ナナシ
「長い間──話してたから、もう夜になっちゃったね……。このつづきは、また次の機会にしよう……。君はまだ怪我してるんだし──今はしっかり休まないとさ──」
ナナシは椅子に座ったまま、うしろに伸びをした後──立ち上がり、膝の屈伸をはじめた──
「ムウゥ──」
アクロは、ほっぺたを膨らませ下唇を突き出し、拗ねたような表情をナナシに向ける。
「小さな家だし……ぼくは隣のおじさんの家で寝るよ。ベッドもひとつしかないし、君は女の子だからね……。こっちは君が使って──」
アクロはまだ──ナナシと話したい──
「なにかあったら……その窓から声をかけてね。そこから見える隣の家だから、すぐ駆けつけるよ──!」
ナナシは扉の取っ手に手をかける──
「ムウゥ……あっ……え〜っと……そういえば──! 黒猫さんって……と、歳はいくつ──!?」
アクロはナナシを引き止めようと、とっさに思いついた適当な質問を投げた──
「──十七……だよ……?」
ナナシは立ち止まり、背中ごしに答える。
「えっ──!? 本当に──! わたしと一緒よ──! わたしも十七──!」
アクロは嬉しくなり、声が大きくなってしまう。
「えっ──!? そうなんだ……! そっか……近い気はしてたけど……ぼくら、同い年だったんだね……。それじゃあ──おやすみ──アクロ……。また明日──」
ナナシは振り返り、嬉しそうに笑って答えると家を出ようとする。
「ねぇ──! 黒猫さん──!」
しかし、もう一度──アクロはナナシを呼び止めた。
「わたしは好きよ──! あなたの体……黒くて──艷やかで──美しいわ……。わたしね……日の当たる時間よりも暗い夜のほうが好きなの……静かで──やさしくて──なんだか……とても心が落ち着くから……」
ナナシは再びうしろを振り向くと、目を見開いてアクロの言葉を聞く──
「わたし──やさしい黒猫さんに助けてもらえて良かった……! あなたと出会えて、とっても嬉しいの──今、この瞬間を──とても幸せに感じてる──」
アクロは真剣な眼差しで、ナナシに心からの素直な気持ちを伝えた──
「……それに──」
最後になにかを言いかけ、アクロはやめる──
「……それじゃあ……また明日──。おやすみなさい──黒猫さん……」
アクロは顔をまっ赤にして、毛布に顔を埋めた──
「ありがとう……。おやすみ──アクロ……」
ナナシはアクロにやさしく返すと、背中を向け──足早に家を出て、隣家の中へと消える──
「ありがとう……アクロ……。うれしい……とってもうれしいよ……。ありがとう……ありがとう──」
隣家に入り、閉じた扉の裏に背中からもたれるように座り込むと──ナナシは、小さく同じ言葉を繰り返す──ナナシはアクロのかけてくれた、やさしい言葉に、嬉しくて涙が止まらない──
──黒猫さん……あなたとわたしが、こうして出会えたのはきっと──運命よ……
アクロは強く──そう感じていた──
──あなたはわたしを救ってくれた……
──命だけでなく、心まで……
──今度はわたしが……あなたの力になってみせる……!
