫でた。
その瞬間だった。
どろりとそれが犬としての輪郭を失った。
「笹木!」
腕を掴んで引き寄せる。驚いたような顔をした笹木を自分の背中の向こうへと押しやると、秋山はポケットに手を伸ばした。
呪符を取り出す前に、犬のようであったものがグニグニと蠢き、やがて人の姿へと変わった。
笹木が呟く。
「犬やなかったんか」
「まだ犬だと思っていたのか、おまえは」
「あー、うん、まあ?」
「%&$#*……――アー、あ。ツウじますか?」
人間の姿になり声帯が使えるようになったのか、意味不明な音から日本語に変わったそれが尋ねる。
秋山は半眼になり腕を組んだ。首をかしげて尋ねる。
「で?」
「で、とは?」
「どうして笹木と同じ顔をしているんだ?」
笹木とよく似た姿をしたそれは、同じように首をかしげた。
「アキヤマはササキが好きです」
「待て」
語弊がある、と渋面で言った秋山に、笹木ははんなりと笑った。
「そうやなあ。秋山はこんな俺にでも飽きんと親切にしてくれよるからなあ」
「ナニか間違っていましたか?」
間違いしかない。
「とにかく、その姿は止めろ」
秋山の要求に、是非を問いかけるように、それは秋山の後ろにいる笹木を見つめる。
横目で後ろをうかがうと、笹木はさらに眉尻を下げていた。
「俺は別にええんやけど。とりあえず、朝メシ、食おか?」
「……この状況で?」
「うん。俺、腹減ったわ。おまえ、俺らを朝メシにしたりする?」
「しません」
「なら、ええやんか」
笹木は冷蔵庫を開けると、卵を取り出した。手早く割ってかき混ぜると、焼き始める。玉子焼きを作るようだ。
「秋山。そこに食パンあるから、焼いてもらってええか。三枚な」
こちらも見ずにそう指示する笹木に、秋山はひとつ息を落とす。諦めて食パンをトースターにつっこんで焼き始めると、スマートフォンで検索した画面を笹木と同じ顔をした何かに見せる。
画面に映っているのは、白くてぷにぷにとした、丸みのある体。黒くつぶらな目。頭の左右には赤いひらひらが広がっている。
「これなんかどうだ」
「どうだ、とは?」
「擬態するなら、何だっていいだろう?」
「メキシコサンショウウオ。通称、ウーパールーパーですね。両生類はだめです」
「昨日も嫌がっていたな。どうしてだ?」
「好かれないと知っています」
「……ああ、そういう基準か」
生存本能なのか、戦略なのか。要は好かれやすいものに擬態したい、ということだろう。それなら笹木を真似るのは間違ってはいない。間違ってはいないが。
「人間でもいいから、別のにしろ」
笹木に似たそれは首かしげたまま、しばらく動かなかった。
首の角度をひょいと戻すと、真面目に問いかけた。
「では、アキヤマの唇をなめていいですか?」
「笹木とキスする趣味はない」
「ワタシはササキではありません」
「男とキスはしない」
「ワタシに性別はありません」
「だから、そういう問題じゃない」
また、それはしばらく固まってから「それなら、アキヤマの唾液をつけたナニかをください」と言った。
秋山は片手で顔を覆った。
「唾液にこだわる理由は何だ」
「アキヤマの『遺伝子』を取り込みます」
「だから、俺に化けようとするな」
ぴしりと告げてから、秋山は自分の髪の毛を一本引き抜くと差し出す。
「ほら、これで我慢しろ」
両手で受け取った髪を不思議そうに見つめてから、それはぱくりと髪を口にした。
秋山はまた渋面を浮かべる。
笹木の姿をしたそれがまたどろりと溶け、今度は別の人間の姿に変わる。
秋山は首をひねった。初めて見るのに、どこか見覚えのある顔だった。
「よっしゃ。できた」
振り返った笹木が玉子焼きを載せた皿を持って、目を丸くする。
「なんや、違うものになっとる……」
「アキヤマとササキの『遺伝子』を混ぜました。問題ありません」
問題しかない。
ふさりと長くなった髪が揺れる。
二人のハイブリットというが、女性体になったせいかずいぶん感じが違う。
「どうして女性体なんだ?」
「女性は男性に好かれます。ササキとアキヤマは男性です」
秋山はずきずきと痛み出した気がする頭を押さえた。
