セレン
セレンとアクロが共同生活をはじめて、ひと月がたった頃──ふたりは畑で野菜の収穫をしていた──
「アクロ──! こんなに大きいのが──」
ナナシは大きな芋を両手で持ち上げ、アクロのほうを振り返る──
──アクロ……?
アクロは首から下げた黒い石を、手のひらにのせ──みつめていた──
「ねぇ──アクロ……。時々──君がみつめているその石はなに……?」
ナナシは芋を足もとへ下ろしアクロに歩み寄る──
「この石の名前はセレンディバイト……。とても珍しい宝石よ──黒くて艷やかで、綺麗でしょ──?」
差し出された手の中を、ナナシが覗き込む──
「小さい頃──両親に買ってもらったお守り……。けど──きっと偽物……。スラムの露天商から、とても安く買った物だから……」
アクロはセレンディバイトを両手で大切に握りしめ、胸の前で抱きしめる──
「奴隷商人たちも──それはただの黒い石だ……って、いつも笑っていたわ。わたしがただの石を大切にしてると思って、いつも馬鹿にしてたの……。おかげで奪われることもなかったけどね──!」
すこし自虐的に──アクロは笑う──
「セレンディバイトの石言葉にね、勇気って意味があるんだって……。これも露天商の言葉だから、本当かどうかわからないけれど……。でも、小さい頃から、それを信じて大切にしてるの……」
アクロはセレンディバイトを空にかざして、みつめる──
「辛い時……いつもこれを握りしめるの、そうすると──勇気が湧いてくる──! だから、誰がなんといおうとこれはセレンディバイト──! わたしの宝物──!」
アクロはセレンディバイトを右手で握りしめ、胸に当てると、首を傾げ──ナナシに柔らかく微笑む──
「それは──素敵だね……」
ナナシも微笑み返す──
ふたりの間に──柔らかい──優しい空気が流れた──
「ムウゥ……」
アクロは両手をうしろにまわすと、うつむいて、身体を左右に揺らし、なにか少し──モジモジする──
「……ねぇ──黒猫さん……。ずっと──考えていたことがあるの……」
アクロは小さく深呼吸した後、胸に手を当て、おもむろに口を開いた──
「あなたに出会った時──わたし──名前を教えて欲しいって言ったでしょ? あなたのこと──ちゃんと名前で呼びたくて──」
ナナシはアクロの正面に立ち、優しい表情でその言葉を聞く──
「あなたは……ナナシ──そう答えた。驚いたわ──言葉をなくした……。だって──それは名前じゃ無い──! そんな呼び方……! わたしは間違ってると思う──! だから……今迄──あなたのこと──黒猫さん……って呼んでた……」
アクロの訴える声は──消え入りそうだ──
「……名前が無いのは悲しいこと……。誰にだって、名前は必要よ──! それは誰かに──大切に思われてるってこと──! それはあなたの──世界への存在証明──!」
アクロの言葉が、少しづつ力を増していく──
「誰よりもあなたを愛していたお母様は──悲しかったでしょう……! 苦しかったでしょう……! でも──わたしは猫人じゃない──! そんなくだらない掟──関係ないの──!」
アクロは真剣な眼差しでナナシを見据える──
「あなたに出会った時──その黒く艷やかな毛並みを──美しい──と感じた。それはまるで──セレンディバイトのよう──」
アクロは胸の前でセレンディバイトを両手で握りしめる──
「覚えてて……セレンディバイトの石言葉は──勇気──」
アクロは、ナナシへと両腕を伸ばし手を開く──
「これは──わたしの感謝の気持ち……。親愛なるあなたへの贈り物──」
「あなたの名前は──セレン・ディバイト──」
真剣な表情で想いを伝えたが、急に恥ずかしくなり、アクロは目をつむると両手で顔を隠す──
「それで──セレン──どうかな……?」
広げた指の隙間から目を覗かせ、つぶやくアクロの頬は赤く染まっている──
「セレン……。アクロ──ありがとう……。名前……うれしいよ──! ぼくの名前は──セレン・ディバイト──今からぼくは……セレン──!」
セレンは飛び跳ねて喜ぶ──
「セレン・ディバイト──セレン!」
セレンは生まれてはじめて、世界の中に自分が確かに存在していると感じた──
「うれしい……喜んでくれて……」
目に涙を滲ませ、顔を赤く染め、アクロは笑う──
「良かった……。良かったね──! セレン──!」
アクロの顔は涙でぐちゃぐちゃだ──
──セレン……
「……ねぇ──セレン……?」
アクロが名前を呼ぶ──
「なんだい……? アクロ──」
セレンは満面の笑みで答える──
「……なんでもない……ふふっ……」
──セレン……
──あなたはわたしの宝物……
「行ってくるよ……。アクロ……」
セレンはアクロの枕もとで──やさしく囁く──
日も昇らぬ早朝──アクロはまだ眠っている──
「ムウゥ……。おはよう……セレン……。ごめんなさい──もう行くの……?」
アクロが目を開く──
「……ホワァ……ファ……。ムウゥ……。ネムイ……」
まぶたを擦る──
「……セレン──いって……らっ……しゃい……」
また、目を閉じた──
「……今日は……セレンがいなくて……さみしい……わ……」
ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋める──
「……はやく……帰ってきてね……」
うつ伏せのまま、枕から顔を出すが、目は閉じたまま──
「……美味しい夕飯……作って……待ってる……から……ね……」
基本──食事はふたりで作っているのだが、セレンが街へ働きに出る時はいつも、アクロがひとりで夕飯を作って帰りを待ってくれている──
セレンにはそれが──自分のために作ってくれた特別な料理に感じられて、嬉しい──
「行ってきます──!」
セレンがアクロと一緒に過ごして──数ヶ月が経った──今日は街での仕事の日だ──
──夕食前には帰ってこれるかな……?
アクロはすっかり良くなり──今は普通に生活できている──
自給自足の生活にも慣れ、良く働き、セレンを手伝っていた──
アクロを家にひとり残し働きにでることは、セレンもまだ──少し心配しているが、森へ余所者が来たことなど一度もない──アクロが最初の部外者である──
アクロを家へ連れ入ったのもセレン自身だ──
仕事を斡旋にくる役人も、森の入口までしかこない──
仕事がある時──朝の決まった時間に森の入口にある小屋へ来ている──
毎日──そこへ顔を出すのもセレンの日課だ──
時々──セレンが時間に遅れていっても、仕事の依頼が貼ってある──
この森のスラムのことを知っているのは、猫人国の者たちくらいだ──
誰も──気味悪がって森には近づかない──
なにも無い──森の奥にあるスラム──
あの日の──アクロとの約束──
そのためにも──今はしっかりと稼がないといけない──
母の残してくれたお金は、ほとんど使っていない──
母が自分のために命がけで稼いでくれたお金──母のことを想えば──つまらないことには使いたくはなかった──
生活で必要なお金は自分で稼ぎ、大抵は自給自足でまかなっている──
使うならいつか大きくなって、世界をまわる夢のためにと決めていた──
それでも──まだまだ──たくさんのお金が必要だ──
「セレ〜ン!! いってらっしゃ〜い!!」
セレンがうしろを振り返ると、アクロが家の扉の前で手を振っていた──
「アクロ〜!! おやすみぃ〜!!」
セレンはアクロをからかう──
──ねむたいくせに……無理して起きてきて……
セレンはアクロが二度寝することを知っているのだ──
──今日はなるべく、早く帰ろう……。夕飯が楽しみだ……
「ムウゥーー!!」
アクロはしかめっ面で──ほっぺたを大きく膨らませた──