第一章 切符と代償(2)
――残る考査が終わって、結局、毛利はどこかに遊びに行き、僕はついていかなかった。終業記念プリンを求める浦野の誘いも断った。
僕は浦野の言葉について考えていた。歴史学者になれたって、宇宙時代の千年紀を採掘するために広い星海に漕ぎ出せるものなんて、地球にはきっといない。
地球の軌道より上は、十光年先の隣国アンビリア共和国のものだ。星間旅行をするための必須施設はアンビリアが支配し、僕ら地球人はその管理下にいる。
地球、『新連合国」は相変わらず宇宙で一番の人口と経済を持つ大国なのに、自らを決して宇宙に飛び出さないように縛っている。
そんな、僕なんかにはあらがいようのない巨大な力が、僕らを縫い付けていて。それにあらがうことが馬鹿馬鹿しくて。
ときどき、みんなが能天気に浮かれているのを見てしまうとき、そんな無力感にとらわれて、なんだか気持ちが萎えてしまって、ごめんって言って誘いを断ってしまう。
そして最後に、いつもこう付け加える。
――こんな日常、壊れてしまえばいいのに。
――。
――。
「着くみたいよ」
そんな声に我に返る。
列車は徐々に速度を落とし始めていた。
隣で、とびきりの美少女が微笑んでいる。
僕の日常を壊すかもしれない、自称王女、セレーナ。
「……あの、セレーナって、実は、本当の王女様?」
少し前に僕がやったように、彼女は肩をすくめてそっぽを向いた。
ああ、これは、根に持ってるな。
そりゃそうだ、彼女の身分を鼻で笑ったんだから。
……自分が情けなくなる。
他人の言葉を斜めに受け取るのは悪い癖だ、とは、最近になって気づいたけれど、それでも、あの態度は無かったな、と。
本当にただ道に迷って困っている女の子だったとしても、あの態度は、無い。
僕がそんな風にうつむいて黙っていると、セレーナは、小さくため息をついた。
「私もそれなりに無茶言った自覚はある。でも、それならそうで、あなたは信じたふりなんてするべきじゃなかったわ。黙って請け負うことなんてないの、返事をするのは何もかも確かめてからでいいんだから」
僕より小さな子に、こんな説教じみたことまで言われて。
あー。情けない。
「……あー、もう、落ち込まないで。私が悪かった。もっとやりようはあった。ちょっと焦ってたの。ね、ごめん」
「いや、いいよ、君が何か精神的な失調の最中にある病人だと勝手に思ってた」
僕が言うと、セレーナは盛大に吹き出した。
「あはははっ、ほんとに!? 失礼な人! でも正直に言ってくれてありがとう。だったら、ね、もうちょっとだけ、その病人に付き合ってくれないかしら、ボランティアだと思って」
そう言われると立つ瀬がない。もう僕は、完全に彼女の掌の上だ。
「それで僕の無礼が少しでも挽回できるなら」
「頼むわよ。あ、それと、今さら殿下は無し」
僕は、うなずいて答えた。
「でも、あんな大金動かすなら相談くらいしてほしかった」
「大金? 何のこと?」
さっきも確認したデバイスを再確認してみると、僕のIDで五百六十万クレジットが決済されている。
「鉄道網貸し切り……贅沢プリン一千万個分……」
僕がぶつぶつと言ってると、
「……もしかして、割とあり得ない金額だったり、する?」
「はい、ニュースでしか見たことない桁でした」
「えっ、あわわ、やば、また家庭教師に叱られちゃう」
ちょうどその時、列車はブレーキ音をたてながら、日比谷駅のホームに止まった。
時間にして二十分。乗り換えのことを考えたら横須賀堀ノ内から日比谷到達の世界記録だと思う。
***
「ここがヒビヤね。で、テイトホテルは?」
改札に向かいながら、そんなことを尋ねられても土地勘のない僕に分かるはずがないので、とりあえず、端末で地図を開く。
「……あ、こっちが近いみたいね」
僕が調べるより速く、セレーナは看板か何かを見たのか、スタスタと歩き出した。
「……で、パーティか何か?」
僕は彼女についていきながら、なんとなく尋ねる機会が無くて放ってあった、彼女の『所用』を今さら尋ねてみた。
「うーん、まあ、吹聴して歩くような人じゃなさそうだから言うけど、今、お父様が会談で一人でこっちへ来ていてね。ちょっと話したいことがあって」
「実のお父さんに? わざわざ遠くまで来て?」
「だからこそよ。最初から説明するのは面倒だけど――」
そう枕詞を置いてから道すがらに彼女が語ってくれたことは、まさにファンタジーだった。