「体つきは似てへんな。髪は俺似か? 顔立ちは……半分ずつやな」
「ワタシは得意です」
「ん?」と首をかしげた笹木に、秋山が補足する。
「生き物の遺伝子を読み取って、そのときに最適な生き物に擬態するのが得意という意味だろう」
それは言葉を咀嚼するようにしばらく考え、うなずいた。
「合っています」
「へえ。なんでそんなことするんや?」
「好かれるためです。好かれると生存確率が上がります」
笹木は「へえ、そうなんや」と声をあげた。それは続ける。
「あなたたちはお互いに好ましく思っています。好きなもの同士を混ぜれば、もっと好きになってもらえます」
「それは正解じゃない」
「では、正解を教えてください」
そんなものはない。
好きと好き、大切なものと大切なものを掛け合わせても、大好きになるとも、より大切になるとも決まっていない。
好きも、大切も、そんなに単純なものではない。
秋山は「正解はない」と告げた。それは不満そうな表情を浮かべる。
笹木が皿を小さなテーブルに置きながら尋ねた。
「しばらくその姿でおるんか?」
「これが好かれる姿なら」
「おい、笹木。こんな得体の知れないものと、まだ関わるつもりか!?」
声を荒げた秋山に、笹木は困ったように首をかしげる。
「ここまできて放り出すわけにはいかんやん」
秋山は大きく息をついた。
笹木が笑う。
「名前がないと不便やなあ。名前教えてくれるか」
「ワタシに名前はありません。呼ぶ存在がいませんので必要ありません」
笹木はふいと表情をあらためた。秋山も名前はないという存在をじっと見つめる。
「必要であれば、お好きにお呼びください。アキキでもササヤマでも」
「いや、秋木も笹山もおかしいだろう」
思わず声をあげた秋山に、それは「二人の『遺伝子』を混ぜたので、名前も混ぜればいいと思います」と答えた。
「だから」
「うん。それやったら、マキやな」
言い切った笹木に、秋山と二人に似た何かは視線を向けた。
やがて、それがぽつりと呟く。
「マキ」
「俺らの苗字の最後をとって、マキ。いいやろ」
「はい。ワタシはマキ」
人間とは違う摩訶不思議なこの何かに感情があるかどうか、秋山は知らない。
だけど、そのとき、マキと呼ばれたそれは、とてもとても嬉しそうに笑った。少なくとも秋山にはそう見えた。
◇◇◇
「また拾いましたね、笹木さん」
背後からかけられた声に、秋山が振り向く。黒いスーツ姿の見知った男の顔を目に留めると、ゆっくりとうなずいた。
「ああ、まただな」
「これで三件目です」
事実のみを指摘する響きに、秋山は鼻を鳴らす。
「特異点なんだろう。仕方がない」
「特異点」
「あるだろう、ほら。誘因も原因もないのに、妙に晴れる日が」
「特異日ですか?」
「あれと一緒だ」
「ずいぶん違うと思いますが」
「俺と友人になっている時点で、異常だ」
男の目が少しだけ細まった。
鋭さを増した男の視線に、秋山は唇に冷たい笑みを浮かべる。
「あいつには手を出すなよ」
「秋山さん」
「俺は直系じゃないが、この国の首都を破壊するくらいの能力はある」
明確な脅しに、男の背後に控えていた若い男の顔が歪む。
「貴様!」
「よせ。秋の一族と事を構えるな」
「秋の一族って、あの?」
「入職時に習っただろう。太古の昔から人ならざるモノと対峙してこの国を護ってきた一族だ」
「例えそうだとしても、あの言い方は!」
「命令だ。神楽少尉」
「……わかりました。夏瀬少佐」
悔しげに唇を噛む神楽には構わず、夏瀬と呼ばれた男は、秋山にあらためて向き直る。
「秋山さん。この国を護るのが、我らの役目です」
「――この土地を守るのが俺たちの役目だ。守っているのは、土地であって、国じゃない」
夏瀬はしばらく黙ったあと「わかりました」とうなずいた。
「危険と思えば、あなたがなんと言おうと対処させていただきます」
「何を言っている。その前に俺が始末するに決まっているだろう?」
不敵に笑った秋山に、夏瀬は慇懃に頭を下げた。
「そう、願います」
◇◇◇
マキが秋山のスマートフォンで調べ物をしている。
