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第二章 凍土の黒豹と重力のペテン師(5)


 再び寒風の中を研究所まで歩いて戻り、僕らは、ビクトリアの研究室に通されていた。

 彼女の研究室はとてもよく整理されていて、想像の中の科学者のイメージをひっくり返された。

 例えばアンドリューの部屋は、積み上げた書類の辺が全部違う方位角を持っているわ、明らかに開けてない封筒が床に散らばっているわ(紙の封筒で来る連絡なんてろくでもないものが多いんだろうけど)、本棚のガラス戸は八つのうち三つが開けっ放しだわで、ひどいもんだった。ティーセットだけがピカピカなのが不思議で印象的だったものだ。

 ビクトリアの部屋は、机の上に散らばった書類なんてないし、開けっ放しの本棚も無い。薄ピンクのカーテンは部屋を華やかにしているし、どこからかほのかに良い匂いさえする。

 そんな部屋で、ビクトリアは、机の引き出しを引っ掻き回している。多分、連絡先を探しているんだろう。書類や連絡先をきちんと情報システムで管理しないのは、研究者共通の癖みたいなものなのかな。

 やがて彼女は、小さな紙束がまとめられたバインダーを持ち出してきた。


「これこれ、古い研究者の名簿」


 ほこり一つ付いていないバインダーの表面を、それでも彼女は几帳面にハンカチで払って、僕らのところに持ってきた。


「あの事故を知ってる人となると……」


 彼女はそう言って一枚を取り出し、それをじっと眺めて、少しためらいがちに僕らの方に向けた。


「この人、あまり連絡とってないけれど」


 ルイス・ルーサー、という殴り書きの文字。この人、几帳面そうに見えて字は汚いんだな、なんて的外れなことが頭に浮かび、それから、その名前になんだか見覚えがあるというおかしな考えが次に頭に浮かんだ。


「僕はこの人を知っているかも知れません」


 何の確信も無くそんなことを口に出してみると、


「そりゃそうよ、ここ百年では一番の反重力理論研究者と呼ばれた人よ」


 しかし僕は、マジック研究を始めたばかりの身でどうしてその名前を知っていたのか、合点がいかない。


「ジュンイチ、あなた、マジック理論の入門書買ったって一度見せてくれたわよね」


 僕がしかめっ面をしていると、セレーナが突然声をかけてきた。


「著者」


 あっ。

 思って、端末で入門書を呼び出してみると。

 確かにそうだった。

 僕の買った入門書、『反重力理論の基礎とマジック推進技術の学習』と銘打たれたその本の著者こそ、ルイス・ルーサーだった。


「良くそんなこと覚えてたね」


 僕が思わずセレーナに言うと、


「私はお馬鹿なジュンイチと違って記憶力はいいのよ」


「お馬鹿ってことないだろ、ちょっと忘れていただけさ」


「すぐ忘れることをお馬鹿っていうのよ」


「じゃあ君のお馬鹿じゃない脳みそ一つで課題を解決したらどうだい」


 僕が言い返したところで、ビクトリアが、くすっと笑った。


「仲の良いきょうだいなのね、お二人さん。まるで恋人みたい」


 この血も涙も無い罵りあいを見てこんなことを言うなんて、やっぱり研究者ってのはどこかおかしいんだな、と僕は再認識した。

 改めてビクトリアにルイス・ルーサー向けの手紙を書いてもらい、端末に受け取る。

 彼のいる場所は――。


「ねえ、これ」


 僕は端末に写し取った彼の勤め先をセレーナに示した。


「あっ、エミ……」


 セレーナも理解したが、言葉に出すのを途中でやめた。

 示していた行き先は、惑星ベルナデッダのベルナデッダ反重力研究所だった。

 ベルナデッダ。セレーナの故郷エミリア王国領で、僕がちょっとした大立ち回りを演じたところ。


「あら、そんなことまで知ってるのね。そう、マジック鉱の産地エミリアのお隣よ。マジック技術の頭脳は、最近ではあっちに集まりつつあるみたい」


 と言って、ビクトリアは、寂しそうな顔をした。

 歴史ある研究所が、新しい勢力に圧されて寂れていくことを哀しんでいる、そんな瞳だった。言われてみれば、屋外の実験場では実験の準備らしきものさえ見られなかったし、他の研究者とは一度もすれ違わなかった。

