ソトノセカイヘ
夕刻──陰陰たる黒寝子森の最奥──黒影が突風のように駆け抜ける──
泥濘んだ不安定な大地を八爪で切りつけ、木々の枝を鋭利な五爪で切り裂きながら突き進む、背負った木のツタで編まれた籠には、大小の岩が隙間なく詰められており、相当な重さだろう。
数刻程、走り続けた後──青年は定番の水筒を腰から外し、一服して呼吸を整える。
黒い毛並みは変わらず美しく、立ち姿も静かで落ち着いているが、その体格は大きく変化していた。以前よりも太く成長した大腿、岩のようなふくらはぎ、両肩が発達し細く引き締まった腹筋の逆三角、腰に添えた左腕と水を飲む右腕には大きな力こぶが映える。
「よし──次だ──!」
セレンは大木の前に手をつき地面を蹴って倒立し、左腕を腰にまわして右手の指先だけでバランスを取りながら腕立てをはじめる。
フォルンとの約束から二年半──セレンは幾つかのこのような独自に考えた修練を、毎日かかさず続けていた。師事できるような者がいないため戦い方は学べないが、それでも心身を鍛えることはできると考え、我武者羅に己を追い込み続けてきたのだ。
──アクロ……。フォルン──まだ見つからないのか──?
十八歳で大人として認められる猫人の社会で、今日セレンは二十歳を迎える──今夜はその祝いに、フォルンが家を訪問する予定だ。
小さな三角屋根の家の庭に、まだ消したばかりであろう焚き火の薄い白煙がのぼる、明かりが灯った四角い窓に大小の猫人の影が揺らぐ。
「どうだ、美味いか? セレン」
狭い自宅の中では、椅子にフォルン、ベッドにセレンが定位置になっていて、フォルンのうしろの机には普段は食べることのない、鶏肉を使った料理や様々な野菜を使ったサラダ、そして酒が並び、セレンはパンの上にチーズを乗せて焼いた食べ物を摘んでいた。
この調理の仕方は以前アクロに教えて貰った方法で、人国では昔からピザと呼ばれ、祝いの席などでよく食べられているらしい、実物を見たことはないが、その情報からセレンが再現した品だ。
「あぁ……美味しいよ。フォルン……今日はありがとう──」
今日の料理の食材はほとんどフォルンが用意したものだ。肉も酒もチーズも普段セレンには食べられない高級品である。
「セレン、こちらもどうだ──?」
食事をはじめたばかりで既に顔の赤いフォルンは、大きな木のコップに溢れる程の酒を注ぎセレンに渡す。
「ありがとう……いただきます──」
大人になり酒を飲むようになって知ったことは、父の家系はあまり酒に強くなく、母は強かったことだ。セレンはどうやらミレーニアに似ていて強いらしい、フォルンが言うのだから間違いないのだろう。セレンはミレーニアが酒を飲む姿など子どもの頃には一度も見たことがなかったので、最初に聞いた時は以外な話でとても驚いた。
そんなやり取りをしてフォルンはとてもご機嫌なのだが、セレンはずっと──浮かない顔をしている──
酒が入れば元気になるかとフォルンは勧めてみたのだが、アクロのことを考えるとセレンは素直に喜んでいられないのであろうこともわかっている。
「セレン──お前も今日で二十歳か、既に一人前の大人だな」
──本当はもう少し……祝いの席をふたりで楽しみたかったのだがな……
セレンの表情を見ていると、まだ早いが仕方がないと思い、フォルンは意を決して持参した小さな木箱をセレンに手渡す。
「セレン──これは私からの贈り物だ……」
箱の中には顔を全て覆い隠せる大きさの灰色の仮面と、深いフード付きの茶色いマントが入っていた。
「ありがとう──フォルン、これは……?」
贈り物を確認して不思議な顔をしたセレンを見て、フォルンは微笑んでいる。
「それと今日はな……実はお前に、ひとつ良い話を持ってきてな……。いや──私としては悪い話になるがな……」
セレンはもしやと前のめりに身を乗りだす。
「遂に獅子人ガウェインの居場所を突き止めた──」
セレンは勢いよく立ち上がり、ランタンに頭をぶつけたが気にしない。
「本当に──!? フォルン!」
フォルンの両肩を掴み、以前よりも少し太くなった声でセレンは叫んだ。フォルンはセレンの鋭い目つきに息を呑む。
「獅子人ガウェインは、隣国の蜥蜴人国の街で暮らしているようだ。この国の外のことで消息を追うのに時間がかかってしまった……。それに──アクロの行方までは分からなかった。すまない……セレン……」
セレンは嬉々とした表情で、両の拳を強く握った。
「いいんだ……気にしないで、フォルン──ありがとう! アクロのことはガウェインに確かめる! ずっと──この日を待っていたんだ!」
セレンはその場ですぐに旅立ちの準備をはじめる。
「やはり行くのか──? セレン──」
セレンは手を止め、フォルンと向き合う。
「はい──自分なりにできるだけの準備をしてきたつもりです──必ず……アクロを助ける──!」
フォルンの瞳にセレンのまっすぐな姿が、かつてのミレーニアと重なって見えた。
「約束だったからな……。もう大人だ──止めるつもりはない。だが無茶だけはするな!? お前には待っている家族がいるんだぞ……!」
成長したセレンの姿への感動と離れることへの寂しさ、その両方からフォルンの頬に涙が流れた。
「うん! アクロと一緒に、必ず帰って来るよ!」
数日後──森の入口に荷車を引く一台の馬車が止まっている。蜥蜴人国行きの馬車と御者をフォルンが用意してくれたのだ。目的地には早ければひと月程で辿り着ける。
「忘れ物はないか……?」
セレンは先日フォルンから貰った、全身を覆うマントと顔を隠す仮面をしている。国外であっても体の色で差別される可能性はあるので、なるべく不利益を被らないようにというフォルンの気遣いだ。
「うん、大丈夫!」
バッグの中を確認して、セレンはうしろの荷車に飛び乗る。これからアクロを助けに行くというのに不謹慎にも、はじめての外の世界への旅立ちにセレンの胸の鼓動は高鳴ってしまう。
「それじゃあ、行ってくるよ!」
御者が馬の手綱を引き、馬車が動き出す──セレンとフォルンは互いに姿が見えなくなるまで手を振りつづけた。
「ミレーニア……どうかセレンを守ってやってくれ」
空の青さを仰ぎながら、フォルンはそう願った。