フタリノヤクソク
「俺には……金のいる事情があってな……。べつに……この女の命を奪おうってわけじゃあない……。貴族様のもとへ行けば、今よりも良い暮らしができるかもしれない……。それなら──そのほうが幸せだろ……?」
アクロの気持ちを無視した男の言葉にセレンは怒る──
「それは違う──! アクロはぼくと一緒に、自由に世界を見てまわるんだ──! だから離せ──!」
男は少し驚いた表情をした後、大きな声で笑い出す──
「自由に世界を見てまわる……か──」
そして──低い声でつぶやくとセレンを鋭く睨みつけた──
「馬鹿みたいな夢を語るな──! お前も、この女も、今まで互いに己の種族の中で虐げられてきたんだろ! 違うか!? お前たち──黒を名に冠する者たちはな──世界のどこへ行ってもそういう扱いを受けるんだ──!」
男はその過酷な人生経験から、この世界で生きることの難しさをよく理解している──
「そんな者たちが外の世界に出たところでなんになる──!? これまで以上に酷い目に合うかもしれない! 理不尽な暴力、偏見に晒され──もっと辛い思いをすることになる! その時──お前はこの女を守れるのか……?」
男には現実を何も知らぬ若者の語る甘い夢が、無性に癇に障った──
「悪いことは言わない……。ここにいれば安全だ。外の世界に憧れを持つのはやめておけ──外に出て何が変わる? いいことなどなにもない──。そんなことはないと──お前に断言できるのか……?」
男は最後に──諭すようにセレンに尋ねた──
セレンは外の世界に憧れを抱いているが、同時に、外の世界のことをなにも知らない──
それは事実だ──
憧れだけでなんの確信もない──
ただ好奇心だけに突き動かされ──そこまで深く考えたことはなかった──
セレンはなにも答えられない──
セレンは沈黙した──
「そんなことはない──!!」
突然──アクロが叫ぶ──!
「聞いて──! セレン──!」
「わたしは──全然、望んだ形ではなかったけれど……外の世界に連れ出されて、今は良かったと思ってる──!」
「だって──決して否定せず、ありのままの自分を認めてくれる人に出会えたんだもの──!」
「だからもう……誰かになにかを言われたって平気──! 大丈夫──!」
「わたしはなによりも大切な──宝物を手に入れたの──!」
「──セレンに出会えたの──! セレンが側にいる──!」
セレンに必死に訴えるアクロの表情は……泣いていた──
笑いながら……泣いていた──
満面の笑みで──嬉し涙を流しながら──
「こんなところで捕まらない──! わたしは必ず──! 家に帰るの──!」
「そしてもう一度、旅に出る──! 自分の目で世界を見てまわる──!」
「でも……それはひとりでじゃない──! セレン──! あなたとふたりでよ──!」
「ふたりで世界を見てまわろうって──! 約束したでしょ──!?」
「セレン!」
セレンの脳裏に──あの穏やかな日の記憶がよみがえる──
ふたりは夢を語りあい──そして──大切な約束をした──
空から──夕日が堕ちようとしている──
あの日──セレンがアクロの髪を切った──穏やかな午後──
「どれくらいの長さに切ればいいの……?」
ナナシの手に、母の形見の裁断鋏が握られている。
「うーん……今のままだと長すぎて……毛先が汚れちゃうから……」
家から持ち出した椅子に、アクロは座っている──
「攫われる前は腰くらいまでの長さだったの……。本当は──その時もかなり伸びちゃってて、肩のあたりまで切る予定だった……。本当に──タイミング悪く捕まっちゃった……」
アクロは手櫛で髪をとかしながら──ため息をついた──
「これからは身軽に動けるようにしておかないと……そのほうがいいと思うし……。でも……かわいくしたいし……」
アクロはほっぺたを膨らませ、くちびるを突き出しながら、足を前後に振って悩んでいる。
「ムウゥ……」
その様子を見て、ナナシは母のアドバイスを思い出していた──
『覚えておきなさい──! 女の子はおしゃれに時間がかかるのよ──!』
──これは……かなり時間がかかりそうだ……。
ナナシはそう思っていたが、アクロは驚くほど早く答えを出す──
「決めた──! 黒猫さん──! バッサリ切って──! 首の長さまで──」
アクロは覚悟を決めた──
「えっ──!? そんなに切るの……? わかった……」
ナナシも覚悟を決めた──ようだ……?
