プロローグ
静寂の中、意識がわずかに揺れる。深い眠りの底から、彼女はゆっくりと浮かび上がる。
鼻腔をくすぐる冷たい空気。深く息を吸い込むと、身体が徐々に覚醒していくのを感じる。霜の冷たさを感じつつ、瞳を開く。視界はまだぼやけていた。
腕を動かそうとすると、僅かに軋む感覚がある。まるで長い間凍っていたかのように。慎重に力を込め、鈍く重い関節を動かしながらゆっくりと上体を起こす。体を横たえていたポッドを掴み、地に足をつき体を支える。不安定だが、歩くことは出来そうだ。
視界の隅で何かが微かに動いた。淡い光の中に、ぼんやりと影が浮かび上がる。長く流れる髪、薄布の揺れ、華奢な体躯の輪郭。彼女は静かに手を動かし、自身の姿をなぞるように指を這わせた。細い肩、しなやかな腕、身に纏った一枚の布。それが自分自身の影であると認識して、ゆっくりと息を吐いた。
そして、周囲を見渡しながら光の射す方へと歩を進める。外に出ると、陽が差し込み、木々の緑が視界いっぱいに広がった。鋭く降り注ぐ光に目を細め、手をかざして影を作る。
振り返ると、かつての施設はすでに廃墟と化していた。崩れた壁の隙間から植物が侵食し、機器は瓦礫に埋もれ、錆びついた金属は輝きを失っている。最早朽ちゆく遺跡と言った方が正しい。
再び前へと歩みを進める。木々の間を抜けて歩くと、水の音と潮の香りがする。さらに進み林を抜けると、視界に広がるのは海だった。穏やかな波が揺れ、太陽の光を反射してきらめいている。視線を落とすと、林と海の間を縫うように細い街道が伸びていた。舗装された道ではなく、踏み固められた土の道。多くの者の行き交った痕跡が残る。視線を右へ、次に左へと滑らせるが、その先には何の変化もない風景が広がっているだけだった。
彼女はその場に立ち、しばし思案に耽る。ここはどこで——いや、今はいつなのか。以前誰かに聞いた風景とあまりにも違う。しかし、考えても答えは出ない。小さく息を吐き、再び林の中を辿ると小川のせせらぎが聞こえてくる。
近づいて水面を覗き込む。澄んではいるが、慎重を期して手の甲に一滴落とし匂いを嗅ぐ。異臭はない。さらに掌で掬い、陽にかざして透明度を確かめる。恐らく遠くに見える山から流れてきているのだろう。問題なさそうだと判断し口元へ運ぶ。冷たい水が喉を潤し、身体の奥へと染み渡る。
ふと視線を上げると、風に揺れる枝が目に留まる。緑葉の間に、小さな赤い果実がいくつかぶら下がっている。近づいて指先でそっと触れると、表面はなめらかで、皮の下にはしっかりとした実の感触がある。じっと見つめるうち、記憶の奥から名前が浮かび上がる——「りんご」。そっと齧ると甘みと酸味が舌に広がり、かすかに懐かしい感覚が胸に湧き上がる。
そして、川面に映る光が揺らめくのをじっと見つめながら、これからどうすべきかを思案する。
ここには研究施設があったはずだ。しかし、長い時間放置されていたかのように、自然に飲まれてしまっている。共に居た研究員達の姿もない。自身を生み出したものは、その痕跡だけを残し、ただ沈黙するのみ。
記憶を辿ろうとしても、どうにも曖昧だ。ただ、自分が何者で、何が出来るかは覚えている。しかし、施設から出たことがなく、世の中がどのようなものか分からない。それらを理解しないままでは、何をするにしても恐れの方が大きい。そもそも、自身が何をすべきなのか。いや、何がしたいのか。今までそんな事は考えたことがない。
巡る思考の渦に飲まれつつ、水面に触れる指先だけが現実を感じさせる。
馬車に揺られながら街道を進む一行。潮風が馬車の幌を揺らし、波の音が微かに聞こえる。道は海沿いに伸び、片側には林が続いていた。
「ん~、退屈だねぇ。ねえフォル、何か面白い話ない?」
風に揺れる栗色の髪を気にすることもなく、少女は弾むように荷台から飛び出し御者台に座る男の背中へと体を預けた。膝に抱えていた白樺の杖が転がるが、気に留めた様子もない。
フォルと呼ばれた青年は、切りそろえられた金色の髪をわずかに揺らしながら、腰の剣にそっと手を添えつつ、反対の手でくすぐったそうに軽く払う。
「ファイナ、顔が近い。景色でも眺めてろよ。たまには自然を愛でるのも悪くないぞ」
「もう見飽きたよ~。退屈すぎる~」
「ほら、ルディアを見てみろ。全力で楽しんでいるじゃないか」
