いまさら?「美の世界」のいびつさ
ネタバレは控えたいので詳細はぼやかすことにするが、映画、『プラダを着た悪魔2』の描写が差別的だとやり玉に挙がったようだ。人種問題と絡むため、話は結構大きい。
そして。暇庭宅男は、何をいまさら。と、最近流行りの冷笑というやつでそれらを見ている。
だいたい、『プラダを着た悪魔』そのものが、美を求める歪な要塞の中のてんやわんやを映したものだろうに。いまさら何を。と暇庭は思ってしまうのだ。
私が、「ああ、ここはそういう美に狂った人たちの要塞なのだ」と気がついたのは、第一作目、名シーンとしても名高い、アン・ハサウェイ演じるアンディが、ベテラン社員のナイジェルからここの刊行する雑誌の何たるかについて切々と説教を受けるシーンだ。
ハッキリ言おう。このシーンのナイジェルのセリフは、仕事をする人間としての暇庭宅男とは絶対に相容れないだろうなと思わせた。
美のためならば部下の頑張りをあっさり袖ににすることも、自分を犠牲にすることも、至極当たり前のことでしょうよとさらりと言い切るナイジェルの語り口に、「ああ、この人たちとは私は絶対に仕事したくないな」と思わされた。
そりゃファッション誌と八百屋では仕事の種類が違う。それはあたりまえだが、誰かのことをハラいっぱいにもできない仕事に就いたナイジェルが、主人公アンディを値踏みするようなことを言う。
「頑張ったのに報われないと思う?OK。なら辞めなさい。この仕事をしたい人間は山ほどいる。美に携わりたいと願いながらそうできない人はたくさんいる」
これがナイジェルの言ったつまるところだ。いやあ、神経を逆なでされるとはあのことだろうと思った。
一体全体どれほど偉いのだ?誰かに向かって君の代わりはいるよと言えるほど偉いのか?「ランウェイ」編集部って。
一緒に働こうという人に対して、美という物差しを使うミランダもナイジェルも本当に無礼だ。
仕事をするなら「こうでなくてはいけない」というある程度の要求はあるものだが、その要求値に対する説明が何もない。
求めるものがハッキリしているくせに、その説明をしようとは絶対にしない。代わりにダメ出しだけは数限りなくある。これがパワハラでなくてなんなのか。
仕事とはボスが「これこれこういうことをしたいので君、こう動いておくれ」と丁寧に言葉で説明しなければならない世界だ。
その労力を厭うことを、能力の多寡でなあなあにするつもりなら、そんなものは商業とは別の場所でやればいい。
ミランダの私財で設けたスタジオで、求道者のようにやりましょうと言うならまだ呑み込めるが、仮にも企業のなかで実生活すら差し出しても求道をやらねばならないって!アホか?とかつて私は思ったし、この度、第2作を友達に誘われて見に行った際にも同じことを思った。
美に命をなげうっても構わないと信じている狂人たちのカルト要塞の中で、アンディがその気質に染まっていくさまが、何でも言っていいならば、そう、グロテスクだった。
暇庭宅男から、嫌がらせの一環で、同じような文脈の映画を挙げてやろう。学生運動をテーマにした『マイ・バック・ページ』だ。ぜひ比較しながら観てみてほしい。ジャーナリスト志望の人間がとある集団の気質に染まっていくという、物語の仕組みが似ていることに気がつくだろう。同じカルトでも共産主義はダメで、ファッションなら良しとされる。こんなバカな話があるだろうか?カルトはよく誰かを見下す。共産主義なら資本主義を見下すし、ファッション誌なら洗練されていない人を見下す。だからカルトなのだ。一定数の人間が全くその狂気に白熱しているところまでソックリである。
学生運動も、『プラダを着た悪魔』も、根底にあるものは変わらない。自らの抱く信念やセンスのために、他人を踏み潰して平気な連中だということだ。『プラダを着た悪魔』の中に、仕事に関するいくつかの心情的エッセンスが入っているように語る人を見たことがあるが、悪ふざけでないなら公衆の場でそれをするのはやめることをオススメする。特に暇庭宅男がそれを聞いてしまった日には、私は底なしの意地悪なので、あなたを泣くまでいじめ抜くかもしれない。
仕事場にはたくさんの人がいて、時により、人により、仕事が第一でなく、自分の生活が第一であることなど実によくあることだ。
金のために仕事をするのだって、無職になると周囲の目が冷たいからなあと嫌々働くのだって、本当はそこに貴賤はない。
だのに、「ランウェイ」の編集部のような狂人の集まりが、無いはずの貴賤をいつの間にか分けてしまう。根っこがそうだから、そのついでに人種による差別が乗っかってくるだけだ。人種うんぬんに今回の炎上の本質はない。「美」という口実をもってヒトに貴賤をつけることをなりわいとするカルトがすべての根源だ。
『プラダ』に心酔するような人は、仕事に自身のすべてを懸けるあり方を無上のものと信じるが、勝手にやってろ。と思う。
先に生活であり、先に自分であり、そのうえにやっと仕事が乗っかって来るのだ。それを尊重しない上長も、企業そのものも、全部潰れてしまえばいい。もしも暇庭がアンディの立場であったら、美にこだわるがゆえに他人を見下して憚らないミランダの顔を、二度とプラダに似合わないようにしてから辞職してやろうとか、不穏な考えが脳裏にいくつだって浮かんでくる。
ああ、癇癪ついでに書いておくが、邦画で近年まれにみる大ヒットを記録した『国宝』も同じことだ。話としての面白さはいいし、誰それの演技が好きでというのもおおいに結構。だが、「美」という言葉でもって貴賤を分けたりするつもりなら暇庭宅男は絶対に容赦しない。この両手の届く範囲にそんな理屈を生かしておくつもりはない。
美に殉じて人生をぶん投げた人。三島由紀夫が歌舞伎の女形を激賞する文章を書いていた事があるが、ああ、そうやって自分の足が接地している、決して格好よくはない現実から逃げてばっかりいるからハラキリで最期を迎えようなんてことを思いつくのね。と、ほとんど罵倒そのもののような感慨を抱いた。
ちょっと脱線したが、いずれにしろ美に人生をなげうって恍惚としているような、虚業の極致のような連中は大嫌いだ。尤も、あちらさんから見れば美を解さず憎まれ口を叩く暇庭のようなドン百姓こそ軽蔑の対象だろう。それならばそれでお互い様だ。何をどうひねってひっくり返そうが、美に狂う人の映画は不快だ。私の人生の周りに、そういうカルトに染まった人間が一人でも少ないことを願わずにいられない。
不機嫌ついでに嫌いな映画の話を書き出してみたらいやこれが書けること書けること。日本全国、アチコチのご老体が、最近の若いもんは……と言うときだけはエネルギッシュになるのはこういうことなんだなと思って苦笑いしてしまった。
もしこれを読んで気分を損ねる方がいらっしゃっれば、暇庭宅男は心の狭い、いかにも創作で出てきそうな閉鎖的な辺境に住む田舎っぺなのだと断じて貰ってかまわない。たぶんそれは事実だ。