『これは絶対──大切なことよ……! 忘れないで──髪は女の命──!』
天国の母が見ている──失敗は許されない──!
鋏を握るナナシの手が──カタカタと鳴った──
ナナシは慎重に切り進める──が……実は最初はとても大胆に切った──
「せっかくこんなに伸びたんだから──! これ──記念に取っておきましょうよ──!」
そんなことをアクロが言うのだから仕方がない。肩のあたりで髪を紐で縛って、一気に切り落とした。アクロはその髪の毛束を膝の上で触って、嬉しそうにしている──
──失敗しなくって良かった……。
ナナシはひとまず安堵していた──
ナナシがカットに集中して口数が少なくなったところで、アクロも喋らなくなる──
森にチョキチョキ──ハサミの音だけが響く──
ナナシが、しばらく黙って切り進めていると──アクロが小さな声で問いかけて来た──
「黒猫さん……。あなた──ずっとここにいるつもり……?」
ナナシは一瞬──手が止まる──
だが、驚くほど冷静な雰囲気で、またすぐ手を動かす──
ナナシはその答えを──ずっと前から持っている──
アクロは話を続けた──
「わたしには夢があるの……。こんな酷い目にあって──馬鹿だって思うかもしれないけど……」
アクロは下を向いてクルクルと毛束を弄るのをやめて、顔を上げ、左右に思いっきり両手を広げた──
「──わたしは世界中の国を端から端まで全部! 自分の目で確かめたい──! 小さい時からの……わたしの夢なの──!」
夢を語るアクロの表情は、ケラケラとしていて楽しそうだ。
「──お父さんとお母さんが、わたしのことを心配して待ってるはずだから──家に帰るのが先だけどね──」
アクロは両手で椅子の両端を持ち身体を前後に動かして、足をぶらぶらと揺らしながら、ナナシのほうを振り返る──
ナナシはすでに手を止めていた──
「──ねぇ……黒猫さん! わたしと……一緒に来ない──? まずはたくさんのお金と……準備が必要だけど──」
ナナシの答えは最初から決まっている──
「君と同じさ……」
アクロが話しはじめた時から──
「ぼくもずっと……外の世界に憧れてた──」
アクロが──わたしたちは似ていると言った日から──
「いつか世界を見てみたいと思っていた……」
アクロが運命を口にした瞬間──ナナシも運命を感じていた──
あるいは──森で眠るアクロを見つけた時には既に──
「お金のことならぼくがなんとかするよ──! それに、人国までひとりで帰るのは危険だから、君が元気になったらどうにかして家まで送らなければとずっと考えていたんだ……」
ナナシはまかせておけと言わんばかりに胸を張った──
「よかった……!」
アクロは椅子から立ち上がりナナシに抱きつく──
「それじゃあ……まずはお父さんとお母さんにあなたを紹介して……」
アクロが急に抱きつき、下から上目使いでそう言ったので、狙ったわけではなかったのだが……ナナシの顔はまっ赤になった──
「それから──ふたりで世界を旅しましょ!」
ふたりの胸は共鳴し──ドキドキと高鳴る。
「うん──約束だ──!!」
「きっとよ──絶対に──!!」
ふたりは自然と小指を出し合い──結んだ。
「約束するよ──! ぼくは君と一緒に世界を見てまわる! 楽しいふたり旅にしよう──!」
「やったー! ふふっ……」
運命的に出会ったふたりは……この日──とても大切な約束をした──
「ところで……アクロ……。実は……少し短く切りすぎちゃったんだけど……大丈夫かな……?」
やはり、アクロがたくさん動いて大変だったようで、ナナシは申しわけなさそうに頭を掻く。
「ムウゥ……大丈夫──! かわいい! 好きよ! ありがとう! 黒猫さん──」
家から持ち出した鏡で短くなった髪を確認し、笑うアクロをナナシはとても可愛いと思った──