最初は笹木のものを使っていたが、何時間も検索をかけるので、見かねて秋山の携帯を貸した。笹木の家にはwifiがない。データ容量を使えば、余計に金がかかるのだ。
「そんなに熱心に何を調べているんだ?」
「人間が好きなものです」
「それは、一般的な、という意味か?」
「はい。これなんかどうでしょう」
またどろりとマキの輪郭が崩れる。違う姿に変わった。
ふくらんだ身体が丸みを帯び、全身を黒と白の羽毛が覆っていく。短い翼が身体の両脇から垂れ、足元には小さな橙色の足が二本現れた。
「……何だ、それは」
秋山が呆れた声を漏らす。
「ペンギンです。人間からの好感度が高いです」
「ペンギンくらい知っている。好感度は高いだろうが、ここは南極じゃないぞ。それで出歩けると思うなよ」
「だめですか?」
秋山の「だめだろう」の言葉に、マキは羽をすぼめた。
ころん。
丸い身体がわずかによろめき、床に転がる。
秋山は冷たい目で、それを見下ろした。
「だいたい、おまえ、姿を変えるには遺伝子情報がいるんじゃないのか」
「外側を似せるだけなら必要ありません。本格的にこの体で活動するなら、南極? もしくは動物園? 水族館? に行く必要があります」
「勝手に決めるな」
「ササキはどう思いますか?」
「うん。可愛いいと思うわ」
「最適解でしょうか?」
床に転がったまま、ちょこんと短い嘴を傾けるマキに、笹木はにこにこと「どうやろ?」と笑顔を浮かべた。
秋山は「いや、違うだろう」とため息をついた。
「可愛いのに違うのですか?」
「違うんだよ」
「わかりません。ササキは犬が好きですよね」
「うーん。別に好きなわけやないなあ。嫌いでもないけどな」
マキの姿がまたどろりと溶ける。笹木と秋山の二人に似た姿に戻ると、ゆっくりと起き上がった。
「……では、ワタシは犬でなくてもよかった?」
「そうやなあ。犬やのうても拾ってたな」
「わかりません」
不思議そうにしながらも、マキの表情が少し緩む。
「では次は、誰かに好かれる方法を調べます」
次に秋山が会ったとき、マキは嬉しそうに告げた。
「何かをしてもらったら『ありがとう』と言うと好感度が上がるそうです」
「まあ、間違ってはいないな」
それからマキはありがとうを言い続けた。
「笹木、朝食をありがとうございます」
「秋山、食パンを焼いてくれてありがとうございます」
「笹木、カゴを置いてくれてありがとうございます」
「秋山、携帯を使わせてくれてありがとうございます」
「秋山、トイレに行ってくれてありがとうございます」
秋山は額を押さえた。
「マキ」
「はい」
「ありがとうは誰かの行動、全てに言わなくていい」
「では、どのようなときに?」
「おまえが何かをされて嬉しかったときだ」
「嬉しい?」
マキはかくんと首をかしげた。
「あるだろう? 嬉しいと思えたことが」
「嬉しいと思えたこと。……わかりました」
その夜。秋山が帰りかけたときのことだった。
玄関で靴を履いている秋山のところに、マキがとととと走り寄ってくる。じっと秋山の顔を見上げた。
「秋山、ワタシはずっと考えていました。嬉しいと思えたときのこと」
「あったのか?」
「よくわかりません。でも、今日、秋山が来たことは、ありがとうございます」
真面目に告げたマキに、秋山は一瞬だけ黙る。
「……正しい使い方だな」
「最適解ですか?」
「最適解だ。……たぶんだけどな」
秋山は右手を笹木によく似たその髪に伸ばす。ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
秋山がまた笹木の家を訪れたときのこと。
マキが秋山が与えたレンタルのスマートフォンをずっといじっているので、横からのぞきこむと派手な対戦バトルを繰り広げていた。
「何だ、それは」
「話しかけないでください」
「笹木」
「なんやゲームにはまったみたいでな。ずっとやってるで」
とうとう検索には飽きたらしい。現代日本の日常生活に順応したようで何よりだ。
マキが顔をあげた。少し悲しそうに見える。
