第二章 憧憬のパスポート(1)
■第二章 憧憬のパスポート
憧れていたはずの星間旅行は、最悪の形で幕を開けた 。
『大砲』による砲撃加速と超光速ジャンプ。その想像を絶する重力に押しつぶされながら、僕の脳裏には浦野の笑い声や親父の小料理屋の匂いが浮かんで消えた 。僕はもう、あの日常には帰れない……?
今、僕はあの王女様に捕らえられ、囚人としてエミリアに護送されている。
いつか究極兵器の証拠探しのために宇宙を飛び回る――僕の宇宙旅行の妄想との余りのギャップに、まだ心が追いつかない。
窓代わりのモニターに、地球を支配する惑星アンビリアの巨大な超光速ジャンプ基地が通り過ぎていった。地球を支配するその基地越しに主星を見たとき、思わず奥歯に力がこもった。
そこから、蜘蛛の巣のように張り巡らされた宇宙の航路のどこかに向けて、僕は運ばれていく。
ジャンプの後は次の基地まで通常航行だが、あの王女様ご自慢のマジック推進は、化学推進でもたもた進むほかの船を嘲笑うかのように、すいすいと重力の海を泳いで次の基地へと取りつき、ジャンプを繰り返していく。
そのジャンプの回数だけ、僕の故郷と日常は遠ざかっていく。
それを命じた誰かは、この船のどこかにいるんだろうけど。
いざというとき僕を見捨ててあっさりと首を差し出す誰かさん。
「ああ、信じるんじゃなかった」
そんなことをぽつりとつぶやく。
僕は、やっぱり、地面のある場所にいるべきだったんだ。
最後に通過したジャンプ中継地の名前は、グリゼルダ星間カノン基地と言った。
セレーナのミドルネーム、グリゼルダ。
ここまでの旅、頭の中で王族だの貴族だのの論理がぐるぐると回っていた僕は、おそらくこの星系が、セレーナの出自に大きく関わっているだろうなんてことを想像していた。
僕を裏切った王女様ゆかりの惑星を睨みつけるうちに、ジャンププラットフォームが宇宙船を吸い込み、すっかり慣れた砲撃の加速――それが終わると、僕の目の前のモニターに、テラフォーミングに成功し青い海と緑の大地に覆われた、貴族の論理が支配する惑星エミリアの拡大映像が浮かび上がった。
***
しばらく自室謹慎させられていたセレーナを執務室に呼ぶと、ロッソは、小姓にグラスを準備させ、そこに甘い香りのする蜂蜜酒を注がせて、セレーナと自分の前に置いた。そしてすぐに小姓を下がらせる。部屋は二人きり。
「浅はかでしたな、殿下」
ロッソはグラスを持ち上げ、そこで止める。
それに対し、セレーナは震えながらグラスを手に取り、ほのかに口をつけるが、耐えかねたようにグラスを置いて両手で顔を覆った。
「バカなことをなさいました。わたくしがこの行幸に同行していないものと思っておいででしたな。しかし、エミリア王国の行く末を担うこの身、陛下のおそばにあらぬわけにはいかなかったのです。わたくしが同行せざるとは、彼の国に向けた欺瞞情報でございましたが……まさか殿下がかかるとは」
ロッソはゆっくりとグラスを傾け、半分ほどを喉に流し込んだ。
「殿下、まずは落ち着いてください。殿下のお考えは……よく存じ上げているつもりです。それでもどうにもならぬことがある。エミリア王国三億の民の幸福を預かる身として、こらえていただきとうございます」
「……私はそうして、人形として生涯を過ごすのですね」
「滅相もございません。殿下にはこれから、この上なく重要なお立場を担っていただかなければなりません」
「でも……きっと私の人生は、諦めと閉塞の連続となりましょう。それをただ座して耐えるのは……嫌だったのです」
「耐えることも、我ら上に立つ者のつとめなれば」
それに対し、セレーナは首を小さく横に振った。しかし、何かを言い足そうとはしなかった。
彼女はその脳裏に、王族の権威に踏み潰される小さな少女の姿を再び思い浮かべていた。もう、あのようなものを出したくない、と。
けれども私の世には――ただあきらめの境地にある女王の世には――きっとあのようなものをもっと多く生むことになるかもしれない。
王族であればそれに耐えられようとも、それをあんな小さな少女にまで耐えよというのか。
――私とかかわった人はみんな不幸になる。
そんなことさえ心中でつぶやく。
そして、今まさに不幸に突き落としつつある少年のことを、思う。
「ジュンイチは――あの男はどうなります」
ロッソが、カツリ、とグラスを置く。その反響が消えるのを待ち、
「国法に従い処罰されます」
