フタリノセイカツノハジマリ
「アクロ──! 朝食の準備ができたよ──!」
ナナシが家の外から声をかけてきた。
「服は着られたかい……? 問題はない──? 大丈夫だったかい──?」
アクロは涙を拭い──箱を閉じる──
「大丈夫──! 今、開けるわ!」
扉を開けると、漂うチーズのいい香りがアクロの食欲を刺激した。
昨晩と同じように、手に鍋をぶら下げたナナシが立っている。
同時にふたりの目が合う──
「あっ……ど──」
とっさにアクロは顔を伏せ、ナナシに感想を聞こうとする──
「きれいだよ──とっても……。やっぱり、アクロは素敵だ──」
アクロが聞くより先に──ナナシが食い気味に感想を口にした──
アクロが顔を上げると、黄色い瞳はまっすぐ自身を見つめ、キラキラと輝いていて、心からの言葉だとすぐに理解できた──
「……黒猫さんって──本当に素直ね……。あなた──絶対に嘘をつけなさそう!」
アクロは笑う──
「……ねぇ──黒猫さん──」
おなかをかかえて笑った──
「わたしはとっても──うれしいのだけど……」
心の底から──
「あなたそれだと……苦労しそうね──!」
──いつもこんなじゃ……いつか本気で女性を口説く時──黒猫さん、きっと苦労するわ……
確信したアクロは、ナナシの真顔を見ると笑いが出てしまい、止まらなくなった──
──そういえば……わたし──こんなに笑ったのって──いつ以来かしら……?
ナナシは──なんだか、よくわからない……という表情──
たが、楽しそうに笑うアクロを見ていると、なんだか自分も楽しくなり一緒に笑いだす──
「あ〜おっかしい! 黒猫さんったら……。もぉ! 笑ったら、一気におなかが減っちゃった……! 黒猫さん! はやく食事にしましょ!」
はにかんだ笑顔で──アクロはそっと……ナナシの腕を引いた──
ナナシは、人々の悪意によって街から追いだされ、長い時間をひとりで生きることになったが、結果──それ以上、悪意と関わる必要もなく生きることになった──
側にあったのは母の愛、優しさ、正しき教え──見知らぬ世界への憧れ──
ずっと──誰かと深く繋がることを願いながら──
その環境が──ナナシの心を、とても純粋な形に育て上げた──
「ムウゥ……おなかいっぱい……」
アクロはベッドの上で大の字になっている。
──ぼくはいつも──まるくなって寝てるんだけどな……いいな……
ナナシは膨らんだ腹を突き出し、椅子の背にもたれ、伸びをしながらアクロを眺めていた。
──きのうも感じたけど……だれかと一緒に食べる食事って──楽しくて……おいしくて……うれしくて……いつもより食べすぎちゃうな……
朝食はお米に、森で採集したキノコと香草を混ぜて、上からチーズを被せて炊いたリゾットだった。ナナシの一番の好物で、特別な時しか食べない──
今回は──アクロと出会えたお祝いだ──
慣れない量で、ふたり分よりも多く作り過ぎてしまった──
しばらくゆっくりしていると──森が少しづつ──明るくなってきた──
「ねぇ──黒猫さん……。わたし、外に出てみたいのだけれど……。あなたの暮らしを知りたいの、家のまわりを案内してくれないかしら……?」
ナナシは腕を組むと、不安そうな顔をする。
「心配しなくても……大丈夫よ! わたし、もう歩けるから!」
本当は歩くとまだ足が少し痛むのだが、ここまで色々して貰って、ずっと寝ていることはできない。
アクロは何か──手伝いたいと思う──
「わかった……ちょっと待ってて──」
少し考えた後──ナナシは外から、なにか持ってきた。
「これは──母さんの履いていた靴なんだ──」
縦に長く、つま先が横に広がった、変わった形の黒いブーツ。
「猫人は足が大きくて、つま先が広いんだよ。君には大きくて、ぶかぶかだけど……裸足じゃ外を歩けないから……。それで──これを……こうして──下に厚めの布を……重ねて……くっつけて──つま先に……布を……つめて──」
アクロはベッドの上でうつぶせになり、両肘をついて、手の上に顎を乗せ、頭を左右に動かし、膝から先を前後に振って、ナナシの作業を微笑みながら見ている。