そう言って指で示す先には、片膝を立て、脇には一メートルを優に超える大剣を収める男。その重量を意識することもなく、水袋の口を傾けて喉を潤している。フォルよりもひと回り大きい体躯は、馬車の不規則な揺れに合わせてわずかに傾き、その度に短い灰色の髪が跳ねる。
「そうだぞ。暖かい陽の光を浴びながら、潮騒を聞き、馬車に揺られる。これも良い肴になるってもんだ。なあ、タンザ」
御者台でフォルの隣で手綱を握る女性へと声を掛ける。それに軽く振り向きながら、戒めを含んだ視線を送る。その黒髪が潮風に流れ、陽光を受けて淡い光を纏った。
「私に同意を求めないで…というか、ルディア。昼間からお酒を飲まないでください」
「えぇ、だってお前も飯食う時は必ず酒を飲むだろう?」
「あなたほどお酒が好きなわけではありませんし、今は食事時ではありません」
その瞳がさらに細まると、ルディアはわずかに唇の端を持ち上げながら、軽く息を抜くように肩をすくめた。
「ルディアの場合は、お酒が水代わりだもんね。こないだの報酬もほとんどお酒に消えたんじゃない?」
フォルの背中に腕を置いたまま、ケラケラと笑う。
「傭兵ってのは酒を飲むために依頼をこなしてるんだぞ」
「俺達まで一緒にするなよ。お前と同類に見られるのはごめんだ」
皮肉交じりに言うと、ルディアは豪快に笑い、膝を叩いた。
「ね、お酒はともかく、何か美味しいもの食べたいね。依頼もちゃんと終わったし」
「あの商人、ただの護衛の割に報酬弾んでくれたしな。主にタンザの事しか見てなかったが」
隣に座り前を見据えるその姿に、ちらりと視線を送る。
「興味ありません」
そう言いながら、タンザは腰の細剣の位置を整える。動作に迷いはなく、些細な仕草すら淡々としている。そのにべもない態度に小さく吹き出す面々。
「まあ、どうせ食べるならまともな店を選べよ。前の街みたいに妙な料理に挑戦するのは勘弁だ」
背中の重みを軽く押し返すようにすると、ファイナが慌てて身を起こした。
「それは、だって、変なのあったら気になるじゃん?」
両手を振りながら弁解するその姿に、ルディアが笑い出した。
「あの時のお前の顔面白かったよな。完全に何かの試練だっただろ」
「皆、浮かれすぎですよ。今回のお金は、まず消耗品の補充と、装備品の見直しに使うべきです」
「ま、これも旅の楽しみってやつだろ」
車輪の音、馬の蹄のリズム、仲間たちの笑い声。それらが重なり、旅の時間が緩やかに流れていく。
ふと目を流した先、木々の奥で影が揺れた。
「……なんだ? 人……かな?」
フォルの低い声に、仲間たちが反応する。
「人? こんな所に?」
「鹿か何かじゃないのか?」
ファイナがさらに身を乗り出し、ルディアが首を傾げる。
「……一応確認してみるか。タンザ、馬車を頼む」
フォルは腰の剣を握り、馬車を降りる。それを追う形でファイナも杖を握り、ルディアも大剣を担ぎ、それぞれ後に続く。
「危なそうなら、すぐに戻ってくださいね」
タンザが静かに声をかける。それに軽く手を上げて応え、林の方へ進む。
街道を外れ足を踏み入れた瞬間、何かが彼の歩みを拒んだ。
「……っ?」
何もないはずなのに、体が前へ進まない。まるで見えない膜があるかのように押し戻される。
「なんだ……?」
フォルは戸惑いながら、もう一歩踏み込んだ。すると、不意に抵抗が消え、彼の体は何の妨げもなく林へと入った。しかし、背後では仲間たちが立ち止まっている。
「えっなにこれ!?」
「見えない何か……何だこれ。お前は入れるのか?」
ファイナの戸惑う声が響き、ルディアが拳を叩きつける。それを見たタンザも馬車を降り確認するが、同じく前へ進めない。そして周囲を観察しながら口を開く。
「……そういえば、聞いたことがあります。この大陸にはこういった場所がいくつか存在すると。調査は続いているものの原因は不明で、特に害もないため現状では放置されているとか」
「それが何で俺だけ……」
フォルは振り返り手を前へ伸ばしてみたが、そこには何もない。ただ、仲間たちは確かに前へ進めずにいた。
「……奥へ行ってみる。皆はここで待っていてくれ」
逡巡の余韻を残しつつ、静かに言葉を放つ。
「おい、大丈夫なのか?」
「わからん……が、気になるだろう」
「気をつけてね……!」
「ああ」
ファイナの不安そうな声に短く答え、剣を握りしめる。そして、視線を上げ、確かな足取りで歩み始めた。