彼女の国、エミリア王国は今、摂政が政務のすべての権限を持ち、国王は象徴に近い存在なのらしい。特に王家の継承に関しては摂政ばかりか数多くの高等貴族と枢機院がその方針を決めようとしているようで、、国王本人や継承者の意思はまるで無視。それでもルールというものがあるから、国王の唯一の娘であるセレーナが第一位継承権者であることには変わりはないのだけれど、そうなると問題は、その相手だ。要するに、セレーナの結婚相手として、例えば自分の子息を送り込むことができれば、その貴族は国父として絶大な権力を持つことになるし、何より、エミリアの三公爵家以外の貴族が宰相や摂政の位に就くにはその方法しかない。つまり、セレーナの結婚相手をめぐってドロドロの権力争い真っ最中であり、セレーナと彼女の父親は、二人だけで面会して結婚相手のことを相談するようなことが無いよう徹底的に隔離され、摂政か枢機院の幹部かの目があるところでしか会話をさせてもらえないのらしい。しかし、今回の東京訪問は国王一人による行幸の一環。つまり、摂政を伴わない今回の行幸は、彼女が父親とそうした問題についての相談をする最大のチャンスというわけだ。
「……でね、王族だけは、それ以下の貴族の決定を覆せる『王族の対法優越権の行使』っていう最終手段があるの。もちろん私にだってあるけれど、摂政閣下はそれに対して弾劾を提起できる。だから、それをさらに覆すために、お父様が優越権を行使するわけよ。お父様の考えを合わせておく必要があるの」
「……摂政様が選ぶ相手が、そんなに嫌なんだ」
僕が問うと、
「……別に、嫌ってほどじゃないんだけど、その従弟の子、摂政様の養子に入っててね、王族同士の婚姻だと共同王権を持つって決まりがあって、その権力でいろいろと……」
あー。あーあー。
なんだかいろいろ察してしまって、苦笑いが浮かぶ。
本当に、歴史の中で何万回も繰り返されてきたドラマ。
王様と外戚による権力闘争。
まさに今、そんな歴史的事実が紡がれようとしている。
僕が何とも言えない表情をしているのに気付いたのか、
「あー、なんかしゃべりすぎちゃった。忘れて。一言で言うと、摂政の言いなりの人形になるなんてやだからいろいろ前提をぶっ壊そうってこと」
突然の砕けた口調に、僕は思わず小さく笑いを漏らした。
つまんない日常なんて壊してしまいたい、と思ってた僕と重なって、なんだか心から彼女の動機を理解できた気がする。
そんな会話をしているうちに、帝都ホテルの威容が視界に入ってくる。
千年以上もの間、この地域での国賓級の訪問者のおもてなしに使われてきたホテルだ。ただ大きいとか綺麗とかではない、なにか得体のしれない迫力のようなものがある。黒曜石を思わせるような光沢と漆黒が同居する外壁と、不規則に並びながらも全体として不思議とバランスの取れた窓の配置。なんだか背中がゾクゾクするようだ。
玄関が見えるくらいの位置には、警官のような恰好の警備員らしき人が立ち、警戒の空気を振りまいている。
僕らが近づくのを止めようとはしなかったけれど、セレーナがいなければあの刺すような視線一つで僕は回れ右していただろう。
それから、セレーナは僕を玄関から少し離れたところで待たせて、一人で入っていった。首尾よくいけば三十分ほどで戻る、と言い置いて。三十分は長いけれど、久々に都会のど真ん中の夜景を生で見るものだから、たぶんあっという間に時間は過ぎるだろう。
そんなことを考えていると、ものの五分でセレーナは戻ってきた。何やら、不機嫌そうな顔で。
「……どうだった」
僕は変な八つ当たりを受ける前に尋ねた。
「お父様はもう発ったあとだったわ。もう少し早ければ。あーもう、どうしてあんな遠くに……」
彼女をあの横須賀の僻地に送り届けた協力者が誰なのかは分からないけれど、大層な不手際をしてしまったということになるだろう。
「もしかして、君をこっちに送ってきた人が、摂政のスパイだったとか」
「ふふっ、そうね、だとしたら、閣下も大したものよ」
彼女は特に否定するでもなく、力なく笑った。
「今頃もう国境越えてるわね……また考えなくちゃ」
言いながら、彼女は、アンチスキャンのケースから僕のIDを取り出して差し出してくる。
「じゃあ……ここで……いいのかな?」
僕はそれを受け取りながら訊いてみると、
「うん、ここでいいわ。ありがと」
なんだかんだでちょっと楽しくなっていたけれど、どうやらこの冒険もここいらでおしまいみたいだ。
この後どうしようかな、せっかくなら少し東京で息抜きでも……でもまだ一度も家に帰ってないしなあ。
「……いやさすがにそれはないわね」
僕の思索の続きのように、セレーナがつぶやく。
「何が?」
「いえ、この後のことで」
東京で息抜き?