国法――その言葉に、セレーナの背中に氷柱が走る。
「私が一方的に巻き込んだのです。どうか情状を酌んではやれませんか」
「いいえ。未婚の王族のそばに侍りその純潔を犯し奉った罪は、死罪以外にございません」
「そのようなことは一切! そばに置いたのもたった数時間です! 証拠も出せます!」
「他者の目の無き場所に二人のみとなったことそのものが罪なのです。ご存じでございましょう。六代国王アレッサンドロ一世の第二王女テレーザ様の例を出すまでもありますまい。厳罰に処したからこそレンダーノ候も矛を収めた。間違いがあったかなかったかではないのです」
「でも私にはそのような相手は――」
「ロッソ公爵家公子、つまり我が子アントニオ」
セレーナの顔色が変わる。頬から血色が失せる。
アントニオ・オルテンシオ・グッリェルミネッティ。王弟の嫡子であり、セレーナが王位に着けば次点王位継承権者男子の行く末の伝統として三公筆頭を継ぐ、そのためという名目でロッソ公に養子入りしている。セレーナと婚姻となればまたその運命も変わるが、現時点では彼はれっきとした公子なのである。
「まだ婚約の儀を結んでおらぬとはいえ、婚約者として諸侯の推薦のある我が子であり、王弟殿下の実子でもございます。従兄弟殿に恥をかかせ召されるな」
ロッソは残った蜂蜜酒を一息で流し込んだ。
「ともかく、この船上で裁判というわけにもいきますまい。殿下にとっては表ざたにしにくい件でもあります。王宮での処置となりましょう」
彼女は手で再び顔を覆い、しばらく言葉を失ったが、やがて震える声で、しかし毅然と宣言した。
「あの男は私がとらえた囚人です。私が処置いたします」
***
惑星エミリアで船から降ろされ、王宮の一画にある留置所に拘留された。
拷問どころか尋問も無い。かといって、弁明や弁護の機会も無い。
時折、看守以外の誰かの視線を感じたような気がしたけど、それは静かに去っていった。
そういえば、身分の確認さえされなかった。思い返してみると、僕のIDはセレーナの宇宙船に操縦者証として挿し込んだままだった。
だから、僕は正真正銘、有無を言わせず身元不明の不審者なのだ。
僕はそこで『セレーナ王女囚一号』と呼ばれた。
取り立てて美味くもなくかといってまずいわけでもない、まるで昔の給食を思い出すような食事が、六回供された。見るからにまずそうで食べる気になれなかった。
それでも空腹に負けてまずいパンと塩辛いソーセージをかじっているとき、僕のあの人――セレーナへの怒りが、少しずつ変質していった。
――あの時、摂政を前にして顔を真っ青にした彼女。
自分で選ぶ権利を何もかも奪われ、物の怪のうごめく宮廷で一人きりで戦っている王女。
――あれこそが、彼女の日常なのだ。
彼女を取り巻く様々な力が、彼女から、言葉を、力を、奪っていく。
だから、彼女は僕を犠牲にささげて恭順の意を示すほかなかった。
こんな考えがぐるぐると頭の中を行ったり来たりしているうちに、王宮に着いた夜が更け朝になり昼になりまた夜が来て、それをもう一度繰り返した。
やがて。
エミリアに着いてから二日目の真夜中、王宮の夜の静けさに慣れた僕の耳に、独房の外からの言い争いの声が聞こえてきた。
その声の二つともに聞き覚えがあった。
一つは、この夕方、今日の宿直だと自己紹介していった看守の野太い声。
もう一つは、今の僕の呼び名の第一単語として燦然と輝く女性の高い声だった。
遠くから聞こえていた言い争いは徐々に近くなり、内容が聞き取れるようになってきた。
「……ですから、王女殿下と言えども、囚人に単独で会っていただくわけには……」
「おだまりなさい! あれは私の囚人です。この王宮のいかなる貴族も、私する囚人に対して自由に尋問し処分する権利を有します」
「それでも法というものがございます」
「では王族として法に優越する権利の行使を宣言いたします。不服があるなら今すぐ貴族弾劾裁判の準備をなさい!」
声がそこまで聞こえてきたときに、その声に付きまとっていた足音は僕の独房の前で止まった。
「看守、私は権利行使を宣言しました。開けなさい。裁判は後で受けます」
「王女殿下、どうかご勘弁を、殿下を弾劾など私には……宣言は聞かなかったことにいたしますので、お手短にお願いいたします」
看守がしぶしぶと折れて、部屋の鍵を外す音が聞こえた。