「どうしたん?」
「ガチャが回せません」
「うん、がちゃ?」
「ゲームのキャラクターが当たる抽選のことだろう」
首をひねる笹木に、秋山が答える。
「へえ」と笹木は、マキの持った携帯の画面を覗き込む。
「何か欲しいものでもあるん?」
「この人物が欲しいです」
「回せばいいだろう」
秋山の言葉に、マキはさらに悲しそうな顔をした。
「……星が足りません」
「課金するか?」
「いいのですか?」
「欲しいんだろう?」
「でも、必要ではありません」
「必要ではなくても欲しいんだろう?」
「はい」
「携帯を寄越せ。課金してやる」
「いいのでしょうか?」とマキは困惑した表情を浮かべた。
笹木がほんのりと微笑う。
「秋山がいいって言うてるんやから、素直にもらっといたらええよ」
「はい」
「欲しいんやろ?」
「はい」
秋山がぽいっと携帯を返すと、マキはしばらく画面を見つめていた。やがてぽつりと呟いた。
「必要でなくても、欲しいと思っていい?」
「ええんちゃう?」
「必要ではないけれど、欲しいもの……」
「ほら、さっさとガチャを回せ」
マキはそっと携帯の画面を撫でた。
「……いえ。これはもうしばらくこのままにします。ゲームの人物よりも、このお金が欲しくなりました」
「金がいるのか?」と首をかしげた秋山に、マキは真顔で言い切った。
「違います。秋山のくれたこのお金がいいのです」
「使うために課金したんだ。さっさと使え」
秋山の言葉に、なぜかマキと笹木は、はんなりとよく似た表情で微笑った。
ある夕方。ベランダで膝を抱えて座っているマキに、秋山が声をかけた。笹木は小さいキッチンで夕食を作っている。
夕立が降ってきそうな空模様だった。
「雨がくるぞ」
「水は必要です」
「そういや、おまえ、ずっと濡れていたな」
宙にかざしたマキの右手が水をかけたように濡れた。
「必要なので、こうやって大気から水を集めます」
「今は濡れてなくていいのか?」
「この体なら水を充分体内に貯められます。表面が濡れている必要はありません」
「そういうものか?」
「そういうものです」
言い返すようになったマキに、秋山は苦笑した。
「好きについて調べました」
「……また難しいことを」
「笹木は秋山が好きです」
「待て」
「秋山も笹木が好きです」
「だから、その言い方は誤解を招く」
「私は二人が好きです。この気持ちはあなたたちの好きと同じですか?」
「……それは」
言葉につまる秋山を振り返らず、マキは暗くなってくる空を見上げた。
「私たちは、種としての記憶を引き継いでいます。遠い遠い星で芽吹いて種子となり、この星にやってきました。でも、その記憶の中にこの気持ちはありません」
どう言葉を返したらいいかわからず、秋山は二人の面影を宿すマキの横顔を見つめる。
テーブルに皿を並べながら「ごはん、できたでー」と笹木が声をあげた。
くるりと体の向きを変え、マキはテーブルへと向かう。その後ろを秋山は追った。
テーブルに無言でついた二人に、笹木が首をかしげる。
「ベランダで二人で何してたん?」
「好きについて話していました」
「ふうん?」
「笹木。私は笹木が好きです」
「おおきに。俺もマキのこと、好きやで」
あまりにもあっさりと返された言葉に、秋山は息を止めた。笹木の迷いのなさが眩しくて、視線を伏せる。
「秋山。私は秋山が好きです」
「俺は……」
少しだけ言葉を切ってから「おまえのことは嫌いじゃない」と続けた秋山に、マキと笹木が笑った。
「マキと呼ばれることも好きです」
「ほんならよかった。名付け親としては安心したわ」
しばらくマキと笹木は雑談をしながら、箸を動かしていた。
それを眺めながらずっと考えていたことを、秋山は声に出す。
「種子だと言ったな。種になって星を渡るのか? そうやって地球にもやってきたのか?」
「そうです」
「なんの話?」と、笹木が首をひねる。
「種になって星を渡る。そういう生き物なんだそうだ」
「へえ」
「宇宙を渡ってたどり着いた星で、条件が合えば芽吹き、そこで種子を作って、また旅立ちます」
「なんや壮大な話やなあ」