なんて話は彼女には関係ない。
彼女は何度か逡巡するようなそぶりを見せた後、ようやく口を開いた。
「例えばの話として聞いて。この後、最悪4、5日付き合ってって言ったら、困るかしら」
「外泊」
「そうなるわね」
国境を越えた王様。王様を追う王女様。4、5日の外泊。
答えは一つしかなくて。
「それはちょっと」
さすがに、いきなり国境を越えた追跡劇に参加するのは。
と、ほぼ即答していた。
「その、お礼だったらなんでも。私個人のクレジットの余力なら、4億クレジットはあるんだけど」
僕の喉がしゃっくりのような音を出した。
4億って。ちょっとした外宇宙の資源商社を丸ごと買収できるような金額だ。
確かに、数百万クレジットを一瞬で動かして鉄道網を占拠するくらいのことはできるみたいだし。
お礼。例えば、――宇宙中を駆け究極兵器の証拠を探すための、宇宙旅行チケット。
昼間の浦野との会話が、頭のどこかにこびりついていたみたいだ。
だけど、それはそれはさすがに今じゃない。僕には何も準備がない。
とりあえず家に帰らなきゃだし。
それから今日のことを親父に話して親父の小料理屋の片付け手伝って。
休みが明けたら学校も行かなきゃならないし、考査の結果も気になるし。
次の学期からも大学に向けた考査を受けて。
来年には行きたい大学を探して。考査結果と折り合いをつけて。大学で職業適性検査を受けて。
「その、ごめん、なにか欲しいってわけでもなくて、その、いきなりいろいろ放り出すわけにもいかなくて……」
僕が言うと、さらにセレーナはうつむきを深くし、何かをこらえるようなしぐさを見せた。
「――そうよね。ごめんなさい。私、あなたのこと何も考えずに好き勝手なことばかり」
あっさり引いたセレーナを見て、僕は逆に、彼女が何を考えているのかを聞いてみたくなった。
「いや、謝ってもらうようなことじゃないよ……そもそも君が何を考えているのかも聞かずに、僕の方こそ」
正直なところ、見た目は飛び切りの美少女と四、五日外泊なんていうシチュエーションに下心が湧かなかったとは言わない。
でも、それとは別に、僕の中に、ちょっとしたもやもやがあった。
いつもいつも、日常はくだらない、って言って空を眺めていたのは誰だろう。
うんざりした日常から逃げ出したいって言ってたのは、どこの誰だろう。
そうして、こんな飛び切りの日常逃避のチャンスが巡って来るやいなや、僕には僕の生活があって、なんてことを言っちゃう自分に、僕自身がちょっと落胆している。
「そうね、簡単に言うと、あなたのIDをかくれみのにして、お父様の先回りをしたいの。今回のお父様の早駆け、たぶんロッソ……摂政閣下が私の動きに気づいていて仕組んでた気がして。居所を知られずに動けるなら、まだ先回りの目はある」
その青い瞳に、赤い炎が灯ったように感じた。
「それに、その、今はまだ……うまく伝えられないんだけど、私がロッソの手に落ちることは、その……国をすごく危うくすることで。私はエミリアが好きなの。守りたいの。助けてほしい」
熱を込めてしゃべるうちに、彼女の瞳は潤みを帯びている。
さっきセレーナが話しかけて口ごもった、摂政の何かのたくらみが、関係あるんだろうな。
確かにただ一人の嫡子を手にした野心家が国を傾ける、なんて話は、歴史を紐解けば枚挙に暇がない。さっきからの話、そのロッソって摂政も、ただ摂政の座に執着しているわけじゃなさそうだ。セレーナの身柄を手にし権威みたいなものを振りかざして何か良からぬことを考えていたっておかしくない。
「……でも、ごめんなさい。私は、あなたの立場を理解するべきでした。ここまで助けていただきありがとうございました。ここで十分です。このご恩は一生忘れません」
セレーナがそう言って右手を僕に差し出した。
彼女が差し出した右手は、別れの握手を求めているのだろう。
ちょっとした王国のちょっとした歴史の転換点に触れて、まあちょっと楽しかったな、と思いながら握り返そうとしたとき。