そうして開け放たれた扉の向こうには、例の白無垢正装で凛と立つセレーナ王女殿下の姿があった。
「……看守、しばらく下がっていなさい。必要とあらば……」
「そ、その儀には及びません、どうぞお手短に……」
言いながらそそくさと看守は去っていった。
看守が立ち去るのを確認すると、セレーナは扉をくぐり、後ろ手で扉を閉めた。
ゆっくり僕に近づいてきて、五歩も歩けば僕に手が届くというところで立ち止まり、じっと立っている。
消灯時間後のため暗い常夜灯の下では、彼女がどんな表情なのかも分からなかった。
「ジュンイチ、ごめんなさい……」
声を震わす彼女は、両脇で拳を握りしめていた。
「……自分がこんなに無力だなんて……いいえ、そんなこととっくに分かってたのに……私のせいであなたをこんな目に……」
彼女は小さくそうつぶやき、深くうつむいた。
僕は、彼女に対する恨みの感情など跡形もなく消えていくことに気がついた。
僕の目の前にいるのは、ただのか弱い女の子に過ぎないんだった。
どうしてそれを忘れて、その小さな背中に王族の責任とやらを背負わせようとしたんだろう、僕は。
「気に……しなくていいよ。僕も不注意だったし、君は僕を助けるために、君の手で逮捕したんだろう?」
僕の問いに、セレーナは何度かうなずいた。
ここにきて僕はようやく気がついた。
もしあの時、セレーナが逮捕を命じなければ、僕の虜囚名は『ロッソ公爵囚XX号』になっていたのだ。あのいけ好かないやつが僕の生殺与奪を握ることを考えれば、セレーナに逮捕されたことはなんという幸運だろう。
彼女は、追い詰められたぎりぎりの状況でも、僕を救うための最善手を考えていてくれたのだ。
そこから、彼女が押し黙って何分ぐらいだっただろう。暗闇がすべての音を吸い込んでいるように。
僕には一時間くらいに感じたが、たぶん実際にはほんの数分というところだと思う。
「……ここの暮らしは?」
「まあ、快適だよ、僕の家よりはね」
軽口で返してみたが、僕も彼女も笑わなかった。
「君はその……僕の事で、いろいろとひどい扱いをされてない?」
僕は気になっていることを訊いた。
「うん……、ま、王女の大失態ってことで、まだ当面はいろいろと詮索されそうね」
力なく彼女は答える。
「摂政の民に対する優しさは間違っても私に向けられることは無いって思い知ったわ。今、彼が何をしようとしているか聞いてみる?」
そうして、ようやく愚痴をぶつける相手を見つけたからか、彼女はほのかに怒りをあらわにした。
「どんなことを? 宮殿の権力争いなんて言えば、相手の失態につけ込んで失脚を狙うなんていう話なんだろうけど」
僕が促すと、
「そうよ、だけど、よりによって、私が平民と――その、密通したって言うのよ。信じらんない」
「密通……って?」
とたんに、セレーナがなにやら顔をそっぽに向けて、慌てたような声で、
「馬鹿! 密通ってあれよ、その、あ、あれ、もっと深い男女の関係ってことよ!」
「もっと深……えぇっ」
彼女の言いたいことを理解し、想像した瞬間に顔から火が出た。きっと耳まで真っ赤になっただろうと思う。常夜灯の下でそれをセレーナに見られなかったか気になる。
「前にも言ったかもしれないけど……王女の純潔性は、とても重要なことなのよ」
「そ、それなら僕だって証言を――」
「あなたの出る幕はないわ。証人とか証拠とかって話じゃないの。これ以上は政治の問題。疑われる行動をとった時点で政治的に負け。あとは、私が何を彼らに提案するか。彼らが口を閉じるに十分な何かを、示す必要があるってだけ」
彼女は、たった一人で、こんな政治の駆け引きを生き抜いている。
一方僕は、独房で恨み言をつぶやくだけだ。
そりゃ生まれた立場が違うって言えばそれまでだけど、僕にだって何かできることがないだろうか、と悔しくなる。
「あなたは、自分のことは気にならないの?」
セレーナが言う。
「気にならないってわけじゃないけど……」
今聞いた君の苦悩に比べたら、僕のことなんてすっかり忘れてしまっていた。とは言わなかった。きっと、彼女にとって、平民の僕にこんなみっともない姿をさらす事はこの上ない恥に違いない、と思って。
「ま、二日もこんなところに閉じ込められてちゃ、へこみもするでしょうね」
そして急に僕に近寄り声色を落とし、
「とりあえず、助けに来たのよ。行きましょう。あなただけはこっそり逃がしてあげる」
と僕の耳元でささやいた。
……僕を逃がす、だって?