マキの答えに、箸をくわえたまま笹木が呟く。
「マキの故郷はどんなところなん?」
「雨がいつも降っていて、霧がかかっています」
「へえ。ずっと雨なんか」
「はい。晴れることはありません」
「洗濯物が乾かんで困るなあ」
「洗濯物?」
「乾かんやろ。乾燥機なんてないやろし。困るわ」
「……困るのですか?」
マキが不思議そうに首をかしげる。
「出会ったとき、私は濡れていました。困っているように見えましたか?」
「んー。どっちかというと、寂しそうやったなあ」
「寂しい」
「うん」
マキは少し考えてから、まっすぐに笹木を見た。
「私は寂しいと思ったことはありません」
「そうなん?」
「はい。水は必要なものです。濡れていることも必要なことです。必要なことは寂しいことではありません」
「せやな」
笹木は納得したようにうなずき、箸を動かす。
秋山は二人の話を聞きながら、しばらく黙っていた。あらためて口を開く。
「その星には、他にも生き物がいるのか?」
「います」
「どんなのだ?」
「空を飛ぶもの。地面を這うもの。水の中でうねるもの。いろいろです」
「人間みたいなのは?」
「いません」
「同じ種族の仲間はいるんだろう?」
「はい。います。いいえ、いました」
「もういないのか」
「みんな、宇宙に飛び立ちましたから」
「やっぱり壮大な話やなあ」
マキは淡々と答えた。
「私たちは、必要な時期になると種子を作ります。その種を飛ばして、次の星へ行きます。そこで芽吹き、また種子を作ります。それを繰り返します」
「ずっとそうしているのか?」
「そうです」
「親とか子とかは」
「人間のような親子関係はありません」
「友達は?」
「いません」
「名前は?」
「ありません。いえ、ありませんでした」
笹木の手が止まった。
「……名前つけてよかったん?」
「はい。必要でなくても、欲しいものはあっていい。そうですよね?」
「欲しいものやったん?」
「笹木が欲しいと言いました」
「名前あったら呼べるやん」
「……呼ぶことに、意味があるのですか?」
「意味はないかも知らんけど。誰かに名前を呼んでもらえたら嬉しいやん」
「嬉しい」
「自分がちゃんとここに存在してるって、そう思えるやろ」
マキは考え込むように黙った。
秋山が小さく息を吐く。
「おまえたちの生き方は、ずいぶん効率的だ」
「効率的」
「必要なことだけをして、種子を残して、次へ行く」
「はい。それが私たちです」
「おまえは今、何のためにここにいる?」
「種子を作るためです」
「地球に来た目的は?」
「ありません。それが地球である必要はありませんでした」
「帰る場所は?」
「ありません」
マキは不思議そうに二人を見る。
「なぜ、そんなに私のことを気にするのですか?」
「ただの興味だ」
「それは必要ですか?」
「いや、違うだろう」
「必要でなくても、欲しいもの、ですね?」
「欲しいかどうかは……」
「興味をもってくださったことが『嬉しい』です。たぶん、きっと、これがそう。――だから秋山、ありがとうございます」
秋山は言葉を失って、マキの顔をじっと見つめる。
「マキも人間に慣れてきたちゅうこっちゃな」
「よくわかりません」
首をひねったマキに顔を向けると、笹木はほんの少しだけ笑った。
「まあ、ええんちゃう?」
「何がですか?」
「わからんことがあっても」
「わからないこと」
「うん。人間、わからんことだらけやし」
「そうなのですか?」
「俺なんか、自分が卒業したあと何してるかも、ようわからんで」
秋山は顔をしかめた。
「それは困るだろう」
「まあ、なんとかなるやろ」
あまりにもあっさりと笹木が言うので、秋山はまた息をついた。マキが笹木と秋山の顔を交互に見る。
「……不思議です」
「何が?」
「あなたたちは、必要ではないことをたくさんしています」
「ええ? 俺、今、悪口言われてる?」
笹木の言葉には取り合わず、マキは指を折るようにして数え始める。
「濡れた犬を拾う。カゴを用意する。名前をつける。友達になる。携帯を与える。ゲームに課金する。必要でないものを欲しがる。必要でないのに、誰かのために食事を作る」