 経済や学問の中心が、こうやって少しずつ世界や宇宙の中をさまようさまは、歴史研究の観点からはとても楽しいテーマなんだけど、それで寂しい思いをしている人を目の前に見ると、なんだかやるせなくなってしまう。


「その……僕がもしその気になったら、きっとビクトリアさんを訪ねてきます」


 慰めともなんとも言えないことを、思わず口にしてしまっていた。


「ふふ、ありがとう、紳士なのね、君は」


 言ってから、彼女はすくっと立ち上がった。


「さ、こんなところに長居するつもりはないんでしょう? 私も研究があるし」


 何かの感情を抑えるように彼女は言う。

 僕らがここに残って彼女の気持ちを慰めるべきなんじゃないか、なんて思ったけれども、それはきっと、とても無礼なことだと思う。

 彼女は一人の大人で、彼女の意志でこの研究所で好きな研究をしている。僕らごときに同情されるなんて、ひどい屈辱に違いない。さっきの僕の言葉は、とても失礼な言葉だったと、今さらながら後悔する。


「ありがとうございます、ビクトリアさん」


「ありがとう、私も楽しかったわ」


 別れの挨拶を交わし、それから僕らは、玄関まで彼女に見送られた。


***


 出発を待っていた次のバスに、僕らは乗った。

 バスは、ガタガタと揺れながら舗装の怪しい道を走る。

 僕はもう一度、振り返って、広い研究所の試験場を眺めた。

 あの穴ぼこは見えなかったけれど、僕に大切なひらめきをくれたことに、心の中でお礼を言う。もちろん、ビクトリアにも。


「なーんか、名残惜しそうね」


 僕の様子を伺っていたセレーナが言った。


「うん、……まあね」


 なぜだろう、僕は、もっとあそこにいて、新しい発見をしたいと思った。僕が歴史以外の学問に興味を持つなんて、とてもおかしなことなのに。


「あなたは、あんな感じが好み?」


「いや、良く分からないけれど」


 僕自身、まだよく分からない。歴史研究家の夢はまだ保留にしたままだし、まだまだ、いろいろ経験してみなくちゃならないな、と思う。


「もしかすると、そうかもしれない、と少しだけ思った」


「ふうーん。ジュンイチは、あんな感じの女の人が好みなんだー」


 へ?

 あまりの驚きに、唾を飲み込み損ねて気管に吸い込み、連続で六回、咳き込んでしまった。


「ぢょ、ちょっと、どうしてそんな話に!?」


「あら、そんな話をしていたつもりでしたけど」


「そ、そんなつもりじゃないよ、違うから」


「どうだか。鼻の下のばして、いやらしーい」


「違うったら!」


 僕の猛抗議にも関わらず、セレーナは半分顔をそむけてにやにやするばかり。すっかりはめられた気分だ。

 バスは淡々と、音を立てて進み、もう後ろに研究所は見えなくなってしまった。


「で? ベルナデッダには、行くの?」


 セレーナは相変わらずの含み笑いを隠さず僕に尋ねた。

 その意図はたぶん分かる。セレーナも、僕が何かを思いついたことに気が付いたんだと思う。

 つまり、今さらベルナデッダを訪ねなくても、もうでっち上げの材料はそろってるだろう? っていう意味だと。


「たぶん、今の段階でも、きっと摂政を納得させるくらいの作り話はできると思う」


 僕は嘘偽りなく、思うところを口にした。


「でしょうね。顔にそう書いてあるわ」


 ガタンと大きな衝撃があり、バスはもう少しましな舗装をされた道路に乗り換えたようだ。


「だけど、あなたの顔にもう一つ書いてあるわよ」


「なんて?」


「『もっと知りたい』って。あなたの知性の欲求。これを逃したら、あなたはきっと後悔する」


 余計なお世話。

 とは言わなかった。

 彼女の理解はとても正しかったから。


「私は、あなたの理学に対する才能を、とても高く評価しているのよ。あなた自身がどう思おうと。この宇宙に二つとない貴重な才能。私はそう思ってるわ」


「よせよ、何かたくらんでるんじゃないかとしか思えないよ」


「もちろんたくらんでるわよ。あなたのせっかくの才能を歴史研究なんて不毛なことに使わせたくないもの。ここいらで後押ししてあげようと思ってね。ベルナデッダでの第一人者との会見は、きっと最高の刺激になると思う」