アクロは強く──強く誓った──
翌朝──目覚まし代わりの鶏の鳴き声が響く──
ベッドで眠るアクロの横顔を、窓から差し込んだ小粒の陽光がてらす──
「ムウゥ……」
アクロは目を擦りながら起き上がる──
いつもなら朝が弱く、こんなに早くには起きられないのだが、森で倒れてから目が覚めるまで、ずっと──眠っていて、昨晩も早く寝たからか、驚くほどすんなり起きられた。
思いっきり欠伸し、背伸びする。毛布をとると、少し──肌寒く感じた。森の奥だからか、あまり朝日が強く差し込まないようだ。
首をまわし、肩をまわす。手櫛で髪を簡単に整える。頭の痛みは消え、熱も下がっているようだ。体のほうは、まだ少し痛みがあるが、立ち上がることぐらいならできそうだった。
「おはよう……。アクロ……」
傍らから──やさしい声がする。アクロが声のほうを向くと、微笑むナナシが椅子をベッドに向けて座っていた。
膝の上になにか──たたんだ布のような物を持っている。机の上には大きな桶、白い清潔な布がたたんで置いてあった──
ナナシは先に起きて、色々と準備し、眠るアクロを静かに見守っていた──
「……おはよう……」
アクロは顔を赤くし、恥ずかしそうに、小さく返す──
「──ナ……黒猫……さん……」
一瞬──アクロは言葉に迷う──
──ちゃんと名前で呼びたい……。でも──〝名無し〟──そんな呼び方は嫌……。
「黒猫さん……わたし、本当はあなたのこと、ちゃんと名前で呼びたい……。でも、ナナシなんて呼び方──したくない……。だから、今はまだ──黒猫さん──って呼ぶのを、許してくれる……?」
アクロは両手の人差し指の先を合わせていじりながら、横目でナナシの反応を気にする。
「大丈夫だよ──! ぼくのこと──アクロが真剣に考えてくれてるって──ちゃんと伝わってるから──」
ナナシが微笑むと、アクロも微笑みを返した。
「アクロ──これ、ぼくの母さんの……。少し大きくて……数着あるんだけど……。とりあえず……君が着てる服と似てるのがあったから──」
アクロはドキドキしながら注目する──
「少し君より背が高かったから……脚が全部──隠れちゃうかもしれないけど──」
ナナシは、たたんで持っていた肩の開いた黒いワンピースを──アクロに手渡す。
「まだ、他にもその箱に入ってるから……。これから──自由に使っていいからね──」
錠が外された例の箱の中には、ナナシのお母さんの私物が大切におさめられていた。
「あと……君を家に運んで治療した時──顔や手足はきれいにしたけど……体には──服は破れてたけど、大きな傷はなさそうだったから……触ってないから──!」
ナナシは顔を伏せて立ち上がり、机のほうを指さす。
「ぼくは外で朝食の準備をするから──君はこれで体をきれいにして、服を着替えるといいよ──」
アクロには、なぜか少し……ナナシが顔を赤くして、焦っているように見えた。
「あと……ゴミはそのかごに……トイレは家の裏に……って、靴もないし……まだ歩けないか……。なにか困ったことがあれば、またぼくを呼んでね……」
ひととおり説明を終え家から出ると、ナナシは扉を閉めた。
アクロはゆっくり立ち上がる──よろけず、まっすぐ立つことができた。ボロボロでまっ黒に汚れた服を脱ぐ──
──これはもう……着られないな……
手足の傷口には、すりつぶした薬草がぬられ、小さな傷口はもう乾いていた。
「痛っ──!」
足には何重にも布が巻いてあり、歩くとまだ少し痛む──
ベッドからはよく見えなかったが、桶にはたっぷりと水が張られていた。アクロの体は傷だらけだが、病気のような物は見当たらない。捕まっていた時は、夜になるといつも濡れた布を与えられ、毎日それで体を拭いていた。病気になると奴隷としての価値が下がるので、清潔にするためそうしろと言われていたのだ。
「ムウゥ〜〜」
アクロは久しぶりに体を拭いて満足すると、ナナシの母の黒いワンピースを着てみる。ナナシ曰く、貧しかったため母の服は全て、彼女自身の手づくりだと言う──
ナナシの母はアクロよりも背が高かったと聞いていたが、ワンピースは意外にも体にピッタリとフィットした。猫人の女性は身長のわりに痩身のようだ──本来、膝丈のワンピースが、着ると脚が見えない長さになる──だが、それが脚の傷を隠してくれた──
部屋の片隅に小さな鏡があり、アクロは確かめてみる──
「素敵──」
アクロはひと目で気に入り、他の服も見てみたい……と思い、箱を開けた──
「……」
しばらくして──
アクロの目から涙があふれだす──
箱の奥に、折りたたまれた紙があり、気になってその中を確かめると、そこにはアクロと同じ黒いワンピースを着た、美しい──白い猫人の女性が描かれていた──
そして──箱の中にはたくさんの服が収められていたが、それらの色は全て──黒一色──
『本当に──愛してくれていたんだ──』
あの瞬間の──確信した眼差しの理由をアクロは理解し──その言葉に、心が共鳴した──