「よし! できた! アクロ──ここに足を入れてみて……」
起き上がったアクロが足をとおすと、厚みのある布がクッションになって、痛みをやわらげてくれた。
「あとは──足首の隙間に……布を……詰めて……固定すれば──完成だ──! どう……?」
見た目は不格好──だが、これなら外を歩いても傷口が汚れることはない──
「ぴったりよ──!」
アクロは自信満々の様子──
「ムウゥ〜〜!」
これは上機嫌な時の口癖だ──嬉しい時も、苦しい時も、涙を流す時にも出る口癖だが、違いは表情とテンションで簡単に判別できる。
アクロはとても単純で──わかりやすい──
「さあ──! 出発よ──!」
「ごめんなさい……黒猫さん……」
ナナシに背負われるアクロ──
「大丈夫──! 気にしないで……」
家を出た当初こそ自由に歩いていたアクロだが、やはりまだ──足は万全ではなかった──
「ムウゥ……」
調子に乗って──動きまわったせいでもある──
「それより……ほら──! 着いたよ──!」
ナナシは家から少し離れた場所にあるスラムの中心へとアクロを案内した。古い──崩れた小さな家が乱立している。
歴代のナナシたちの家──ずっと昔から──こんな状態だ──
「これが──スラムの水源になってる井戸だよ──」
石積みの丸い小さな井戸──円錐の屋根が真新しい──ナナシが最近──建て直したのだ──
まん中に滑車があり、通したロープの先に桶をくくりつけてある。アクロが覗きこむと仄暗く、とても深い穴だった。
「水は時々──ここで汲んで、家の大瓶に移しておいて、必要な時に使うよ──飲んだり料理に使ったり──」
ナナシは身振り手振りで説明する──
「ぼくはいつも体は布で拭いてるんだけど、アクロが中に入っても余裕があるくらい大きい桶が家にあるから、それに沸かしたお湯を張れば、お湯で体を洗うこともできるよ……」
アクロはナナシの背中の上で、興味深そうに話を聞く──
「それと……この先の──開けてる所で──」
さらに先に進むと、日光の差す広い場所に出た。
「ここから……ここまでが畑で──季節ごとの野菜を育ててるよ──」
ナナシはアクロを背負ったまま、畑を縦横無尽に動きまわる。
「すごい……!」
畑はとても広く、アクロはたったひとりでナナシが管理していることに驚き、小さく声が漏れた。
「全てを同時に育てているわけじゃないよ……? ほら! あそこは今、芽が出てるだろ? でも、ここはもうひと月待って……それから同じ物を植える。そこは違うものを……。ここはまだまだ先だね……。あそこは今は使ってないよ……」
その後、ナナシの長い説明がつづき──アクロはお腹一杯になった──
「黒猫さん……次へ行こう──」
次へ──
「これが卵を生んでいる鶏だよ──」
次へ──
「この辺りで動物を狩る事もあるよ──」
次──
「……」
次──
「……」
次──
「……」
アクロはナナシの肩に顎を乗せ、とても疲れた様子──
「ムウゥ……」
ナナシは楽しくなって連れまわしてしまい、反省する──
「もうお昼だね……家に戻って食事にしよう──」
「黒猫さん──これは知ってる……? あのね……」
家に戻り、ふたりで昼食を食べながら、アクロはたくさんの──外の世界の知識をナナシに教える。ナナシにはそれがとても楽しく、嬉しかった。だが、話が盛りあがってきた頃──今度は空気が重くなる──
アクロは自分の生い立ちや境遇──そして、奴隷商人たちに攫われ、逃げてここへ辿り着くまでのことを語った──
「……」
小さな家で、ふたりは互いに顔を見合わせ、その表情はどちらも深刻だ──
「……」
ナナシは、アクロと自分の生まれや境遇がとても似ていることに驚き、彼女の置かれた状況に困惑し、なにも言葉にできない──
「……」
しばらくつづいた静寂の後、アクロがおもむろに口を開き、沈黙を破る──
「黒猫さん……わたし──髪を切りたいのだけれど……」
唐突で──意外な申し出──
「黒猫さん──切ってくれないかしら……?」
少し悩んだ後──
ナナシは机の引き出しから、母の使っていた、洋服の裁断バサミを取り出した──