どういうことだろう。
こんな夜中にこっそり。
つまり、さっきの看守との押し問答のような特権的手段を駆使して僕を王宮から助け出す、そういうことだ。
少なくとも身元も何もばれていない以上、王宮から逃げ出せば、たぶん、それ以上の追跡は無理。
普通の旅行者の顔で地球に帰ることもできるだろうと思う。
セレーナは真剣な目で、僕の返事を待っている。
この魅力的な誘いを受け入れない理由が無いじゃないか?
でも。
看守をどやしつけて身元不明の犯罪者を解き放った誰かさんは、どうなるんだろう。
ふとそう思った次の瞬間、僕は、なぜか頓珍漢な第三の選択肢を口にしていた。
「一緒に逃げよう」
彼女は僕の言葉を聞いて、しばらく表情が固まったまま動かなかった。
ようやく正気に戻ると、
「は、はあ? 何を言ってるの? 私は逃げる必要なんてないのよ。あなた一人がこの王宮から解放されればそれでおしまい。何のお咎めもなく民間の船で地球に帰れるわ」
「じゃあ、残された君はどうするんだ。これまでのいくつかの罪に加えて僕を逃亡させた罪まで一人で背負うつもりか? それで君がどれほどの譲歩をしなきゃならないか……その譲歩が君の一生にどれほど重い鎖を付けてしまうか……」
「そんなこと分かってるわよ。でも私は、王族、王女としての責任があるわ」
「なぜ君だけがそんな責任を負わなきゃならないんだ。君は身分は王女でも、僕から見れば、普通の女の子に過ぎない!」
「ひどい言い様ね! 侮辱だわ!」
彼女は小声なりに言葉を荒らげるが、僕も負けじと、
「必要ならいくらでも侮辱してやる、君が自分を助けると決めない限り」
「私は生まれたときから重荷を背負うことが決まってるの。そんなものあなたごときに変えられないわ。今回も私の不注意で重荷がひとつ増えるだけ」
「だからって黙って受け入れ続けるのか? ずっと?」
「じゃああなたに何ができるって言うの!?」
何ができるか、だって? 気圧されて、視線を下げる。暗い床が目に入る。
「分からないよ、だけど……」
そう、確かに何もできない。
でも、僕にあって彼女に無いもの。
……市民の権利。
貴族に蹂躙されない、地球新連合国市民の地位。
「……地球新連合に一緒に駆け込めばいい、何の警告も無く逮捕された地球市民です、って。王女様はそれを救い出した英雄だ」
母さんは新連合の公務員だし、ちょっとしたツテくらいなら期待できる。
でも彼女は納得しない風だ。
「たかがあなた一人の身のために国を巻き込むなんてやめて」
「たかが? 見くびらないでくれ。僕は新連合国の主権者だ、君のお父さんと同じにね。国家に対する責任と権利で言うなら君よりよっぽど上の立場だと言ってもいい」
「だからって……」
僕の権利主張に、彼女は突然弱々しくつぶやいた。
国を背負う責任を知っているからこそ、僕の言葉に反論が浮かばないのだろうと思う。
正直、ちょっと追い詰めすぎたかな、と感じる。
「その……君を助けるためにも……新連合国から正式な抗議をしてもらうなんてことも……できるんじゃないかと思う……んだけど」
僕の言葉もちょっと尻すぼみ。
いくらツテがあっても、本当にそんなことができるのか、僕にも自信が無い。
セレーナは、しばらく僕の瞳を覗き込んだまま、立ち尽くした。
それから、弱々しい声で言う。
「……どうして……どうしてあなたは、私を憎まないの……?」
彼女の瞳が潤んでいるのが暗い照明の下からでも分かった。