――白くて華奢な指先が、小さく震えている。
何物も恐れぬ王者の傷一つない指先――のはずなのに。
その小さな震えを見て――僕の中の何かのスイッチが切り替わったことに気づいた。
そして、はっと見上げた彼女の瞳に、決意に似た色を見た。
『たとえ一人でもやり遂げる』
ただの十代半ばの少女がそんなことを心に秘めている。そのために気丈に別れを告げる。
籠の中から飛び出そうともがいている、その姿。
何もかも誰かから押し付けられる『日常』から逃げ出したい、それはきっとセレーナも一緒で。
彼女は、僕と同じように、空に伸ばす手を引っ込めてもよかったはず。
なのに実際に行動に移してこんな右も左も分からない外国まで一人で旅してきたセレーナ。
生活を捨てられない少年を慮って所縁の無い街に一人置いてきぼりにされることを受け入れるセレーナ。
なにか、言いようのない気持ちが、それも、すごく嫌な何かが、おなかの底の方でうごめいている。
僕は一体何をしているのだろう。
僕は、非日常を望んでいたんじゃなかったか。
だから、意味もなく空が見える地上を歩いていたんじゃなかったか。
僕は、そのきっかけを与えられたのに、また手を引っ込めようとしている。
いざ、その何かが起こると急にしり込みしている。
毛利や浦野の小さな誘いさえも断ったように。
セレーナの右手を見つめる。
その右手は、まるで、僕に意気地なし、と告げているようだ。
彼女の丁寧な敬語の正体は、きっと、失望と軽蔑。
たった数日、王女様を守る騎士のまねごと。その程度のこともあなたはできないのよ。
すらりと伸びた右手は、僕に、そんな現実を突きつけている。
――馬鹿にするな。
王女だか何だか知らないけれど。
僕は、差し出された右手を取り、握った。
「さようなら、ジュンイチさん、ではこれで……」
微笑んで言いかける彼女をさえぎり、
「行かないなんて、言ってない。僕を見くびらないでほしい。僕にだって騎士のまねごとくらい、できる」
自分でも、どうしてこんなひねくれた言い方しかできないんだろう、と思わざるを得ない言葉だった。
だけど、僕が今まで感じていた、おなかの底の嫌な気持ちの正体が、言葉になった。
劣等感。
そして、嫉妬。
彼女は至上の存在なんかじゃない。
僕と同じ何もできない子供だ。
なのに、一人で踏み出そうとする姿に対して、気が狂いそうなほどの嫉妬。
だから、僕はその手を取って、偉そうに宣言するのだ。負けない、と。
僕の宣言を聞いた彼女のその顔は驚きだろうか。
大きく見開いた目は、僕の目をしっかりと見ていて。
……?
あっ。
そこで僕は盛大にやらかしたことに気づいた。
妄想の世界にたっぷり漬かっていた僕は、彼女の右手に勝手に侮蔑の意味を付け加えて、僕への決闘の申し込みに変えてしまっていた。
勝手に一世一代の勝負に昇華し、握った右手で勝ち誇って見せたのだ。
これはひどい。我ながらひどい。
顔が真っ赤になるのを感じる。
さすがにうつむいて表情を隠していると、
「……ありがとう」
彼女の小さなつぶやきが聞こえた。
僕が思わず顔を上げると、とたん、セレーナは握ったままだった僕の右手を払うと背筋を伸ばし胸を張った。
「とっ、当然よ、あなたみたいな平民が、このエミリア王女の命令を拒否なんてしようものなら、いくらでもひどい目に合わせてやれんのよ!」
――かなわないな。
きっと彼女は僕の葛藤やらなんやらは全部お見通しなんだろう。
そんな僕が惨めな気持ちにならないように、わざと傲岸不遜にふるまってくれている。
かなわない。
最初から協力させられることは決まってたんだろうな。
でも、まあ、悪くない。
ちょっとした美少女のこんな笑顔が見られたなら、十分に役得というもの。
そんな風に、少し頬を緩めてしまった。
何度も見たはずの東京の夜景は、なんだかいつもより、色鮮やかに見えた。
***