フォルは静かに息を吐き、周囲を見渡した。林の奥へと進むにつれ空気が変わる。冷えた大気と共に、周囲に静寂が満ちていく感覚。幾度か振り返ったが、仲間たちは依然として前へ進めないようだ。それに比べ、自分はなぜか抵抗なく歩を進められる。
「……なんだってんだ」
小さく呟きながら目の前の風景に意識を戻すと、先程の人影を見つけた。
静謐の中、少女が静かに小川へと手を伸ばしている。指先が水面をなぞり、揺らめく波紋が光を砕いてゆく。その仕草は慎重で、まるで水の感触を確かめるようだった。
フォルは思わず息を呑む。
降り注ぐ陽光の中、金の髪が静かに揺れ、その輪郭が淡く滲む。細く白い体躯は、緑の影に包まれながらも、曖昧にならず佇んでいる。華奢な手首がそっと動き、肩を包む薄い布がかすかに揺れる。長い睫毛が影を作り、静かな瞳が淡く光を抱いていた。
そして、彼の視線が彼女の耳へと向かう。それは人のものとは違い、優雅で異質な形をしていた。その姿は、伝承に刻まれたエルフの面影を宿していた。
エルフは森の奥深くに住み、人々の前に姿を現すことは殆どない伝説に近い存在。一方で、他の亜人——獣人や魚人といった種族は、人類と共に暮らしている。街でも彼らの姿は珍しくなく、商人として働く獣人の男や、水辺の仕事をする魚人の姿を目にすることもある。
だが、彼女の姿に伝承の影を重ねる一方で、それ以上の何かが彼の胸を揺らしていた。それは説明のつかない感覚だった。その静かな佇まいに、目を奪われる。フォルは知らず知らずのうちに、彼女の姿をじっと見つめていた。その感情が何なのか、自分でも整理できないままに。
気付けば、言葉が漏れていた。
「……お前、エルフなのか?」
少女は視線だけを向け、静かに首を傾げた。
「……わからない」
その声はひどく淡々としていた。それ以上の言葉を紡ぐ気配もなく、ただ指先を水面へと戻す。
フォルはさらに問いを重ねる。
「じゃあ、ここは何だ?なぜ俺だけが入れた?」
ゆっくりと顔を上げ、フォルの目をまっすぐに見据えた。数秒の沈黙の後、彼女は微かに息を吐く。
「……あなたには魔力がないから、だと思う」
フォルは眉を寄せた。
「確かに生まれつき魔法は使えないが…それは、どういう意味だ?」
だが、少女はただ目を伏せて囁くように答える。
「……そういうものらしい」
「……そうか」
これ以上は聞いても答えてくれないだろうという、そんな思いを抱かせる声音。
しばし沈黙が流れる。
フォルの視線は、少女に引き寄せられたまま離すことができなかった。水面をなぞる指先、金色の髪が揺れるたびに踊る陽光。言葉にできない何かが彼の胸の奥で静かに膨らんでいく。それは理由のあるものではなく、ただ心に強く訴えかける感情だった。まるで抗えないほどに。
「……俺は、フォルティトゥード。フォルだ」
少女のそばへと歩み寄り、膝をつく。こちらを見つめる深緑の瞳が、陽の光を受け、まるで宝石のように微かに揺らめいた。
「……アマレ」
微かに息を吐くように言葉を落とす。瞳は揺れることなくこちらを見つめ続けていた。
静かに沈むその瞳に引き込まれる。エメラルドの奥には何も映らず、ただそこにあるだけ——それがかえって目を離せなくさせる。無意識に拳を軽く握る。問いかけるべきことは多いはずなのに、言葉は形にならず喉の奥で滞る。目の前の少女が何者で、ここが何なのか。疑問は尽きない。だが、それ以上に——
「……一緒に来ないか?」
気付けば、言葉が零れていた。それは、考えた末の提案ではなく、自然と口をついたものだった。
言葉とともに、フォルの指が僅かに揺れる。ゆっくりと、躊躇うわけではなく、確かめるように。慎重に手を伸ばし、そっとアマレの指先に触れる。その冷たさにわずかに指を留め、そして、静かにその手を包んだ。微かな温もりが、時間をかけて伝わる。
「……なぜ?」
短い問いが静かに響く。フォルは息を整え、目を細めながら答える。
「……俺にも、よくわからない。けど……そうしたかったから」
それは、理屈ではなく、ただ心の奥にあるものをそのまま言葉にした響きだった。
アマレはフォルの手をじっと見つめる。長い耳が微かに動いた。それは躊躇いか、迷いか。あるいは、ほんの少しの戸惑いか。
少女はしばし逡巡し、ゆっくりと呼吸を整える。
そして——静かに、頷いた。