「いや、食事は必要やで」
「なぜですか?」
「うーん。生きていかなあかんからかなあ」
「必要なものがあれば生きられます」
「そやな。でも、必要なものだけで人生はできとらんやろ」
「……そういうものですか?」
「うん。そういうものやと俺は思う」
笹木はほんのり笑った。
マキはその言葉に黙り込む。やがて、小さくうなずいた。
「……必要ではないものにも、意味があるのですね」
「意味があるかどうかはわからんけどな」
「わかりました」
マキはそう言ってうなずいたものの、本当にわかったのかどうか、秋山にはわからなかった。
ある日、出かけた先のファーストフード店で、マキはシェイクを飲んでいた。この地球外生命体は、案外甘いもの好きなのだ。
出会ってすぐに人外を摂取していたが、腹は壊さなかったようだ。美味しいかどうかは知らない。
ふいにマキが笹木に尋ねた。
「あなたは、なぜ私を拾ったのですか?」
「……濡れてたから?」
「それだけですか?」
「うん」
「なぜ住む場所をくれたのですか?」
「寒そうやったやったからやな」
「なぜ食べ物を?」
「食べな生きていかれへんやろ」
「では、なぜ、私がこんな生き物でも逃げなかったのです?」
ようやく笹木が少し考えた。
「……ひとりぼっちはあかんやろ」
マキは首をかしげた。
「寂しいのはあかんわ」
「……前にも聞きました。寂しい、とは何ですか?」
「ひとりでおるのが、ちょっとつらいってことや」
マキが考え込む。
きっとマキはずっと「可愛がられるための姿」を考えてきた。それが生存戦略だった。生き延びるために必要だったのだろうし、実際、生存確率は高くなったのだろう。マキは種としての記憶を引き継いでいると言っていた。
マキは――マキたちの種族はずっと、好かれるためには、好かれる姿になればいい。そう思って生きてきたのだ。
なのに。
笹木は、マキを拾ったのは、可愛いからでも好きだったからでもなく、寂しく見えたからだと言う。
「私は長い間一人でした。それは寂しいということで合っていますか?」
ぽつりと言ったマキの頭を、笹木が撫でる。
「それはおまえにしかわからん」
でも、と笹木は続ける。
「俺たちと知り合って、少しは寂しのうなってたらええな。友達がおったら寂しないやろ?」
「友達」
マキが小さく繰り返した。
「私たちは友達ですか?」と尋ねたマキに、笹木は「せやな」と答えた。
秋山は唇の端だけで小さく笑った。
正体の知れない地球外生命体に平気で友達だと言う。
笹木がそういう人間だからこそ、秋山はまだ彼のそばにいられるのだ。
「お世話になりました」
夏の終わりのよく晴れた朝。ベランダから空を見ていたマキがふいに振り返ってそう言った。
「お世話になりましたって……」と言いかけた笹木を遮って、秋山は尋ねる。
「行くのか」
「はい。お別れです」
「もうちょっとおったらええやんか。そんな急がんでも」
「私の命が終わるのです」
笹木が黙り込む。ぎゅっと拳が握りしめられるのが見えた。
「次の種子を生み出して、私は死にます。私たちはそういう生き物なのです。この姿では宇宙は渡れませんから」
「そうやったな」
「悲しいですか?」
「そら悲しいやろ」
「なぜですか?」
「友達やん」
マキが静かに目を瞑った。
「私は、これから種を飛ばします」
「うん」
「この種は、宇宙のどこかへ行きます」
「うん」
「いつか、どこかの星で芽吹くでしょう」
「そやな」
「その星にも、誰かいるでしょうか」
「おるんちゃうかな。おったらええな」
「その人は、私を拾ってくれるでしょうか」
「あたりまえや」
「なぜ?」
「寂しそうにしてたら、誰かが気づくやろ」
そう言った笹木が、まっすぐに秋山を見た。
「……それが、あなたがたの愛というものなのですね」と呟いたマキが、にっこりと笑う。
「では、私は、あなたたちからもらったものを持っていきます」
「何を?」
「遺伝子情報」
秋山は「……それは置いていけ」と額を押さえた。