僕は彼女の問いに応えなかった。
「私はずっと嘘をついて、きっとあなたに嫌われるように……騙し続けてきた」
「……そんなこと、大した問題じゃない」
今度は僕ははっきりと答える。
「そうだと思ったから。君はきっと君自身を悪者にして終わらせようとしていると思ったから。……ごめん、さっきはちょっと暴言が過ぎた。だけど、やっと分かったんだ」
それから僕は意を決して、一度、咳払いをして呼吸を整えて。
「窮地の王女様を救いたい。英雄になりたい」
僕は口にした。なぜ、第三の選択肢を口にしたのか、その理由を。
「僕は、飛び立ちたかったんだ。なんでもいい、誰の思惑でもいい、騙されてでもいい。飛び立ちたかった。君はそれをかなえてくれた。僕を騙してこんなところに連れてきてくれた。なのに、それを、君がさっぱりとなかったことにしようとしてたから……いろいろ理屈はこねたけれど、うん、これは、僕のわがまま」
それが僕の口から出てきて、僕自身もようやく、理解できた。
ずっとずっと、空にあこがれていたこと。
それを押しつぶす圧力に抗って、戦いたかったこと。
そして、これこそがそうかもしれない、と思った、王女様との出会い。
魔法の船に乗り魔人をお供に連れた王女様こそ――
僕の、あこがれていた、空、だった。
だから。
僕は、その王女様を救う、騎士に、英雄に、なるんだ、と。
そのチャンスを絶対に逃したくなかった。
だから、一緒に逃げよう、なんてことが、口から出てしまう。
それが知らずに出てしまうほど、僕の空へのあこがれが、強かった。
そのことに、ようやく気付いた。
セレーナが、床に視線を落としたのを感じる。
しん、とした、静かな時間が、ゆっくりと過ぎていく。
「どうせ……考えなんて無いんでしょう?」
言葉を取り戻した彼女は、そんなことを問う。
「もちろん、無い」
僕は正直に答えた。
「そ、安心したわ。あなたに考えがあるなんて言われたら逆に不安だもの。じゃ、お願いするわ」
と、突然顔を上げた彼女は、いつもの強気の彼女だった。
「え、え?」
僕はあわてた。
いや、僕の中では、僕のちっぽけな英雄願望を叶えるために彼女が付き合うなんてことは『ありえない』で決着がついていた。
だから、正直に当てなんてないと答えて、お話はおしまい。
そんなつもりで。
「お願いって……どこへ?」
ちょっと戸惑いながら、問い返す。
「知らないわよ、でも、あなたが一緒に逃げてくれるんでしょう? あなたが行きたいところならどこへでも」
「だって君の立場じゃ新連合に駆け込むなんて……」
「いいのよ。もういいの。そうしないとあなたが自分を助けるって決められないのなら――いえ、そんな言い方は卑怯ね。ちょっと、目が覚めた。あなたにバカにされて。自分を助けるために決断することさえできない弱虫の自分に腹が立った。それだけ」
僕は、ちょっとだけ強気で前向きな彼女が帰ってきたことを、正直に喜んでいた。たとえ言っていることがむちゃくちゃでも、落ち込んですべてをあきらめた彼女より何倍も魅力的で。
その彼女はさっと振り向いて歩みだそうとし、それから、固まっている僕を振り返った。
「なに立ち止まってるのよ。いまさら怖気づいた?」
「まさか。僕が行こうと言ったんだ」
「ふん、そういうことにしといてあげるわ」
そう言って彼女は僕の手を掴むと、自由な世界に向かって一歩を踏み出した。