「歴史研究は不毛なことなんかじゃない」


 僕はちょっと不機嫌になって、そう言い返した。


「あは、ごめん、失言でした。でもあなたの可能性はまだいろんな方向に伸ばせる。今だったらどんな未来でもつかめる。そう思ったら、ね」


 その言い方はなんだかちょっと説教臭くて、思わず、君は僕の母さんかよ、と心の中でツッコミを入れる。

 そう言えば、僕の母さんは、僕の興味や進路のことを、何も言わない。何も言わないというか、いつも僕の考えを尊重してくれた。

 セレーナみたいな、ちょっと押しの強いタイプの母親だったら、僕はどうなってたんだろうな。


「だからって言って、僕の進路やら夢やらを君が好き勝手にいじくるってのはどうかなあ」


「じゃあ、私が隣にいるこのチャンスを逃す? 二度と得られないかもしれない、宇宙のどこにでも行けるドルフィン号を好きに駆れるこのチャンスを」


 そう言われてしまうと、まあなんだか、そんな気もしてくるんだけど、と言っても、やっぱりまずは摂政とのごたごたを終わらせるのが目標だったんだから、とも思う。


「でももしそうだとしても、それはなんだか、僕の未来のために君を道具のように使ってるみたいでばつが悪いじゃないか。そんなことを言うんだったらまず自分のことでも考えてれば良いじゃないか」


「私には……」


 セレーナは何かを言いかけて、僕から顔をそらした。

 彼女の将来?

 僕は考えたことも無かった。

 彼女は将来、何になるんだろう?

 そう、女王か、次の王の母。

 ああ、僕は馬鹿だ。


「……選べる将来なんて、ないもの」


 予想通りの表情で、予想通りの言葉。彼女の小さな口はつぶやいた。

 だから、彼女は僕の未来を口にする。

 きっと、未来を語ることができるってことは、彼女にとってとても貴重で楽しいことなんだろうと思う。


「その……」


 僕はまた、ごめん、と言いそうになって、口をつぐんだ。

 違う言葉を捜すけれど、僕の頭の中には何も無かった。

 でも、セレーナには次の言葉があったようだった。


「あなたが気にすることじゃないわ。私の将来はどっちみち決まってるけど、あなたが選べるどんな未来よりも、はるかに輝かしい未来なのよ」


 宇宙でも指折りの大王国。その女王への道が約束されているから。

 どんな贅沢も、きっと思いのまま。


「本当に馬鹿ね、あなたごときが見られる夢がこの私の未来より勝ることがあると、ちょっとでも思ったのかしら」


 なんだって手に入る。誰だってそばにおける。

 それでも彼女の光にあふれた閉じた未来のことを考えると――

 いいや、ここで僕が憐れんで見せたりしちゃだめだ。


「そうだった、君はあのエミリア王国の王女様。君もひどいな、僕に変な同情心を起こさせるような顔をするんだから」


 こんな場面で、すぐに謝っちゃうことは、彼女をひどく侮辱すること。

 彼女は大人だ。

 僕の同情や慰めが無くても、きちんと自分で立ち直れる。


「あなたを困らせるのはとても楽しいもの」


 きっと、嘘をついてでも、彼女は立ち上がる。

 それでも立ち上がれないときだけ、僕は、手を貸そう。


「僕はおもちゃ扱いかよ」


 僕みたいな何の力も無い人間だって、気を紛らわしたりするくらいの役には立つだろうし。

 それこそ、せっかく出会った縁なんだから、ちょっとくらい役に立ちたいなんてことを考えてもいいじゃないか。

 だから憐れんだりせず、後ろからそっと手を貸せれば、なんて思う。


「さあね、おもちゃなら口ごたえなんてしないし、残念ながら、おもちゃ以下よ」


 ま、せいぜい壊れない程度の遊びで済ませてほしいところではあるけれど。


***


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