マキは楽しそうに笑って続ける。
「それから」
「何だ」
「あなたたちがお互いを大切にする気持ち」
「だから、語弊があると」
「マキ。私が初めてもらった名前」
秋山の言葉が終わるのを待たずに続けたマキに、拳をゆっくり開いて笹木が言った。
「……まあ、また地球に来ることがあったら、訪ねてき。そのとき俺はもうおらんかもしれんけど、秋山はおるやろ」
「ひとを化け物みたいに言うな。おまえがいないのに、いるわけないだろう?」
ふふふ、とマキはやわらかく笑う。
明るく、透き通った声が告げた。
「さようなら」
どろりとその姿が溶ける。
太く大きな茎をもつ蔦に似た植物のようなものに変わる。それは鎌首のように蔦をもちあげると、次々をその蔦の先に、真っ白な花が咲かせた。
その花は見る間に枯れると、固く小さくなっていく。ぽうと小さな光がともった。
ぱん! と音を立てて、光が弾ける。
無数の小さな光が宙へと舞った。遠く晴れわたる空へと散っていく。
笹木が「綺麗やなあ」と目を細める。
宙に散ったその光は、やがて夏の終わりの空に溶けて消えた。
ベランダにはもう、何も残っていなかった。
「あいつ、どこまで行くんやろな」
笹木に呟きに、秋山は「さあな」と答えた。
「また、どっかの星でなんかの生き物になるんかな」
「たぶんな」
笹木が笑う。
「また誰かに拾ってもらえるとええな」
秋山も小さく笑みを浮かべると、まだ夏の名残を残す蒼い空を見上げた。
あの種がどこへ行くのかは分からない。
でも、きっとどこかで誰かが拾うだろう。笹木のように。
宇宙をずっと一人で旅してきたマキが、次の星でもまた誰かに愛されるといい。
水のある星。
食べ物のある星。
愛してくれる者がいる星に。
またいつか、たどりつくといい。
水と栄養をもらい、芽吹き、次の種を飛ばし、枯れる。
彼らにとっては、それが何千年、何万年と続いてきた「生きる」ということなのだろう。
そんな生き物の記憶に笹木の小さな親切が刻まれる。
濡れていたら拭く。
水切りカゴを買って、タオルを敷く。
腹が減っていそうと食べ物を買って与える。
ずっと旅してきた名無しの宇宙生命体に名前をつける。
居場所と、食べ物と、友情と――初めての名前。
それがこの先、宇宙のどこかで何千年、何万年と受け継がれていくことを想像したら、秋山はかなり気分が良かった。
マキは次の星で何に擬態するだろう。
犬かもしれない。
猫かもしれない。
ペンギンかもしれない。
誰かの、何かの子どもかもしれない。
まったくわけのわからないものかもしれない。
それでもきっと、マキの中には、見つけて拾ってくれた人がいたという記憶が残っている。
名前をもらい、愛された記憶が。
宇宙の果てまで、その愛は受け継がれていく。
マキがずっと探していたモノは、生命を芽吹かせるために必要なものだった。
でも、生命が願うのは、きっと必要なものだけではない。
誰かが気にかけてくれること。
居てもいいと言ってくれる場所があること。
名前を呼んでくれること。
そういう小さなものが、いつだって生命を生かすのだ。
◇◇◇
マキが宇宙に帰った数日後。
しばらく実家に戻っていた秋山が、笹木を訪ねてきた。
玄関に置かれたものを見て、表情をこわばらせる。
「笹木」
「ん?」
「この、玄関に置いてある箱、何だ?」
「ああ、それ?」
笹木は普通に答えた。
「昨日拾ろうた」
「……何を?」
「卵やなあ」
「卵?」
「たぶん? ようわからん」
「よくわからないものを拾うな!」
秋山が箱をのぞく。
中には、見たこともない巨大な卵が置かれていた。バスタオルがやはり敷かれている。
――ぴしっ。
秋山の見ている前で、卵にひびが走った。
秋山の顔がひきつる。
「笹木」
「ん?」
「おまえ、今度から何か拾う前に必ず俺に相談しろ!」
「なんで?」
「これがやばいものに思えないおまえがやばい!」
「……そうなん?」
「そうなんだよ!」
「でも、もう拾ってもうたしなあ」
笹木が困ったように笑う。
――ぴしっ。
卵に、もう一本ひびが入る音が部屋に響き渡った。




